玉の緒よ 絶えなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
[百人一首]




 武士、というものがどういうものなのか、本当は知らなかったのではないか?
 そう気付いたのは、「ゾロ」という人間に会ってからだった。
 貴族、とりわけ天皇の血筋を濃く引く自分とは違い、彼は内裏を警護するただの下級武士だ。一応貴族の身分はあるが、それでも武門の士。
 山の精と契り生まれた…とされる当代天皇と同じ母より生まれた自分は、その容姿から神に仕えることを幼い頃から定められ、おかげで醜い権力争いからは遠く置かれていた。
 そして同じく、宮中の人々からも。
 自分の誕生話がどこまで真実で、また嘘なのか? サンジは知らない。知ろうと思ったこともなかった。どうせ、自分に良い話になるとは到底思えなかったからだ。
 金髪碧眼。確かにこの平安の宮の中にあっては異端だ。しかも当代天皇と同じ血を持つ異端。
 今考えてもよく殺されなかったものだ、と感心する。生まれた瞬間間引かれても不思議ではなかった。
 ただ、先代の天皇が自分が生まれた時に、天からの眩しいばかりの光が降り注ぐ天啓を受けた、という言葉と、彼が生まれた途端にそれまで雨続きで被害が出ていた嵐がピタリと止まったらしく、その両方の事実が彼…サンジを生かしてきたのだ。
 それ以来、まるで『巫女』や『神官』と同等の扱いを受けて育ってきた。
 仏門に入る…という手もあったのだろうが、それは先代・当代の天皇と母が頑強に否定した。
 どうやら愛くるしい子供だった自分を手放すのを、単純に嫌がった結果ではないか、とサンジは見ている。

「…来るか?」
 陰陽寮に在する者達のように、なんら術を使えるわけでもない。体術には自信があるが、だからといってそれを生かせる立場でもない。ただ要請に従って、自分は神事の手伝いをする。それが仕事といえば仕事だった。
「来る…かな…」
 内裏の一角。鬼門に当たる位置に建てられた一棟がサンジにあてがわれている宮だ。
 本当は内裏から離れて、別に宮を構えるのが普通なのだが、サンジの容姿が容姿なだけにそれは否定されている。
 市井に出れば無用な混乱を与えるのは目に見えているからだ。
 サンジのことは、内裏の中でも特定の者しかしらない。噂はあるようだが、サンジの姿を見ることは殆どないというのが実情だろう。結局、サンジは閉じこめられて暮らしているといっても過言ではない。
 だからといって、サンジに不満はなかった。自分がどれほどこの世界にあって異端なのかは分かっていたし、うざったい人の視線にさらされて、怯えられるのは真っ平ゴメンだった。それに天皇も母も、他の身の回りの世話をしてくれている者達も、全部が閉じこめることになっているサンジに対してすまないと、本当に思っていることも知っている。
 それだけでもう十分だ、と本気でサンジは思っていたのだ。
 ぼんやりと夜空に浮かぶ丸い月を見上げる。
 柱に背を預け、庭を眺めながら物憂げに僅かな風を受けて狩衣を揺らす。
 春の朧月を見よう。
 言い出したのは、自分だった。
 彼の前には、酒がたっぷりと注がれた瓶子が並び、その横に杯が二つ。もう一つの台には、鮎を焼いたものと、山菜を煮染めたものが数種。そして塩。
 来なければ、それは無駄になる。
 分かっていても、サンジは用意して待つことをやめられない。…来るかどうかが分からない、その人物を待って。
 暫く内裏詰めになりそうだ、と言ってきたゾロに、サンジはついそう言ったのだ。
 朧月を見よう。
 それは、些細なワガママだった。ただ、自分から視線をそらそうとしたゾロに、自分を忘れるな、と咄嗟に出たワガママ。
 ゾロが自分の言い分にどうでるのか、それで少しは自分のことをどう考えているのかが分かるかも、と咄嗟に考えたことも確かだ。だが本当は、ただ、ゾロにワガママというものを言ってみたかったのかもしれない。
 ここ数日、ゾロはこちらには来ていない。
 もし、今、ゾロに会えば…。
 サンジは俯いた。
 会えば苦しい。
 あの男。ゾロは内裏の衛司だ。そしてこの宮の警護も兼ねている。初めて会ったのは、ほんの数年前だ。そのころ市中と内裏を騒がせていたという鬼を、彼は無名の太刀で切り倒したという。
 その卓越した剣技と度胸、そして悪霊をも切り裂くという技量に彼は天皇直々の銘を受けることになったのだ。
 権謀術数渦巻く、この腹黒い内裏へ。
 本来なら、ありとあらゆる貴族達に利用され、または天皇と政治への足がかりとして使い回され、ぼろぼろになるかと思われた彼は、しかしそういう根の暗い部分までをも一刀両断にしてしまった。
 彼はそういうことは面倒だ、と言い捨て、今や勢力ナンバーワンとされる貴族をあっさりと振り切り、天皇への直談判というまさにあり得ない手段をどういう手でか行い、その結果、内裏とサンジの衛司という役職を手にしたのだ。
 初めて顔を合わせた時、ゾロはサンジを一目みるなり、
「あー、人間か?」
 と聞いてきて、サンジの蹴りを食らって吹っ飛んだ。
 その場で大喧嘩をして、見ていた他の使用人や天皇の度肝を抜かせた。
 けれど、それで返って2人は意気投合してしまったのだから、人の縁とはよく分からない。

 酒豪で単純で、そうして実直で誠実。
 剣の腕は申し分なく、今の自分に満足せずに見ているこちらがどうにかなりそうな鍛錬を欠かさず行う彼に、いつしか自分が信じられない思いを抱くようになったのはどういうことなのか…。
 何度となく自分は狙われている。
 それは自分を悪霊と決めつける一派がいるからだ。それをゾロは「バカか」と一言で片付けて、黙々と彼を狙う者達を返り討ちにしていっている。
 どういうわけか、ゾロは式神や呪いとかいうものまで一刀両断にしているらしく、それを知った時は本気で驚いた。
「ああいうものは、とりあえずこっちが、絶対に斬る! と思って斬れば斬れるんだ」
 単純にして、かなり深いことを言い放ち、こともなげに実践する。そんな奴の姿に次第に惹かれていったとしても、無理はないのではないだろうか?
 そう…思いはすれども…。
 サンジはそっと息を吐く。
「…らしくねーよなぁ…」
 言いながら、杯に手酌でついだ酒をそっと口に含む。
 どこか甘いそれは、苦く心を焼く。その味が、辛い。
 自分はここにいながらも、いない者として扱われるものだ。ゾロの名声は高まっている、と聞く。決して自分の元に縛り付けておけるものではない。
 それに、彼は自分と違ってある意味自由だ。
 好きに女房の元に通い、情を交わし、子供を作ることだって普通にできる。…神職の元にいる自分とは…まるで立場が違う。
           汚れることなかれ。
 サンジという生き物は、その一点のみ、犯すことを許されてはいない。
 ゾロは…汚れをその身に一身に浴びていると公言している。人を斬り、魔を斬り。…そして神をも斬る、と。
 それをためらうことなく公言し、実践し、サンジを守る。
 そんな人物を…どうして思わずにいられよう…。この閉じこめられ、真綿でくるまれて育った自分が。
 あの強烈な存在を
 絶対に、手に入れられない…と分かっているだけに…。
 会えば…辛い。だが、会わなければ、もっと、もっと辛い。
 そして叫びだしたいくらいに募るこの思いを…会うたびに重ね、重ねて…ただ苦しい。

 人には、魂というものがあるらしい。
 この感情の発露の基にそれがあり、それは躰に結びつけられている。その結びつけている一本の紐の名が、玉の緒というのだという。
 教えてくれたのは、多分、先代天皇だった。
 彼は来るだろうか…?
 来る、とゾロは言っていた。
「ちっと遅くなるけど、月見酒は絶対諦めねぇ!」
 そう言って、ニヤリと笑った顔は精悍でそれだけでサンジは胸を詰まらせ言葉を失った。
 ただの思いつきのワガママを、彼は嬉しそうに了承して、約束までしたのだ。
 だが、今内裏では天皇の周辺で怪異がおこり、ゾロはそれにかり出されている。約束を守ることにかけては、頑迷なゾロだが、この状況では来れるかどうかは…分からない。
 それでも。
「切れちまえ…」
 自分に向かって小さく呟く。
 自分の玉の緒なんぞ、いっそ切れちまえばいい。そろそろ…自分は耐えられなくなりそうだ。いつか、それもともすればすぐにでもこの思いを叫んでしまいそうになる。
 このまま生きて、ゾロに会えば…会い続ければ、自分はどうなるのだろう?
 どうにかしなければ、この気持ちをゾロに…悟られる。ぶつけてしまう。ただ、自分の激情のままに。
 だからこそ、自分が耐えられなくなる前に、切れろ。もしくは、切ってくれ。
「ゾロ」
 そう願う。そう祈る。
 心が弱まる…その前に。
 切れてくれ…玉の緒よ…。

 淡い月の光を浴び、白く輝く金の髪。
 サンジは気付かずに俯く。庭の奥に立つ青年が、その姿をじっと見ていることを知ることもなく。

 月が燦々と、青く、2人の間を静かに染め上げていた。

終了(2006.7.23)




日記にて、書き殴った百人一首ゾロサン。
突発だったので、改訂。
百首は無理なので、後一首で終わります(笑)
歌は式子内親王の作。後白河院の娘で、彼女も巫女でした。
何故か一番最初に覚えた百人一首の歌。いつか何かで書こうと
中学の頃から思っていたが、まさかここで書くとは…。



のべる部屋TOPへ