今でも、時折思い出す。
 あの1日。
 あの日は…多分自分の人生の中で一番、叫び出しそうな混乱と激情と歓喜と不安と絶望と安堵の渦の中にあった。
 長く…暗く、そして明けないのではないかと思えた夜の続く日々。それがたった1日で明けたことに対する、不思議な失望もあった気がする。
 けれど、終わりとはそういうものかもしれない。
 終焉というものは、きっと少しずつ形を表さずに進み、ある時を境にいっきに訪れるのだろう。
 人にその時期を計ることは、まず難しいけれど。
 そう。
 終焉の形は、人だった。
 不意に現れた、麦わら帽子の少年達。
 出逢えたことが奇跡だと思わずにはいられない。
 それまでの苦難を思わす程、明ける寸前は暗かった。だからだと思う。自分は迷った。迷走していた、と今考えても思う。
 けれど、あの時のあの瞬間に戻れば、やはり自分は同じことをしたのだろう。
 未来を知らない自分は、精一杯だったのだ。なにもかもに。
 すべてを背負った気でいた。それを重いとも考える暇もなかった。実は、周りの人々にその覚悟すらも支えられていたのだと知った時、本当の意味で覚悟が決まった。
 それを教えてくれたのも、終焉をもたらした人物達だった。



舞闘 4
[海図]



 夕食が終わって暫くすると、キッチンのある一室は和やかな談笑の場になる。
 一旦は外に出た者達がいつの間にかまた集まり、銘々思い思いにくつろぎだすからだ。そこにはこの船のコックであるサンジの手で柔らかな味のする飲み物が用意され、集う面々を優しい団欒に導いてくれている。
「はい、ナミさん。こぼさないようにね」
 一心に海図を書き込んでいるナミの気を散らさないように、そっと脇にグラスを置く。
 それに微かに頷いて返し、それだけでは不十分だと思ったのかナミは顔を上げた。
「ありがとう、サンジくん。あ、チョッパーごめん、邪魔にならない?」
 顔を上げたことで、リビングのテーブルのほとんどを自分が占領していたことに気付いたナミが、慌てて声をかける。端で静かに本を読んでいたぬいぐるみのようなトナカイの船医が楽しそうに声をあげて笑った。
「気にしないでいいよ。おれ、今本読んでるだけだから。それ、この間の島?」
 ピンクの帽子を揺らして不思議そうに尋ねてくる船医に、ナミは微笑んだ。
「そうよ。早いうちに書いておかないとね。なんか整理しなくちゃいけない資料が山のようになってきたから、簡単なものからまとめておこうと思って」
「それが簡単なのかよ…相変わらずすげぇな、ナミ」
 床上で工場とは名ばかりの今はガラクタいじりをしていたウソップが、ぼそりと呟く。と、その横でガラクタを興味深そうに眺めていた考古学者が小さく笑った。
「簡単じゃない。いたって素直な島だったもん。調べた限りじゃ複雑な海底をしているわけじゃなかったし、島自体も複雑な形はしていなかったし、何より小さかったから測量もしやすかったしね」
「一生懸命なナミさんは素敵だったなぁああ」
 でれっと身をよじるサンジは、そういえば測量の間ひたすらナミの荷物持ちをさせられていた。
 まあ、それが幸せというのなら他人が口を挟む必要はあるまい、とその場にいた全員は黙ってハートを飛ばしまくるサンジからは目をそらした。
 船が小さく軋む音が今日は大きく響いている。不意に大きく船が揺れ、ナミは顔をしかめた。
「おい、ナミ」
 前触れもなく扉が開き、入ってきたのは緑の髪をびっしょりと濡らした剣士だった。
「雨?」
「違う。ルフィに見張り台から水かけられた。誰だ、見張り台に掃除バケツ置きっぱなしにしてたのは」
 唸るゾロに、あっ、と声を上げたのはウソップだった。
「わりぃ、俺だ! うわー、すまん、ゾロ。昼間あそこ拭いた時にそのままだったんだ!」
 拝み倒しながら、手元に持っていたタオルを投げる。それを器用に掴み、憮然としながらも頭に
被って大きな手でわし掴むように拭き取りながら、ゾロはナミへと視線を定めた。
「白波が立ちだした。今ルフィが見てるが、波も高くなってきてる。そうなったら呼べって言ったろ? どうする?」
「どうするもこうするも」
 言いながら立ち上がり、ナミは海図を手早くまとめて置くとドアに向けて歩き出した。
「私が見なきゃ話しにならないでしょう。…予想より早かったなぁ。夜中くらいになるかと思ったんだけど。風は? 強く吹いてる?」
「ああ、音だけがなんかするな。あんまり強いという感じじゃないが…」
「そうなの?」
 言いながら外に出ようとして、ナミは立ち止まった。
 開け放した扉の奥には真っ直ぐに立つマストが闇の中でも更に濃く、影のように見えている。吹き込んで来る風はあまりないが、風の音だけが確かにわずかに強く聞こえてくる。
 帆はめいっぱいに膨らんで、時折大きくうねっていた。
「どうしたの? ナミさん」
 立ちつくすナミに、不思議そうにサンジが声をかけたがナミは聞いていないようだった。
 ただ、闇の奥の様子を伺うように耳を澄ませ、隣にいたゾロを見上げた。
「…あんた、さっきどこにいてルフィに水かけられたの?」
「あ? なんだ?」
「いいから、教えて!」
 きつく見上げるナミに、ゾロは前方甲板の方を指さした。
「あの辺だな。メリーに頭向けて寝そべってたからな」
「北東の風だわ! ここはそんなに風がある風でもないのに、マストからの水があそこまで届くとなれば…」
 ナミは一気に駆け出すと、マストの上の見張り台の人物に向かって叫んだ。
「ルフィ! 私を持ち上げて!」
 ひょいと見張り台から顔を出した少年から、「おうっ!」という威勢の良い声が返り、間延びした影のような腕が伸びてきて、あっさりと少女の腰を掴んで持ち上げた。
 一息にナミの躰が宙を泳ぎ、意外な程の正確さで彼女は見張り台の上に立った。
 ナミの剣幕に、キッチンにいた全員がマストの下に集まる。
 ルフィに支えられたまま強風にさらされたナミは巻き上がった風になびく髪を手で押さえると、風の吹く方へと躰ごとむけた。
 まるで風の正体を掴もうとするかのごとく、じっと風の方向を見定め、ナミは腕につけているログポースを眼前にもっていく。
「位置はあってる。でも…雲は…」
 ほぼ半円の月が丁度目線の高さに上がってきているところだった。
 星の瞬きは、ところどころにちぎれ浮く雲の流れに邪魔されたり、現れたりとある種壮大な毎日の天空ショーを繰り広げている。
 じっと空を眺めながら、ナミは背後に立っている温もりに向かって小さく囁いた。
「ルフィ」
「なんだ?」
「全力で、九時の方角に方向転換!! 一時的かもしれないけど、嫌な乱気流が生まれるわ! 回避するわよ!」
 おう! と返事をすると同時に、ルフィの腕がマストに伸びる。
「任せたぞ! 指示してくれ!」
 にかっと笑うその大らかで天真爛漫な笑顔を残し、ルフィの躰は飛び出していく。
「やろーどもー! 九時の方向に転換だー!」
 下から威勢のいい声と共に飛び出す男共の姿が見える。何も言わなくても、何をすればいいのか分かっている者達の動きは惑いもなくなめらかだ。
 反対側のマストの端に陣取ったルフィが、いつしか解けかけていたらしい帆布の端を引っ張って張り直しているのを目の端に納めながら、ナミは微笑んだ。
 本当に、いつの間に。
 こんなに当たり前のように、全員が動くようになっていったのだろう。
 見えないと言われる風の流れを全身で見つめ、自分にだけ分かるらしい流れに意識を向ける。
「面舵! 九時の方向よ、風は北東! 後方マストは左舷の風を受けて!! 上と下とで、風の流れが変わるからそっちははりついてて! 流されるわよ!!」
 叫ぶ声に反応する動きは素早い。後方にいるのはゾロだ。
 なら力業は平気だろうと下を見ると、ラウンジにある小さな羊頭のついた舵には、ウソップがかじりついている。
 左右のロープにはチョッパーとサンジ、そしていつしか下りていたルフィがチョッパーの方についている。
 見事な配置。
 船が慌ただしく動いて向きを変える、下を見れば夜の海面はまだ静かだが、妙な筋が見える。
 思わずチッと舌打ちした。どうも嫌な予感がする。もしかしたら、この海域の特徴なのかもしれないが、この風と同時に、乱れた海流が幾筋もあるらしい。
「揺れるわよ!あんたたち!踏ん張りなさいよ!!」
 指示を出す声を届けるのはロビンがやってくれていた。わずかに香る花の香りが、その存在を知らせてくれる。
 ぐっと手すりを掴む掌に力を込め、自分も足を踏ん張り先を睨む。
 真っ暗な空は、でもどこかに光の予兆を秘めていて、うねるような胎動を感じる。
 小さな船はこんな大海の中にあっては、塵芥に等しい。そんなこと十分に分かっている。目の前の世界はいつも…本当にいつも圧倒的なでかさと存在感で自分を呑み込もうとしているのだ。
 ふと気付くと、そのあまりの己達の小ささに身震いしたくなるくらいだ。
 でも、それだからこそ、ナミは笑みを浮かべる。
 どんなに辛いことでも、口元をきつく引き締めて傲然と顔をあげ先を見据えるしかない。
 そう思って、それしか知らずにガムシャラに突っ走ってきた自分なのに。
       今はどんなに辛くても、酷いと思える場面になっても、笑って迎える気分になる。
 そんな自分を知ったのも、この小さな船でのこと。
 下で自分の指示通りに動く、頼もしくて頼りないクルー達。彼らのおかげで、いつでも笑っていられることが、ただ嬉しい。
「ウソップ! もうちょっと舵切って!」
 呻きを上げるウソップは必死で舵棒を倒そうと目をむいている。何も言わなくても、チョッパーがルフィに帆を任せてウソップの方に駆けつけた。
 大きく突き上げるようなうねりに、ナミは手すりにしがみついた。
「ナミー!大丈夫か!?」
 あちこちから、気遣う声が聞こえてきた。随分と余裕だ。
 本当に、最初の頃にはこの船の動かし方も分からず、船を傷つけては右往左往していた獣達をここまで鍛えてきた自分の手腕に感心したいくらいだ。
「誰にものを言ってるの!まだまだ揺れるわ!皆も気をつけて!」
 やっぱり笑みがこぼれそうになる。でも口調は強く指示をする声に、下からは勇ましいいらえが返る。
 ほんとうに、なんてまあ頼もしい。
 ナミは強く、見えにくい海面に視線を飛ばした。
「雨がふらないのだけが、救いかな」

 何も道はないように見えても、指針であるルフィが行き先を告げる。
 あそこに行くのだと伸ばす腕が示せば、そこに道ができるのだ。
 ルフィが示した行き先は最終目標。だが、そこまで行く道を見つけて導くのは自分だ。
 手首に掲げる、ログポースそしてルフィ。二つが揃えば、他になにもいらない。そこから先は自分の手腕一つ。
 目的にいたる道は確かにあるのだから。

 ナミの腕がなめらかに動いて先を示す。
 遠い場所を揺るぎなく示すルフィの腕とは違い、ナミの腕は細かに動いて遠く、近くを自在に指し示す。
  いつだったか…サンジがキッチンで働いているのを見て、まるで歌っているみたいだと表したことがあった。
 不意にそんなことを思い出す自分の余裕に、ナミはますます笑みを深めた。
 なら今の自分はどうだ? 自分に出来る限りのことをするのは当たり前。そしてその出来る限りのことを、当然のように受け止めて全幅の信頼の元で動いてくれるクルーがそこにいる。

 ああ、今、自分はまるで真っ白な紙の前に立ち、伸びやかに動くその腕で、まるで線を描いてるいるようだ。

 湾曲する線、真っ直ぐな線。複雑な流線模様。規則的な連なりの線。そして点。
 どれもこれもが絡み合って、不規則なのに不思議な調和を見せて。

 書き上がっていく。
 ナミだけが描く、海図。

 道は絶対にある。
 だからこそ、ナミは立ち止まらない。皆を出来うる限り安全に、先に先に進める為に。

「いっくわよーっ!!」

 叫ぶナミが示す腕の先に、細く鋭いペンが見える。
 空に描くその切っ先に従って、船は進む。
 終焉を告げたのは人。
 そして始まりを告げたのも、やっぱり人だった。
 無意味に書き続けた海図を投げ捨てて、新しく書きつづる残りもしないこの海図のなんて愛おしい。
 酷い困難なんて、なんてことない。この先に、道がある。描けるたくさんの海図がある。
 真っ白な紙に綴るこの喜びの方が、困難に何倍も勝るというもの。
 
 揺れる船の頼りなさに、でっかい頼りがいのあるクルーを乗せて、船は進む。
 そうして酷い揺れに悪態をつきながら、怒鳴るナミは笑うのだ。

 全開の笑みで。

 その見事な海図を掲げながら。


終了(2008.1.9)




昨年の…忘れもしない昨年のナミ誕にあげようと書いていた話でした…途中で放置…。(笑) というよりも、書いたことすら忘れてて、パソの中で漂ってたのを救出です。(笑) ゾロサン一切関係ない話になってます、ごめんなさい。でも、全開で笑うナミさんは好きなんです!(笑)



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