軽快な包丁の音と共に、まな板の上の食材が綺麗に切り分けられていく。
刻む音は滞ることなく、食材の数々をまるっきり別の形に揃え続ける。
奥のガス台では、鍋が湯気を立ててかすかに蓋を揺らし、その横ではヤカンがやはり熱い湯気を立ててしゅんしゅんと音を鳴らしている。
「まるで歌ってるみたいね」
不意に背後からわいた声に、サンジはほんの少し目を見開いて手を止めた。
「は? え? あ、なんですか?」
振り返れば、テーブルの上に白い紙を広げたナミがいる。頬杖をついて、どこか楽しそうに自分を見ている姿は完全にリラックスしているのが分かった。
片手に羽ペンを持ったまま、ナミはさらに笑みを深めてサンジを見る瞳を細めた。
「サンジくんが料理しているところ見ると、まるで歌ってるみたいって言ったの」
「…そう…ですか?」
よく分からないといいたげに首を傾げたサンジに、ナミは声にして笑いをこぼした。
「自分じゃよく分からないのかな? 楽しそうに歌ってるみたいよ」
サンジは自分の手元と食材、そしてキッチンを一周するように視線を彷徨わせ、ほんの少しだけ肩を落とした。
「うーん、自分じゃなんとも。どっちかっていうと、キッチンは戦場ってイメージの方が強いくらいだからなぁ」
「まあ、バラティエ見てればねぇ。でも、多分サンジくんはバラティエでも今みたいに歌うように料理してたんでしょうね。見てみたかったかも…って、厨房をお客さんに見せるなんてことまずないでしょうけど」
頬杖から頭を起こし、ナミはペンをにぎり直した。それでも自分が言ったことを想像したのか、もう一度クスリと笑みをこぼす。
「そんなぁああっ、ナミさんの頼みだったら、そんなことくらいわけないですょぉぉお! いくらでも愛の見学
許可乱発です!」
メロリンとハートを飛ばすサンジには見向きもせず、ナミは左手だけでバイバイと手を振る。これがなければ、最高なんだけど、と毎回のことを思うがこれがサンジなのだから仕方がない。
会話は終了、と告げるナミのその仕草だけで、サンジはさらに心臓を高鳴らせながらも自分の仕事に戻ろうとする。なにせサンジは手を止めただけで、まだ仕事の途中なのだ。
止まった音が再開する。
水を流す音。包丁のリズム。ザルに上げた食材を洗う音が交わり、ヤカンの音が消える。ジュッと熱い熱湯を食材に注ぐ音、サンジの靴音。小さな食器の触れ合う音。
音、音、音。
その後ろ姿を横目で見ながら、ナミの口元が笑みを深くする。
自分で自分の姿は見えないものなのかもしれないが、サンジが料理をしている姿を見るのは楽しい。本当に歌でも歌っているかのように、サンジの動きはリズミカルで迷い無く、流れるように動いていく。今日の夕飯が何なのかは分からないが、いつもと同じように美味しいはずだ。
サンジはとても楽しそうに料理をする。
それがきっと音となって、何もかもに伝わるのだ。
目の前の書きかけの海図に視線を戻し、ナミにしか分からない数字の入ったメモを確認した途端、彼女はふと記憶の底に沈んでいた声をよみがえらせた。
「あ、違うわ」
「何がですか?」
ふわっと香る花の匂い。どこか紫色を思わせる優しい湯気とともに、紙の邪魔にならない場所に置かれる一客のカップソーサー。
顔を上げると、サンジが笑ってうやうやしく腰を落とすように自分を見ている。
こうやって、彼はいつも自然に、まるで呼吸をするかのようなさり気なさで、温かい給仕をしてくれる。それもバラティエで身につけた仕草なのだろうか。そういえばバラティエでは、サンジ以外の給仕している人をナミは見かけた記憶があまりない。後で聞いたところによると、丁度給仕が全員やめてしまっていて、コックが自分で作って出しているという不自然な状態だったらしい。
どうりであの時のバラティエはコック服の人達が客席をうろついていたわけだ。
「ありがとうサンジくん」
「いいえぇっ! 喜んでもらえて幸せッ!」
「…それはどうでもいいのよ。でもお茶は嬉しい。余計なことばかり思い出すから、海図書くの諦めようかと思ってたのよ。ホントに」
ため息をつくナミに、サンジはほんの少しだけ目を見開いた。
「珍しいね。ナミさんが海図書くのを諦めるなんて」
「うーん。たまには集中力が切れることだってあるわよ。普段はこっちがどんなに集中しようとしても、そうさせない事態が多いのにね。たまに集中できる環境があると返って集中できないなんて、くやしいったら」
近くに座っても? と仕草で確認を取るサンジに、ナミも仕草で、どうぞ? と近くの椅子を指し示す。
サンジはそっと椅子を引き出すと、ナミの隣に座った。
「仕込みはいいの?」
「はい。ほとんど終わりましたから。今日はスペシャルですよっ!」
「それは楽しみだわ。サンジくんのご飯は美味しいもん。これも、美味しいしね」
最近ナミのお気に入りのフレーバーティ。前に立ち寄った島でサンジが仕入れてきた紅茶だ。最初に煎れてくれた時は、突然襲った小さな嵐を切り抜けた後だった。
優しい香りと舌にそっと寄り添うような甘みが疲れた身体にとても染みて、なんだか泣きたくなったのを覚えている。それだけ疲れていたのかもしれない。その疲れに、サンジのお茶はとても柔らかく寄り添ってくれたのだ。
嬉しそうに笑うサンジは、とても自分より年上だとは思えない。
金色の髪、青い瞳。ほんの少し生やした顎のひげ。顔の形も造作も、イーストブルーの自分たちとは違って、細い印象があるが、だからといって男らしくないわけではない。いつも人のことばかりを心配する、行動力のある、でも困った癖を持つ女好きの…コックさん。
「で? 何にそんなに困ってるの?」
今だって、ナミのことばかり考えている。ナミは笑った。何かを思い出すように。
「困ってるっていうんじゃないの。思い出したのよ。さっき私サンジくんのこと歌ってるみたいって言ったでしょ? あれ、最初に言ったの私じゃなかったなと思って」
ナミは暖かいカップを取ると、そっと口をつけた。
そういえば以前、ビビがいた頃のことだ。夜に眠れなくてラウンジの傍を通った時に、出くわしたサンジにホットレモンを入れて貰ったことがあると、嬉しそうに言っていたことがあった。あれは確か、もうすぐアラバスタにつくという頃だったか。多分、故郷を前に気が逸っていたのであろう彼女は、その話をしてくれた時には随分と落ち着いた様子を見せていた。
彼女を落ち着かせた、一杯の飲み物。
そのたった一杯のお茶で人を安らがせることができるサンジに、感心したのも覚えている。
今も、自分の雑多な思考をなだめるように、サンジのお茶が自分の喉を潤す。
「え? 誰? そんな俺のこと思ってくれてるレディは!」
勢い込んで身を乗り出すサンジをうっとおしそうに押しのけ、ナミは半眼でサンジを流し見た。
「女じゃないわよ。男よ。それも以外な奴よ。ゾロよ」
何かのついでのようにそう言うと、サンジは何を言われたのかと一瞬視線を空中に漂わせ、それからちらりとナミを伺うように見、嫌そうにテーブルにずるずると懐いた。
「あああああ? ぞろぉっ? なんの嫌がらせですか、それは!」
両手でカップを持ったままテーブルに両肘をつき、ナミはどこか遠くを見るように顔を上げた。
「うーん、いつ頃だったかなぁ。確か…サンジくんがこの船に乗って…ええっと、そんなにたってなくって…そうそうココヤシ村を出て暫くしてからだったわよ。ほら、雨が続いてみんなで腐ってここに集まっていた時があったじゃない」
うーん、とうなりつつ、サンジも記憶を掘り起こしているようだった。
そういえばそんなこともあった気がする。ココヤシ村で食料はたんと仕入れていた。ほとんどが村人の心づくしで、ナミにと蜜柑の香辛料などを彼女の姉であるノジコからも色々と貰った記憶が鮮明にある。まだそのいくつか船の倉庫に残っている。
あの頃、サンジは新しい自分のキッチンに自分をなじませるように料理を作っていた。
そう、そんな時に雨がいつまでも続いて、いつしかこのラウンジに皆が集まって日がな一日のさばりまくっていた時期が確かにあった。
「…そういえば、あったなぁ…そんな時期が」
「でしょ? あの時よ。壁際で寝てたあいつが、珍しく起き出してきたかと思ったら、サンジくん見て言った
のよ」
歌でもうたってるみたいだな、あのコックは。
何を言っているのか? と最初は思った。
ナミにしてみれば、なんのことなのかさっぱり分からなかったのだ。
普通に料理をしていると思っていたサンジくんが、歌?
サンジが鼻歌でも歌っていればすぐにでも相づちを打つこともできただろう。が、あいにく彼は歌ってなどいなかった。それどころか、背後でやかましく騒ぐルフィを怒鳴りつけながら、たまに足を出したりしてそれでも忙しなく手を動かしていた。たまに大口開けて笑ったりして、どこが歌ってるのか? と思ったくらいだ。
「でもね、ゾロがそう言うことの方が珍しいから、その時は「あんたも大概変よね」って言ったんだけど」
「ナイスです、ナミさん。あいつはいつも変ですからね!」
「はいはい、それもいつものことよ。まあ、その時はそれだけで、あいつ嫌そうな顔して酒取ろうとしてサンジくんに跳び蹴りもらってたけどね」
声を出して笑うサンジに、ナミもつられたように笑う。
「でもねぇ、さっき思ったんだけど、あいつが言うの、間違ってはいなかったのかもなぁ。サンジくんが料理しているところって、本当に歌ってるみたい」
流れるように、リズムがある。
色々なものがたてる音。サンジがたてる音。そしてその間を縫うように動くサンジの腕、身体。食器のなる甲高い音や低温の鍋の音。煮える食材、水道から落ちる水の音。
そのどれもがサンジの動きにそっていて、振られるタクト先の楽器のように綺麗な和音を奏でる。
そして、その中心で動くサンジ。
気持ちよさそうに、動き続けるサンジ。
「全身で、本当に気持ちよく…歌ってるみたい…」
「ナミさん」
とまどうような呼び声に、ナミはカップを抱えたまま、肩越しに柔らかくサンジを見た。
「サンジくんが歌ってるの、最初に見つけたのがゾロって……なんか悔しいわ」
困ったように眉を下げるサンジに、ナミはそのまま微笑んだ。
「あいつって、本当にそういうの見つけるの得意よね。あーんなに変な体力バカなのに」
「どっちかって言うと、俺はナミさんがどうしてそんなにあいつのことを分かっているのか、が気になりますけどね」
憤然と言い放つサンジに、ナミは呆れたようなため息をついた。
「あいつとは、サンジくんより長いもの。ほんの少しだとしてもね。濃かったのよ、サンジくんに出会うまでも。出会ってからも。あの頃って…そうね、思い出したくもないくらいに、濃かったわ…」
心底嫌そうに、しかしどこか楽しそうにナミは呟く。
その姿に、サンジはほんの少しだけ息を呑んだ。自分がナミ達と出会う前のことは、ウソップやこのナミから少しづつ聞き出したことはある。ルフィの話はあまりにもあちこちに飛んでいる上に、主観的すぎて理解しにくかった。その上、話を鵜呑みにするにもどうしもて怪しい。ゾロにいたってはそういう過去の話をすることもない。
でも確かに、自分に合うほんの少し前の間に彼らは出会い、言葉で聞くよりも濃い時間を過ごしていたのだろう。それは自分と彼らの出会いや、その後のナミとの出会いを思い出しても良く分かる。
「…確かに…濃かったですね…」
「ルフィなんか最悪に濃かったわ…なのにあの濃いルフィ・ゾロが一番最初に出会ってるってのが、恐ろしいわよ。あの二人の出会い話聞いて身震いしたもの。冗談じゃないわ。濃すぎて嫌」
「あいつらの最初? そういや、考えたこともなかった。一生聞かずにおこう。うん」
「それが賢明よ。それにそんな過去のことなんか目じゃないくらい、どうせこれからも濃いのよ」
二人は目を合わすと、同時に吹き出した。
暫く息も絶え絶えになるくらい笑い合う。
あまりの爆笑ぶりに、いつの間にやってきたのか、他の面々がドアの前で呆れたようにこちらを見ていた。
「お前ら、何狂ったように笑ってるんだ?」
困惑したように呟くウソップに、二人は涙を流しながら手を振る。
それしかできなかったと言った方が正しいのかもしれない。
「サンジぃ笑ってないで、腹減ったぁっ!」
喚くルフィがラウンジに入ってくる。それに合わせるように、ロビンが微笑みながら足を踏み入れ「楽しそう
なところごめんなさい。お茶をもらっていいかしら?」とサンジを見る。
チョッパーが「俺も欲しいぞ!」と小さな背で一生懸命椅子によじ登ろうとするのを、背後からひょいと持ち上げたゾロが手伝ってやる。
いつの間にか、あっという間に、全員集合だ。
「おう、待ってろ。今煎れてやる。ロビンちゃ〜ん、スペシャルなの煎れるから待ってて〜♪」
立ち上がりシンクに向かおうとするサンジの横で、ゾロが酒、と呟いて膝蹴りを受けた。
いつもの煩い日常が流れ出す。
そして、サンジの身体が定位置につく。
無意識なのだろう。そこで、一つ、大きく息を吐く。
ナミはそんなサンジを見た。そして、自分の席につくゾロがあくびをしながら、サンジの姿を同じように見るのも、視界の隅にいれる。
「…さあ、名演を堪能しましょうか」
ナミの呟きに、ふとゾロがこちらを見る。ナミはゾロを見返した。彼女のその口元に、共犯者めいた笑みが登る。
「そうだな」
意外な呟きが返事のように返り、ナミは笑みを深める。ゾロの口元にも、似たような…しかしどこか鋭さを
示す笑みが登る。
おもむろに、彼が動き出す。
湯を沸かすのだろう、新しい水をケトルに注ぎ、ガス台に向かう。
鳴り響く、音の連打。
その間を動く、彼の身体。
そして始まる彼の歌。
ずっと聞いていたい、彼の歌。
日常が当然のようにあふれ出す。ゴーイング・メリー号での、それはいたって普通の出来事。
思い返すことすら忘れてしまうであろう、ありふれた日常の連なり。
「本当に、濃いんだから」
新たに入れ替えられたカップを差し出され、ナミは笑う。
「そうですねぇ」
お互いにしか分からない、共通の言葉で相づちを打つ、歌う人を見上げながら。
終了(2005.5.12)
2005年の友人のBDに捧げた代物。
サンジとゾロを会話させて、というリクエストがあったが、まったく無視された。
なんでかな? 会話しない…というか今回チラと出ただけじゃん剣豪…。
サンジラブの友人に捧げる為に書いた代物だけど、サンジは職人だと思うのでこんなサンジのステージでの舞闘話。
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