みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに
[百人一首]




 内裏というものになし崩しに仕えるようになって、どれくらいが過ぎたのだろう。

 ため息をつきたくなるのを堪えることにも、随分慣れた気がする。
 背後の几帳の影で、丸くなって震えている大の男の姿など見る気にもならないので放置したまま、ゾロは無理矢理着せられたお仕着せの束帯の片袖を抜いて生身を晒し、傍らにおいて置いた刀を三振り手にした。

 この間まで降っていた雪は、いつの間にか消えてなくなっている。
 いつしか風もどこかまどろむようにぬるみ、土の匂いが時折強くするような、そんな季節になっていた。
 春3月。
 冴え冴えとしていた月の姿も、今はどこか朧な風に霞んで見える時期だ。
 それでも夜の風はまだまだ冷たい。そして夜の闇も…深い。
 昨日まで降っていた雨のせいで、水の気配が強くする。ぬかるんだ土の匂いは、いつも以上に強い。だが、その風に混じって今夜はもっと違う、別の匂いが潜んでいた。
 視界も効かぬ真夜中だ。今夜の月は、そろそろ中天にさしかかろうとしているはずだが、外は闇に包まれている。どうやら、まだ厚い雲が天空を陣取っているのだろう。
 そんな中、ゾロはわずかな光源の灯火から逃れるようにすっと立ち上がった。
「…ひっ…ろ…ろろのあ…どの…」
 途端に、几帳の影から裏返った声がすがるように響く。
 うっせぇ、と言い捨てたいのを辛うじて呑み込んだのは上等だった。
 ゾロは微かに目を眇めたが、振り返ることはせずに低い声で告げた。
「これから一言たりとも喋…らないよう。声を発すれば、命の保証はできね…できませぬゆえ」
 こんなに間抜けな男だというのに、自分は手を合わせられたシャンクスやベンの手前、敬語らしきものまで使わなくてはならないときている。
 やってらねぇ。とは強く思うが、これも仕事といえば言えるので無碍にもできない。
 それが…あいつの傍にいるための…小さな辛抱と言われれば逆らいようもないのが現状なのだ。
 それでつい頷いてしまう自分もどうかと思うが、仕方ねぇと考えてしまうのだからこれはもうどうしようもないということだろう。いつの間にそこまで、あの男の存在が自分の中で大きくなっていたのか。こんな所で実感させられて、ついため息をつきたくなってしまう。
 ゾロの言葉にがくがくと頷いて、なんでも大層な坊主から手渡されたという布にくるまって男は益々丸くなったようだ。気配だけでそれを知ると、ゾロは再度ため息を押し殺した。
 そのまま、男の部屋から外に出る。
 男の部屋にはこれまた大層な陰陽師が結界とやらを張っているらしい。さっぱり自分には分からないが、これは効くのだそうだ。そうシャンクスが言っていたので、多分そうなのだろう。
 当代天皇であるルフィは、
「面倒だから、何もしなくていいぞー」
 と気楽に言っていたのだが、例えどんなに情け無い男であろうとも背後の人物は内裏では高位のしかも左大臣だ。あだなおろそかにはできない。…らしい。
 遠くから、ごうっと唸る音が聞こえてくる。
 木々がしなり葉ずれの音が積み重なり、まるで遠い海鳴りに似た振動が巻き起こる。
 その呻きにも似た何かが生まれる場所はどこなのだろうか?
 ゾロはゆっくりと刀の柄に手をかけた。
 視線は見えぬ闇の奥。
 本来なら、見事な池の作られた庭があるはずなのだがそれすら影も形も見えない闇は、いつも以上に暗い。
 深く細く息を吐き、手に力を入れる。
 自分の感覚が広がる。ゾロの目が何も映すことなく、しかし不意に鋭さを帯びて座った。

      来る

 迫り来る轟音と共に、濡れた地面から砂塵が舞い上がる。
 何かが凄まじい力と早さで暴れているようだ。
 すっとゾロの腰が落ち、両の手が刃を引き抜くのと凄まじい暴風が眼前に迫るのはほぼ同時だった。

 白い軌線が真っ直ぐに伸びたように見えた。
 その筋は二本。
 それは空気を断ち、一瞬辺りの轟音がかき消える。

 微かな金属音がして、ゾロの手が目にも見えなかった刃を鞘に戻す。
 庭の池の水面なのだろうか、まるで何かを囁くように白い線をさざめかせたのが不思議なくらい鮮やかに目に映る。

『ぎゃあああああああああああああああああっ』

 爆風が辺りを凪ぎ回した。
 その音だったのだろうか、それともそれは何かの悲鳴だったのか。
 膝をつき、無言のまま前を見据えたゾロの頭上で爆風は乱れに乱れ、しかし建物の中には届くことなく、巻き上がるように渦を巻き。
 しかし次の瞬間、まるで何もなかったかのように消え失せた。

「…二刀流…羅生門」
 ゆっくりと立ち上がり、ゾロは頭上を初めて仰ぐ。
 最初からあったのか、いつしかそこには煌々と照る白い月の姿があった。
 やれやれ…と肩を竦めさて、あの男は…と向き直ろうとして、小さな違和感に目を下ろす。気付けば、自分の足下には一枚の布が落ちている。
 暫くじっとその布を見ていたが、ゾロはゆっくりとその布に手を伸ばそうとして手を止めた。

 月明かりに照らされたその布には、よじれ乱れた模様が、深い藍に紛れるように広がっていたのだ。





 扇の影で大きな欠伸をし、金の髪に左半分の顔を隠した青年はくるりと巻いた眉毛を器用に下げ、陽光きらめく小さな庭を見やった。
 内裏の方がここ数日やたらと騒がしい。
 内裏の中の、言ってみれば中枢の端に位置する建物の中にいるというのに、ここはまず誰も訪れない場所だ。
 というよりも、普段からこの内裏の中に入れるものは数限られている。その中でも、この屋敷の存在そのものを知る者の方が圧倒的に少ない。
 その上知っていたとしても、ここに足を踏み入れることが出来るものは、片手の数で足りるくらいしかいない。
 当代天皇。そのお付きというよりも、実質天皇のサポートと影で動いているシャンクス達、そして…もう1人。自分付きのただ1人の護衛。
 それだけが、サンジが普通に会うことを許されている人達だ。
 まだとりあえず、天皇で…しかも弟でもあるルフィの多分未来の嫁になるであろう幼なじみのナミとはとりあえず会えるはずだが、ナミが直接こっちに来なくてはならないという問題があり、こちらは文の交換が主になってしまっている。それが甚だ不本意なのだが、それも仕方ない。
 多分、世襲というものからすれば、サンジは先の天皇の長男として本来は政務を行う立場にいたのだろう。
 だがそれがなんだと言うのか。サンジは生まれたその瞬間から、本来なら命を奪われても仕方ない者だった。
 高貴な生まれというだけではなく、彼の容姿はあまりにも異質だったのだ。
 まるで真夏の陽光が水面に弾けさせたかのような眩しいばかりの金の髪。そして遠い海を思わす青く澄んだ瞳。雪のような白い肌。
 母親が山の精との契りによって、その慈愛の象徴として生まれた…とか自分に対する噂はあるらしいがそれが正しいのかどうかすら、判断はできない。
 ただ現実として生まれた赤子は、確かに天皇とその寵愛を受けた人の子であるというのに、美しくも異形の姿をしていたのだ。
 しかも生まれた瞬間に先代天皇は天からの啓示を受けたとか、彼が生まれた瞬間に雨続きで甚大な被害が出ていた嵐がピタリと止んだとか、不可思議なことが重なった末に、隠された生神扱いとして存在することを許されている。
 事実などどうでもいい。 サンジはただ、内裏の奥の一角にて存在することでこの都を…ひいては国を守っている…ということになっているのだ。
「来ねぇなぁ…あいつ」
 ここ数日、自分の専属の護衛である男の姿が見えない。
 そろそろ引き合わされて半年余り。最初に見た時には、物怖じしないどころかクソ生意気な同じ年の男に、盛大に反感を持ったのだが、出逢ったその場で大げんかをしてからはなんとなく意気投合してしまっていた。
 何せ人の来ない場所だ。自分に引き合わされたという時点で、その男とは一生の付き合いになることは確定していた。
 ならば喧嘩するよりかは親しくした方がいい。それは分かっているのだが、気に障るものは障る。
 結局意気投合しつつも、暫くは寄ると触ると喧嘩しまくっていたのだが、どうやらそれが自分達の垣根を粉砕したらしい。
 未だに喧嘩は良くするが、ルフィ達に言わせるとそれはもうじゃれているという感じに見えるようになっているようだ。最近では自分でも、彼が唯一の親しい友人になっているとお互い自覚…したくないのに、しなくちゃいけないかな? と思う始末だ。
 自分からは決して口にはしないが、引き合わせてくれたルフィにサンジは本当に感謝している。
 その男が、ここ数日姿も見せない。
 自分付きの護衛ということではあるが、ゾロは他の仕事もとりあえず兼任しているようで。どうやらルフィと動きを共にもしているらしい。それだけでもゾロという人物が、実は特殊な者であるということが伺えた。
 ヤツが何者なのか、実はまるで知らないのだと、不意に気付いたのは昨夜のことだ。
 自分のことは、粗方周囲から聞いてきたのだろうに、ゾロの説明といえばルフィから聞いた、
「こいつはロロノア・ゾロ。すんげぇ強いんだぜー! 丁度いい年具合だし、サンジの護衛に決めたから! 今日からよろしくしてやってくれよな!」
 これだけだ。
 豪快と言えば聞こえはいいが、何も説明していないことこの上ない。結局詳しく聞く前にゾロのいらぬ一言から、その後は激しい喧嘩になったので、もしかしたら続きがあったのかもしれないゾロの身の上の話はそれっきりになってしまっている。
 サンジは自分からこの小さな宮を出ることは禁止されている。…実は抜け出してたまーに遊びに行くこともあるのだが、それはそれだろう。
 とにかく、今サンジ自身がこの宮を抜け出すことはできない。しかも今は真っ昼間だ。
 自分の容姿が目立ちまくることは、もう火を見るよりも明らかだ。下手なことはできないが、毎日顔を見ていた者が来ないという事態に、説明を求める術すらないというのは本気で気が滅入る。
「…今までは、これが普通だったのにな…」
 退屈だと思うことすらなかった。1人で過ごすことが当たり前で、誰かが傍にいるということがどういうことなのかも知らなかった。
 ただ、不定期で訪れる人がある時だけ、その一時だけの楽しみで満足していたというのに…。
 あの男がいつの間にか、するりと自分の時間の中に割り込んできていた。
 出逢って月の満ち欠けが一周する頃には、この宮の一室にあの男の私物を置くようになった。そこがまるであの男の場所であるかのように。
 護衛というだけあって、ほとんどの時間をゾロは自分の傍にいる。それでも、別の仕事だなんだと
呼び出されては出ているが、夜はおおむね自分の傍だ。
 出逢って間もない頃は、ゾロとの距離がなかなか掴めずに弱っていた。あの頃は秋が深まる時分で、いつだったかたまたま温かな風が吹く夜に、思いついて酒に誘ってみた。丁度川を遡上する極上の鮎が手に入ったので、それを肴に喧嘩三昧の男と少しでも近づこうと努力するつもりで声をかけたのだ。
 するとあの男は相好を崩して笑うと、差し出した秘蔵の酒に飛びついた。どこか子供っぽくもあるその笑顔は、今までの仏頂面からすればあまりにも落差があり、サンジは酷く驚いたのを未だに覚えている。
 そして、酒豪というより底のないゾロが酒を飲み尽くし、またしても大喧嘩になった。あの時の乱<闘は、今までの喧嘩の中でも特上級だった。
 なにせ宮の一部をことごとく破壊したからだ。
 だが、はっきり言って気持ちよかった。なんだかもう、ものすっごく楽しくて、楽しくて大笑いをしていた。あんなに暴れたことはなかったし、またまるで加減なく力任せに自分を解放したことはなかったからだ。
 後から珍しく自分に関わる全ての人々が集まって2人してコンコンと説教を受けさせられたのに、その楽しさが尾を引き始終緩む顔を引き締めるのに苦労したのには参った。
 ふと、その時のことを思い出して口元が緩む。
 自分をさらけ出すということのあの爽快感を知ったのは、多分あれが初めてだ。
 ゾロもなんだか楽しそうにしていた。あれからだ。急速に自分たちの間の違和感が姿を消し、いつしか隣に相手がいることを当然のように感じるようになったのは。
 時間にすれば、それは短い間だったのかもしれない。けれど、自分達にしてみれば、やっと辿り着いた終着点のような気がしたのだ。
 そんな相手が不意にいなくなった。
 今までなら、戻れない時には必ず一言言いに来ていたというのに、それもない。ルフィに伝言もない。そういえばルフィもここのところこちらには足を運んでない。
 そして騒がしい内裏。
「なにやってんだか…」
 胸騒ぎがする。
 なのに自分はここから動けない。
 それが情け無い…と思っても仕方ないだろう。だが自分が内裏に姿を見せることはできない。自分を知る者は、内裏の中枢の中でも本当に一握りなのだ。多分、その存在らしきものを知っている者はいくらかいるのだろう。噂では、内裏では鬼門を守る鬼を飼っているのだという話を聞いたことがある。宮の位地や自分の状況から、それが自分を差していることくらいは嫌でも分かる。
 だが言い換えればその程度なのだ。
 そんな中に、異質な容姿の自分が昼日中に出て行くことはできない。今までだって内裏に出て行く時には、厳重な内裏内を行く駕籠に入って動いているくらいなのだ。
 自分のことは理解しているつもりだったが、たった1人の人物のせいで自分の立場をこんな形で再認識することになるとは…。
 ちっと舌打ちして、持っていた扇を手荒く閉めた。


 
「で?」
 夕暮れ時、珍しく慌ただしい使者を立ててサンジの元にやってきたのは、酷く困ったような顔をした右大臣シャンクスとその右腕とも言われる腹心のベンだった。
 召使い1人もいないサンジの宮だ。どんなに高貴な人物だろうと、何かが欲しければ自分で動かなければならない。
 持参した酒を片手に、サンジが差し出した作り置きの肴を前にしても、2人は弱ったような顔をして唸るばかりで話にならない。
「…サンちゃんには…すまないことしたなー…と思って…」
 サンジはため息をつく、先程からこれの繰り返しなのだ。
「だから、何がだよ」
 数少ない自分に直接会える人物に取り繕うことなどしたことがない。それもあって、ここに来る者達は誰1人自分を特別扱いしようとはしない。だからこそ、ここに来る者達は…いや、ここにいる間だけはどんな公人であろうも貴族であろうとも1人の人間として自由に振る舞うことが許されている。
「…まったく思い切りの悪い…すまないな、サンジ。これでもこの人、謝りたいんだよ」
 うんうんと唸るばかりのシャンクスに、苦笑したベンが狩衣の袖下からいくつかの文を取り出した。
「これを渡せと頼まれていたのに、あんまりバタバタしてたもんで、ついうっかり忘れてたらしい。しかもここ数日毎日受け取ってたのにも関わらず、だ」
 差し出されるそれは、何かに薄汚れてはいたが綺麗な紙だった。多分内裏でも上等の部類の紙だろう。
 数冊のそれを受け取り、サンジは急いで一枚を広げた。
 思った通り、濃い墨字で思った以上に几帳面な四角張った字が並んでいる。これは…紛れもない、ゾロのものだ。
「ここからでも分かるだろうが、今内裏でちょっと面倒なことがあってな。ルフィは監禁状態だ。…そんなことしたくはいなし、あいつがいつまでこの状態に暴れ出さないか今ハラハラしてるところなんだが、仕方ない」
 ゾロの綴った文字には簡潔に、今日は戻れないということが書いてある。そして、いつか話していた内裏の庭の隅にある木に花が咲いている、と。
 その木はサンジが稀に内裏に行った時に、つい目をやる庭の隅にある木だ。
 いつもひっそりとそこにある木が何故か気になっていた。
 だがどういうワケか、何故かその木が花をつけている所を見たことがない、と…いつだったか回数を重ねた2人きりの酒宴の席で、そんな話をした記憶がある。
「ゾロは…今内裏中を駆け回って、鬼退治と鬼ごっこの真っ最中だ」
「へ?」
 問い返しつつも、サンジは次の文を開いた。何かがバラバラと落ちてくる。
 薄い柳重ねの狩衣の膝の上に深い赤紫の小さな花が舞い散る。
 枯れかけているが、これは多分…あの木の…花…。
「…すまねー、サンちゃん…。この間さ、俺ゾロを借りて行っただろう?」
 ぼそぼそと話しだすシャンクスに頷きながら、サンジは膝に散った花から目が離せない。
 小さな花はバラバラだ。それなのに…どうしてこう、胸に迫る色をしているのだろう。
「でな、あの時ゾロに左大臣の所に夜な夜な現れるっつー…鬼退治を…無理矢理させちまったんだよ」
 ふと、サンジはシャンクスに目を向けた。
「無理矢理?」
 それはゾロには一番なじみ薄い言葉なような気がしたのだ。
「そ、無理矢理」
 だがシャンクスは苦笑しながら両手を開いてみせると、大きくため息をついた。
「あいつは絶対したくないことはしないヤツだが、約束させたことは絶対にやり遂げようとするわけよ。で、ちょっと…こう…」
「要するに、あいつをいらん手管でかき回して、鬼退治させることを約束させたんだよ、この人は」
「…そういう言い方はないだろう。あの場合仕方なかったんだぜ? それにあいつの力を見せるのに、あれほどうってつけの場面もねぇと思ってよ…」
 言いながらもシャンクスは肩を落とした。
「ちょーっと見せつけて、あいつが内裏にいることに文句言わせなくするつもりだったんだけどなー…ルフィはそういうことはまるで頓着しねーが、あいつは不意にやってきて内裏を好き勝手に闊歩してる状態だからなぁ、しかもルフィが直で側に置いているもう特別も特別扱いだ。ここらできちんと立場を確保させようと思っていたんだが…やりすぎちまった…」
「…どういうことだよ?」
 膝の上に散った花をそっとかき集め、サンジは掌に優しく包み込む。
 なんの温度もしないはずのその花は、何故かとてもとても温かい。
 夕暮れを示す最後のあかね色の日差しが、一瞬強く室内を照らしだし、ゆっくりと夜の色へと姿を変えていく。
 寒く感じるこの時間が、掌の上の花からゆっくりと温められていくようだ。
「あいつは上手くやりすぎたんだよ。左大臣を狙っていた鬼を…あいつは一刀両断したらしい」
「ふーん………………あ?」
 意味が分からずにサンジはシャンクスを見ると首を傾げた。
「しかもそれがな、姿もないアヤシイ気配だけという代物だったらしいんだ。それなのにあいつ…それを切ってのけた上に…鬼の証拠を掴みやがった。陰陽師でも坊さんでもないっていうのに!」
 頭を抱えるシャンクスに、同情的な目をやりつつベンまで肩を落とす。
「まさかロロノアが肉体のない鬼まで切り伏せるとは思ってもいなかったんだよ、俺たちは。左大臣の屋敷に来るのは、どうやら小物の呪い師かなにからしいと検討をつけててな。呪の方は陰陽師に頼んでいたから、ゾロにはその呪い師か何かを見つけて退治してくれればいいと言っていたんだよ。そしたら…現れたのは本物の鬼で、しかもゾロはそれをあっさり切って捨てて…しかも鬼の持ち物を持って帰りやがった」
 左大臣がその時のことを微に入り細に渡り話まくり、しかもゾロの腕前を吹聴しまくり、内裏は蜂の巣をつつくような騒ぎになったらしい。
 しかも、だ。
「あいつが持って帰った布というのがまた…陸奥の絹織物でな…これがまたまた先だって左大臣が左遷した人物の行き先だったりしたもんだから」
 なるほど、それは騒ぎにもなるだろう。
 サンジは新しい文をゆっくりと広げた。今度は何も入ってはいない。だけど慌ただしい間に書いたのだろうその文には、墨の滲みも気にせずに大きな字で一言だけが書かれている。
『美味い酒が呑みてぇ』
 サンジの口元に緩やかな笑みがのぼる。
「左大臣がやたらとゾロのことを気に入ってしまってな。命の恩人というのもあるんだろうが、あいつの腕前は…使い道が多すぎる。ルフィが好きにやらせていることもあって、あの狸め、ゾロを取り込もうとし始めやがって。俺の手前もあって、あまり大きなことはしてない様子だが、かなりしつこくあの手この手で迫られまくってな。…お前の護衛というのも…あの男には良く分かってないらしい
しなぁ」
 左大臣には自分の存在は知られているはずだ。だが、今まで会ったこともなければ、その存在をきちんと知らしめることをした覚えもない。
「それで、ゾロは今内裏でルフィの護衛も兼ねて、跋扈している…ことにしている鬼退治に無駄に走って、ついでに左大臣からの熱烈な要求から逃げているということなんだ。それもあってここに来られなくなってて。それで言付かっていたその文をこの人は忘れまくってた、と」
 ため息まじりに言われて、シャンクスが面目ないと頭を下げる。
 なんてこった。
 最後の文を開いて、サンジは呆れたように息を吐いた。
 たった半年だ。
 ただ、それだけの月日、ただそれだけの時間。今まで生きてきた時間からすると、本当に少ないその時間。
 それなのに、どうしたことだというのか。なんでこうも、この男に…ゾロに…惑わされるのだろうか。
 最後の文には、ただ一つまるで誇らしいようにこう書かれている。
『あの木は『桃』っつーんだとよ』
「そんなこたぁ、ハナから知ってるってんだよ…ばーか…」
 ただ、こうやって出逢っただけだというのに。それだけのことが、こうも…自分には大きい。大きすぎる。

「…なぁ、シャンクス」
 いつしか暗闇が支配してしまった部屋の中で、サンジはもう見えなくなってしまった文から目を離さず、目の前の人物に問いかける。
「ん?」
「あいつは俺付きの護衛なんだよな」
「そうだ」
「そう決めたのは、ルフィなんだよな」
「そうだな」
「んじゃ、決めた」
 ベンが気を利かせて灯した小さな明かりの元、艶やかな金糸の髪を鮮やかに輝かせ、サンジはその口元をいたづらめいた笑いに吊り上げた。
「あいつ、俺の護衛に俺がする!」



 御簾越しに微かに煌めく輝きがある。
 頭を下ろしながらも、左大臣はその輝きに目を奪われた。
 内裏の中でも天皇の居住に近い一室に初めて通されたのは一刻ほど前のことだ。今日もきちんと行方を掴めなかったゾロのことに、1日ヤキモキしていた所に天皇から直々に呼び出しをもらい、慌ててはせ参じてみれば長い間待たされた。
 そうこうしているうちに、御簾が厳重に用意され。
 いつしか右大臣に天皇までもが現れ、ここ数日探し求めていたゾロまでもがやってきた。
 どういうことか、といぶかっているうちに、御簾の奥に誰かが現れたのが人影から知れる。
 背の高い人物のようだった。多分、目の前にいるゾロとそう変わらないくらいの背丈だ。だが、細い。しなやかな仕草は洗練されている。その様子は漏れ聞こえる衣擦れの音からも察せられた。
 何よりも天皇であるルフィを差し置いて、何故こうも厳重な御簾越しに現れるのか。
 ルフィは元々破天荒なところもあり、御簾を嫌っているのでその辺りはまあ理解できるが…では、ここにいるのは誰なのだろう。
 女性でないことだけはその着ているものからも確かだが…。
 御簾越しから、パチンと扇を閉じる音がする。その音に、近くにいたベンが動き、御簾へと近づく。
 言葉を伝える伝令の役を便宜的に彼がするのだろう。小さく頷いたベンが、不意にこちらを向き細い口を開いた。
「左大臣殿、こちらにおわすお方からのお言葉でございます。
『ロロノア・ゾロはこの殿上に参内した瞬間から、自分の持ち物である。みだりにこの者を乱用することは、まかりならぬ』
 とのこと」
 寝耳に水とはこのことだ。
 慌てて周囲の人物を見回す。ルフィもシャンクスも笑っているが、ゾロは苦い顔で憮然と御簾を睨み付けている。
 どういうことかと、恐る恐る口にすれば、その言葉もベンが律儀に御簾越しの人物へと語りかける。
 それに小さないらえが返ったのが見て取れた。だが、当然だが声は聞こえない。
「左大臣殿、先の貴殿の障りは大変お気の毒でした、その事に憂いた『曙光の君』が、ルフィ様の願いに応じてロロノア・ゾロを貸し出したまでのこと。これ以上、この者を拘束するような所行を行うことをかの君は良しとされておりませぬ」
 不意に左大臣の顔から血の気が引いた。
 曙光の君。
 明らかに聞いたことのない通り名だ。だが、その名前の意味に聞き覚えはある。
 ただの噂話だと思っていた。というよりも、その話は便宜上のおとぎ話に近いものだと思っていたのだ。先代天皇の元に遣わされた、内裏の守護者。もしくは…内裏に住まう鬼。
 朝一番の曙光のごとき光をまとい、清浄なる力でこの御代を照らすという…隠れたもう1人の内裏の申し子。
 ひっと息を呑んだ音が大きく響く。頭をこすりつける勢いで下げた男に、ゾロはやれやれと肩を落としそっと御簾の奥を見やる。
 まさか、サンジが直接出てくることになるとは思ってもみなかった。くだらないことだが、どうにかしないとと時間稼ぎのつもりでバタバタ逃げ回ってはいたが、いざとなったら切り捨ててでも自分でどうにかしようと思っていた。
 助けなど考えてもいなかった。
 だからこそ、とまどいは大きい。隠れもののはずの男が、いくら左大臣という位で自分の存在を知る中枢人物のこととはいえ、こうして表に出てくるとは。
 男の様子からも、サンジのことはやはり内密だったことは察せられる。
 こんなことで存在を表に出して、大丈夫なのかとらしくもなく考えてしまう。
 ジロリとシャンクスを睨めば、彼は知らん顔で自分も頭を下げている。
「勿論、ここでこの方と会ったことは、内密にお願いするぞ。左大臣!」
 有無を言わせぬ強い調子で言を重ねるルフィに、益々左大臣が小さく縮こまる。
「も、勿論でございます。こうして直にお会いできることができただけでも、私には身に余る栄誉。決して他言などいたしません!」
 確約する言葉に、満足そうに頷くルフィがニッと笑ってゾロに拳を突き出す。これでよし、と言いたいらしい。
 どうやら自分はこれで、確実にサンジのものと確約されたらしい。
 軽く天を仰ぎながら、まあ、いいか、とぽつんと思う自分になんとなく苦笑しつつ、ゾロは退出を命じられる左大臣へと殊勝にも頭を下げてみせた。



 出逢って半年。
 たった半年で、今まで人になど振り回されることもなく、それどころか人なんぞどうでもいいと思っていた自分が、…自分たちが、こうまで誰かといることに執着しようとは。


 人払いされ、誰もいない内裏の一角の庭に、サンジはゾロに導かれるまま出ていた。
 左大臣が帰ってから、さらに一刻が過ぎている。
 人払いには、ゾロが鬼退治を完了するためとまことしやかないい訳がされている。もうなんとでもいいやがれ、と呟いたゾロは場所をそれでもこの広大な庭に定め、そうしてサンジを招いたのだ。
 誰もいない庭は、また誰からも見とがめられない場所になっている。
 2人は並んで、満開に咲く桃の木を眺めた。
 天空には十八夜の月が朧気に光って、なんとか濃い花を照らし出している。
 花よりもサンジの髪の方が月の光を浴びて、キラキラと輝く。それを、ゾロは目の端に捕らえ、満足している自分に気付く。

 言葉もなく、ただ一つの木の花を見る2人の間を、まだ冷たい風が吹き抜ける。

 言葉などなくても、ただ今は傍にお互いがいるだけで満足だと、そう知る時間。
 出逢ってしまったことで積み重なる思いの一つ一つが、自分たちには必要な、重さになっていっていることに、やっと気付いた。
 何故か胸かきむしられるような、どこか艶やかさを滲ませた重さにどこか似ているが……。


「俺な…そういえば、桃の節句の1日前に生まれたらしいんだぜ…どうりで…桃の木に目を取られるわけだ…」
 小さく笑む男の満足そうな表情に、また一つ捕らわれた男が目を見開く。
「…なら、毎年…俺がこの木の花をお前に届けてやる」
「ばーか、それくらいなら、この木を俺の宮に植え替えるくらいの器量をみせやがれ、この唐変木の万年緑!」
「何言うか、このぐる眉!」

 翌朝、内裏の庭は酷い荒らされようで。ロロノア・ゾロの鬼退治の凄まじさがそれから暫くは内裏の中を駆けめぐった。
 その荒らされた庭の中で、一本の木がなくなってしまったことに気付いたものも殆どいなかったそうである。

終了(2007.3.1)




歌は『河原左大臣』天皇の皇子として生まれたけれど、臣籍に下ってしまった方です。
やたらな才能の持ち主で順調に昇進しまくって、すんごい莫大な財と美的感覚に物言わせまくった方ですね。
この人の持ってた別荘が『平等院鳳凰堂』
で、この話。
ほぼ1日近くで書き上げた代物です…今思い出しても良く書いた…私(笑)
その時のテーマは下克上でしたが、歌の解釈も、テーマもまるで無視しまくり、なんかもー盛大に間違ってる!( ノ゜ロ゜)ノ ⌒┫
といった感じでしたが(笑)まあ、それはそれとして、2007サン誕の代物でした。



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