追憶の美酒




 ブンと低い音を立てて振り下ろされる持つ者の身長より長く、巨大な錘の素振り棒が、眼前でピタリと止まる。
 小さくカウントする低い声が、その度に数を刻む。
 また、音を立てて棒が振り上げられ、その度に腕や胸の筋肉が動き汗が伝って流れていく。
 しかしそれを動かす男の目は揺れることなく、ただ真っ直ぐに前を向いたまま、繰り返される動きを続けていく。
 もうどれくらいそれを続けているのか、男の足下には汗の染みが飛び散っている。
 カウントが続く。それがもう三千台を数えていることに、自分自身で気付いているのかどうか…。

 停泊した船の上、今日は雲一つない晴天だった。
 夕暮れの今、山際に沈もうとしている陽光は最後の輝きを鮮やかに空に放ち、黄金色に朱を散らせて大地に近い空を茜色に染め上げている。
 真上には、昼間の青を強調するかのような紺碧が深まり、そのまま夜を迎える準備をしている。
 鮮やかなグラデーションに染まる空と対照的に、大地の色は深く濃く。人の視界に影が増す。
 人と人の見分けがつきにくくなり、影法師が彷徨い始める昼と夜の境目。
 一瞬まとわりつくようなオレンジに染まりきった空間の中を、男の錘が揺れる。まるで、その動きの為にねっとりとした空気が撹拌されるのが見えるようだった。
 視界が深く闇に閉じていく。
 重さが肉体に刻まれる。その度に、鈍く感じる熱と怠くなっていく感覚に自分の筋肉がどう動いていくのかが今の彼のすべてだった。
 ただ、自分が追い求める強さ。
 人を踏み台にし、人を上回り、そして人を斬り、強くなっていくこの強さ。
 ふっ、と息を吐いた瞬間、脳裏に小さな少女の姿が過ぎる。
 忘れもしない、あれは幼い頃の約束の日。
 少女が生きていた、最後の日。強くなろうと2人で誓った、あの約束。

『世界一の大剣豪になる!』

 人に言わせれば、子供の他愛のない口約束、というのかもしれない。
 それが他愛のないものかどうなのか、そんなことは人にとやかく言われることではない。その約束は、少なくとも彼にとっては魂に刻むものだったのだ。
 その思いには今だに一片の揺らぎもない。
 …だが、幼い頃の思いはそのままだというのに、今の目の前に横たわる現実とその夢とのギャップにも、とうに彼は気付いていた。
 強くなり、世界最強の剣士という称号を手に入れる。
 それは、人を凌ぐということが大前提で、その凌ぐものの中には『命』というものまでもが普通に含まれている。
 初めて人を斬り、人の命と相対しそれを奪った時、彼は覚悟を新たにした。硬直した己の掌から白い刀を引きはがすのに必死になりながらも、自分が目指す道の持つ意味を、彼はその心と身体に刻みつけた。
 引き返す気はさらさらなかった。
 突き進む、と彼は決めた。
 覚悟を決めた。
 だがそれと同時に、あの少女がこの道を進まなくてよかった、と安堵したモノが彼の中にいた。
 そう、少女の死に、ふと安心してしまった自分がいたのだ。
 人が人を斬るという業。幼い頃、2人で勝負していた時、確かに抜き身の真剣で勝負をしていたが、あれはやはり練習であり試合だったのだ。
 人を斬ろうとしていたわけではなかったのだから。
 だが、本当に強くなると「くいな」の死を背に歩き出し、刀を手に見知らぬ者達と対峙した瞬間、命のやりとりをする剣士というモノの道と剣豪という称号の意味が鮮明になって色合いを変えた。
 …その時の狂喜! そして恐ろしい程の喪失感。同時に手に入れたそれは、彼の中で綺麗に同居しつつ今では彼自身の一部になっている。
 大剣豪になる。
 その目標は変わらない。そして、その道を誰にも譲る気もない。それどころか、彼はその道を喜びを持って邁進するだろう。今、まさにそうであるかのように。
 引くことはない。
 例え、誰かを殺しに殺すことになっても。自分が間違っていないと思う、その信念の元に彼は刀を振るい続けていくだろう。
 信じるその道は、今も確固としてここに、彼の元にある。
 振り下ろした大きな錘をそっとそのまま床板の上に下ろし、ふうっと長い息を吐く。
 そうやって乱れかける呼吸を整える。
 どういう流れか、彼は今不思議に価値観を同じくする仲間と出逢い、そして一緒に進んでいる。
 彼は錘を横に置きなおすと、船縁に置いてあった酒の瓶を掴んだ。そのまま瓶口を口に持って行き封を簡単に噛み千切った。
 ほんの少し目を横にやると、そこには広々と広がる海がある。
 陽を産み、そして陽を沈ませる海だ。人が帰るといわれる、そこは永遠なる場所の一つ。そう言われる場所の上に立つ自分にほんの少し不思議な感覚を覚えながら、彼は整ってきた大きく息を吸うと、最後の調息にかえて細く長く息を吐いた。
 それでもう、呼吸は普段と変わらないものになる。
「…忘れることはしねぇ。だが振り返ることもしねぇ。お前達は、俺の一部だ」
 口に加えたコルク栓を小気味良く引き抜くと、ポンと空気の抜ける高い音がした。
 一瞬薫るアルコールの匂いを空気に撒き、ゾロは手にした瓶をゆっくりと船縁より先に差し出すとそのまま、何かに酌でもするかのように傾けた。
 透明な液体が、細く音をたてて落ちていく。
 夜の帷がいつしか落ち、今は島のある山際を赤く染めるだけが昼間の名残だ。
 落ちていく液体を捕らえるのは、ひっそりと天空に登っていた白い半月の増していく光のみ。
 流れ落ちる酒が微かに微光を放ち、視界から消える寸前に小さな跳ねるような音をたてていく。そうして船と海の境界に小さな星屑を撒いたような輝きを一瞬だけ見せて消えるのだ。
 今日という日を呪うであろう者達の為に。
「なーにもったいねーことしてやがる。このクソマリモ!」
 背後からかけられた低い罵倒。その怒りに満ちた声に、しかし今日ばかりは答えたくはない。
「俺が買った酒だ。好きにさせろ」
 静かにそう言うと、ゾロは酒瓶の底をもっと上へとあげていく。
 チッと舌打ちする音が聞こえ、瞬間鋭く空気を切る音がする。反射的に刀を鞘ごと上げ、下りてきた蹴りを受け止めた。
 その間も酒を落とすことをやめはしない。
 力任せに押してくる脚を受け流して外し、ゾロは水面に落ちる酒の雫に目をやった。
 背後でバランスを崩させられた青年が、そのまましなやかに身体を倒しその長い脚で真横から今度は蹴りを回してくる。
 ゾロは刀身を肘で支えるように縦に流し、鋭く重い蹴りを鈍い音をたてて受け止めた。
「てめぇ、なんでそんなことしてやがる」
 唸るように聞いてくる青年には何も答えず、ゾロは同じ調子で瓶を倒していく。
 ゆっくりと傾けた酒は、ついに底を天に向け、最後の一滴をこぼして沈黙する。
 そのまま何かを待つようゾロは水面を見届け、やっと蹴りを放つ青年の方へと視線を送った。
「…今日は宿に行ったんじゃなかったのか?」
 止められた脚に僅かに力を込め、蹴り戻すように青年は脚を下ろした。そうしてやや腰反りぎみに姿勢を正すと、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。口の端に加えた煙草の先端が少しだけ赤くなり、その後に白く細い煙が長くなびいた。
「ああ、久しぶりの陸だからな、皆で宿とったぜ?」
 なら、どうして戻ってきた?
 言葉にせずともそう質問してくる顔に、サンジはお返しとばかりに答えずにその口元を僅かに引き上げるように歪めた。
 そうするとややせせら笑うような表情になる。
 そんなサンジを少し嫌そうに眺め、ゾロは持っていた瓶を船縁に置いた。少しこもったような音を瓶が立てる。それが奇妙に響いて聞こえて、ふと目線をそちらに逸らした瞬間、ゾロが踵を返した。
「おい、ちょっと待てよ!」
「戻って寝ろ。船番は俺だ」
 そのまま歩いていくゾロはそのままキッチンのある部屋へと向かっている。なんとなく面白くなく、サンジは舌打ちするとゾロの後を追った。
「おい、待てって」
 追いかけるサンジをまるで気にした様子もなく部屋に入ったゾロは、酒の置いてある棚から今度は見知らぬ瓶を取り出した。それも多分自分で買ったものなのだろう。やや青みがかった瓶の中身は透明なのか、揺らされる度に大きく波打つのが見て取れる。
 そういえばゾロは船番の前に、とチョッパーを案内役にして酒屋に行ったと聞いていた。その時に買い揃えたものなのだろう。
 ワインなどの果実酒ではなさそうだ。さらりとした感じの液体の揺れに、なんとなくそんなことを考える。穀物系の酒、もしかしたら島の特有の酒なのかもしれない。
 ゾロはあっさりときつく封じられている瓶の蓋を歯で抜き、そのまま口に当てようとして動きを止めた。
 ほんの少し匂いを確かめるように瓶を振り、小さく溜息をつく。そのまま瓶をテーブルに戻すと、ゾロは蓋を戻してしまった。
 なんでもないような一連の仕草だったが、それを見ていたサンジの方はなんとなく違和感を感じて眉間を寄せた。
「その酒、なんか匂うのかよ?」
 近づこうとするとゾロは微かにサンジの方を見、ため息と共に肩を落とした。
「何で戻ってきた」
 直球の質問に、わずかにサンジが怯む。
 あまりにも真っ直ぐ問われれば、返す言葉を探すことができない。
 ただ気になったから。それだけが答えではおかしい気がする。気にしすぎかもしれないが。
「おれの質問にまず答えてないな。その酒気にいらねぇのかよ?」
 煙草をふかしながら、動揺を知られないようにせいぜいふてぶてしく質問で返す。こういうのが苦手なのは、自分よりも目の前の剣士の方だということは十分理解している。
 案の定、ちっと舌打ちした剣士は、酒をサンジの方に放り投げた。
 慌てて受け止めたサンジを見ることもせずに、ゾロは前から置いてある安酒の瓶を手にして出て行こうとする。
 どうやら本当に今日は1人でいるつもりらしい。
「どこいく?」
「風呂」
 汗だくの剣士は、そう呟くように答える。サンジはその答えに被せるように酒の蓋をあけた。
 間の抜けた音が声に重なり、なんとなくゾロの視線がサンジの手元に戻る。その瞬間を狙ったように、サンジは瓶の口に身をかがめるて寄せると、ペロリと舐め上げた。
「…かれぇ…」
 まるで何かを煽るような仕草で、己の唇をも舐める。
 そのまま上目遣いでゾロを見上げ、サンジはその目を細めた。艶を含んだ、酷く淫蕩な瞳で。
 不意打ちの仕草に直視してしまったゾロの喉がゴクリと鳴った。
「なんのつもりだ、クソコック」
 低く掠れた声が告げる言葉に、サンジは微笑む。それもまた、ひどく艶を含んだ笑みだった。
「わからねぇとは…言わせねぇぞ、クソ剣士」
「宿に戻れ」
「…無粋だなぁ、お前は…」
 言いながらもサンジはゆっくりと締めているネクタイに指をかけ、そっと引き下ろした。
 ずっと、今日という日がなんなのかをサンジは伺っていた。
 11月11日。
 別に何もない日々の中で、昨年のことが甦る。あの時は航海途中で、ゾロは見張りだった。夜の仕込みが終わって、男部屋に戻ろうと思ったサンジは、誰もいなくなった甲板でゾロが1人船首に立っているのに気付いた。
 別段気にとめるようなことはなかったはずだった。
 なのについ、視線をやってしまったのは、いつも通りなくせにやけに静かなその背中がともすれば闇の合間にとけ込んでしまいそうな感じがしたからかもしれない。
 あの時も、ゾロは夜食用にと差し出していた酒を海に零していた。
 まるで儀式か何かのように。
 神に祈ることもしない、何も崇めようとはしない、ただ自分の強さと目の前に横たわる現実だけを指針として、ひた走る男が行うその行動に意識が引かれた。
 思わずカレンダーを確かめたのは、何の日なのかという確認だったのかもしれない。
 遠く、闇に紛れた姿だというのに、サンジはその時、振り返ったゾロが笑っていたことにも気付いた。
 うっすらと…まるで何もかもを破壊して喜ぶような狂気じみた----笑み。
 魔獣と呼ばれていた頃、ゾロはそんな笑みを浮かべていたのだろうか。
 だとすれば、なんてゾロらしく、それでいて痛々しい…。
 そう思ってしまったことに、舌打ちしてサンジは男部屋に戻ったのだ。
 あれから一年。ほんの少し気をつけて見ていたゾロに、いつの間にか落ちて、いつしか…夜を共にするようにもなってしまった。
 自分でも信じられないような一年だったと今でも思う。女性をこよなく愛する自分が、まさか男を誇示するようなゾロとそんな仲になるとは想像だにしなかった。
 だからこそ、今日という日を忘れるわけにはいかなかったのだ。
 案の定、ゾロは今日自分から望んで船番になった。いつもなら、自分にも付き合えなどとふざけたことを言ってきたりするのに、それもなく。1人でいようとしていた。
「なぁ、ゾロ」
 サンジは細い指をみせつけるように、しなやかに首もとを閉じているシャツのボタンを一つ外す。
 白い喉元が露わになり、付け根あたりにぽつんと残る赤い色が妙に目立った。
 一昨日つけられた痕だというのに、まだ鮮明なそれ。ゆっくりと指がそこをなぞり、また一つボタンを外す。

 食い入るようにゾロの視線がまとわりついてくる。
 今日がなんなのかは、知っている。いつだったろう、あまりにも興奮しすぎて眠りが遠かった日の寝物語に、お互いのことをぽつりぽつりと話していた時に、ゾロが呟くように告げた日にちが今日だった。
 その時に、なるほど、と思ったのだ。
 あれは、ゾロの生まれた日に対しての儀式だったのか…と。だが、そのうちに分かったこともある。あれはゾロの為の儀式ではない。
 ゾロを呪う者達の為にこそ施される、彼なりのけじめの儀式なのだ、と。 
 ゾロは強い。腕っ節がどうのというものではない。心の持ちようも、ありようも、何もかもが強いのだ。
 強いということは、孤独でもあるということだ。結局、この船に乗っている者達は皆強い。よくもまぁ、こんなに強い者達が揃ったものだと感心するが、その中でもずば抜けたルフィとゾロは引き合うようにお互いを理解している。
 だが、それで孤独が埋まるというわけではない。ゾロとルフィの道は似ているが、まるで違うものでもあるのだ。
「…来いよ…」
 胸元をはだけるように広げ、サンジは口元に笑みをはく。
 思いっきり、今まで一度たりともしたこともない、淫らな仕草で誘うように。
 サンジとゾロの道もまたまるで違うものだ。この先がどうなるかすら分からない程に、違う。でもだからこそ、自分はゾロの隣に立っていられるのかもしれれない。
「てめぇ…」
 唸りとしか言いようのない声でゾロが呻く。
 それを艶やかに見返し、サンジは笑みを深くする。
 そう、今日は、今日だけは…
「お前が今日しなくちゃならねぇことは、おれをせいいっばい愛することだけなんだよ」
 そう断じて、サンジは微笑む。
 未来なんて分からない。だが、自分という生き物がゾロの傍に有り続ける限り、ゾロという孤独な男の生を呪う人々の日があるというのならば、その生を祝う日を造るのは自分だけでいい。
 自分だけで十分だ。
 今まで、ゾロと戦い彼を呪ってきた者達。ゾロが倒してきた者達。そういう者達の怨嗟を、いっそ清々しい程にあびながら、ゾロが船に乗っているというのならば。
 彼を愛おしく思う気持ちも何もかもを含めて、ゾロが勝ってきたことを、ゾロの強さを褒めたたえ、ゾロという男がこの日に生まれてきたという事実を       
 自分が、自分だけが盛大に祝うのだ。
 1人で酒を零すことなど、この自分が許さない。
 サンジは酒の瓶を掴むと、はだけた胸を晒すように仰向き、浴びるように酒を自分に注ぐ。
 強い酒の香りが充満し、流れ落ちる透明な酒がサンジを浸して流れ落ちる。
 張り付くシャツが透け、唇から首筋、胸元を流れ落ちる酒がさらに下へとしたたり、サンジ自身を強く酩酊させる。
「……ゾロ……」
 その名で、自分は酔う。
 ならば、己の存在に…ゾロは酔うべきだ。
 
 酒の匂いに満ちた部屋に、ゾロは目眩でも起こしたかのように一度頭を振った。
 そうして次に視線を定めた時には、その口元に獰猛な笑みをはき、ねらいを定めた肉食獣より凶悪に唸る。
「上等だ、おじけづくなよ」
 ゾロが近づき熱い指が伸ばされる。
 サンジはゆっくりと空になった瓶をテーブルに置き、この酒より自分を酔わす熱を浮かされたように待つ。
 今日という日を、ゾロに返す為に。

「受け取れ、クソ剣士!」
 声をあげて笑うサンジに、ゾロの手が触れる。
「てめぇは、俺のもんだ」
 高々と宣言するゾロの手に、サンジは飛び込んだ。

 静かな夜の始まりに、艶やかな饗宴の喘ぎを零して。

終了(2006ゾロ誕)




2006年ゾロ誕用に書いたお話でした。ツンデレと言われた誘い受けサンジ…ツンデレ…?



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