そういう日




「ほらよ」
 なにげなく夜食を渡されたのは、夜も更けたメリー号の見張り台でだった。
 ひょいと縁から器用に顔を出し、頭上に載せた盆と片手に持った酒らしき瓶を、この船のコックが大きく振る。
「おう」
 それに軽く返して投げてきた瓶を受け取ると、ひらりと痩身が台の内側に滑り込んできた。
 吹き抜ける風が、真夜中だというのに生ぬるい温もりを保ち、大きく張った帆がなみなみとたわんで船をゆったりと動かしてる、そんな夜のことだった。
 夏島が近いらしく、日毎に気温があがっていく海域で、空には丸くなりかけの大きな月がぽっかりと浮いていた。
 月はうっすらと雲がかかり、月明かりをほんのりと滲ませている。
 そんな月をなんとなく見続けながらゾロは酒の瓶のコルクを噛み、軽快な音を立てて取り去った。
 口を開けた瓶からは、芳醇な酒の匂いがした。惹かれて口をつけると、喉を焼く液体が惜しげもなく口内を満たした。
 恐ろしく、美味い。
 舌に当たった瞬間の辛さといい、喉を通る時の爽やかさといい、ほっと息を吐いた時に鼻に抜ける匂いすら心地良い。
 思わず目の前に座り込む男を見ると、皿を持った細身の青年はニッと口角を引き上げ、してやったりといった表情でこちらを見ていた。
 言葉もないのに、その表情だけで分かる。
 これは自分の為に用意された酒で、しかも目の前の男がわざわざ探してきた代物なのだろうということが。
 ゾロの満足を引き出す、それだけの為に。
「……ナミにはなにをやった?」
 吹き抜ける風に舞う、今はくすんだ色に輝く金色の髪を眺めながらそう問えば、サンジはわずかに目を見開いた。思いがけない問いだったのかもしれない。
 だが、すぐにどこかいたずらっぽく笑ったサンジは、ためらいもなく答えた。
「そうだな、今日のおやつはナミさん特製のミカンを使った『ミカンのジュレ』だった。さっぱりしてて、口にいれたらほろっと溶ける。あれは会心の作だった」
 昼間、鍛錬の合間に持ってきてくれた橙色のおやつを思い出し、あれか、とゾロは頷いた。
 動きまくった体に、あの程よい酸味と冷たさがやたらと美味かった。
「ああ、あれは美味かった」
 正直にそう告げると、サンジはほんの少しだけ真顔になった。
 ゆっくりと昼間のジュレの味を舌に思い返しながら、ゾロは酒を煽る。記憶にしかない味であっても、酒と共にながれてゆくそれは、ゾロにはひどく美味く感じた。
 満足そうに呼気を吐くと、サンジはわずかに身を乗り出した。
 その顔を真正面から見つめ、ゾロは笑ってさらに尋ねた。
「で、ウソップには?」
「…おれ様特製キノコのホワイトソースパスタだ」
 それは昼食のメニューにあった。そういえば、ウソップはキノコが大嫌いだと広言して、随分とこのコックと喧嘩していた。それなのに、ここしばらくウソップがキノコを残しているのを見た記憶がない。いつの間にか黙って食べるようになっていたのだろう。
「すげぇな。あいつの好き嫌いなおしたのか」
 マストに寄りかかり、ゾロは上機嫌で空を仰いだ。
 綿を千切って飛ばしたような雲が、青白く発光したような夜空にいくつもいくつも浮いている。それが船と同じように進んでいるのが、妙に楽しい。
 その雲の隙間からは、少なくない星が瞬いて、月明かりと競って存在を知らしめている。
 気持ちが良い。
 美味い酒、舌に残る味の記憶。寒くは感じない風。帆がはらむ音、船が進むさわさわとした波をかきわける船の音。
 さりっと布が擦れる音がして、目の前の男の存在が近くなる。自分が寄りかかるマストの横に、同じようにもたれ掛かったサンジの肩がゾロに当たっていた。
 当たる肩が、ぬくい。
「チョッパーは?」
 横目でサンジを見ると、彼は胸ポケットから煙草を取り出し、手慣れた仕草で口に一本を運んだ。その口元が楽しそうに綻んでいる。
 面白そうに煙草を銜えたまま、彼は先程までゾロがしていたように空を仰いだ。
「チョッパーにはな、湯上がりに甘いココアを入れてやったな。前の島で仕入れた濃厚ミルクは、妙にあいつ気に入ってたしな」
 喉の奥で転がすように含み笑うと、サンジの肩も揺れていた。
 二人して暫く笑いあい、ゆっくりと潮が引くように声をおさめていく。
 こういう風に二人で話をするようになって、どのくらいの月日がたったのだろう。
 寄ると触ると喧嘩ばかりしている昼間の関係を修復するかのように、夜はこうしてどこか穏やかに話しをする。
    最初は…多分、見張りの時に差し入れた夜食がきっかけだったはずだ。
 お互い喧嘩をするのはまずい時間だと、ほんの少しだけわきまえただけだった。そのほんの少しが絶大な効果を発揮して、話ができる相手になってしまった。認識すれば、馴染むのは早かった。同じ年には見えないが、根本を探れば同じ穴の狢同士。意外と話せることにも気付いてしまったのだ。
 まあ、それでも随分と喧嘩もしたし、こういうスタンスで話ができるまでには、かなりな回り道もした。だが、それはそれだろう。
 空島から戻ったばかりの船は、まだどこか忙しなく浮かれた空気を残し、それでも青い海を進んでいる。
「あの女には、なにを?」
「あの女いうな! ロビンちゃんと言え!」
「………そりゃねぇだろ」
 器用に蹴ってくる足を酒瓶を持たない腕でブロックし、それでもぼそりと呟く。
 サンジもその言葉を耳にすれば、ロビンちゃんなどと、かの黒髪の美女を呼ぶ剣豪の姿など思い浮かべることもできず、思わず納得してしまう。
「まあ…確かにな」
 ポケットから取り出したマッチを擦り、小さな火を灯す。鮮明な光に灯されたサンジの陰影が濃くなり、彼の笑みがどこか鮮やかに浮かび上がる。
 一日の労働を終えた、男の顔だ。それもとても満足な仕事を終えた後の。
 ふう、と美味そうに吐き出した煙はゾロの方に欠片も流れずに、風が奪って夜の彼方に飛んでいく。その軌線を何故か目で追ったゾロは、わずかに惜しむ己に苦笑した。
 それこそどういう風の吹き回しなのか。
 我が事ながら、人と人の出会いも付き合いも、本当に予測がつかない。
 再度煽った酒は変わらず美味く、ほんの少しさざ波だった感情にも優しい。
 この味は、隣に座る男のほどこす優しさに似ているのかもしれない。呑んだ側から、胸の奥を焼くように温めるところまで。
「で?」
 口に含んだ度数の高い酒を飲み下し、ゾロは先を促す。この心地よい酩酊感は、こういう一時に味わえばそれでいいのかもしれない。
 癖になる前に、程を知るのも大切だ。
 もっとも…酒は既に癖になっているのが困りものだが。
「ああ、ロビンちゃん♪には、チョコレートだ。前の島で、ミルクと一緒に手に入れた珈琲なんだが、これがまた香りと酸味が丁度よくて。それに合うチョコレートを作ってたんだよ。今日やっとバランスが取れた。珈琲をロビンちゃんは読書の時によく頼んでくるからな、その時にさり気なく出してやろうと思ってたんだ。口にあったみたいで、おかわりくれって言われたぜ」
 わくわくしたようにサンジは上機嫌で煙はハート型に吐き出した。
 本当に器用な男だ。
 くっくっくっと笑い、ゾロは夜食だと持ってきた皿に手を伸ばした。
 生魚を捌いて梅とで和えた、梅タタキがその中の一品にそっと添えてある。今呑んでいる酒には、丁度いいアテだ。
 ついそちらに手を伸ばすのを、サンジがやはり満足そうに見ている。
 酒を呑む時には、あんまり何かをつまむことは無かったゾロだが、この船にサンジが乗り込んでからは違う。いつの間にか、酒に合うものを口にして、変わる酒の味を楽しむようになっていた。
 酒だけを呑むのを、とにかく嫌がったコックのこれはもう、根性勝ちのようなものだろう。つまり味に慣らされたゾロが躾けられたともいう。ウソップの好き嫌いを治されたのと同じだ。
 それを自覚しても、怒りすら湧いてこない。
 こういう変化も、もう受け入れている。
「「ルフィには」」
 同時に口に出し、二人して顔を見合わせる。
 そうしてやはり同時に吹き出し、今度は声をあげて笑った。
「肉しかねぇよな!」
「あの夕飯の肉の量はなんだよ。ありゃやりすぎだろ!」
 今日の夕飯には凄まじい量の肉が出た。勿論、ルフィの目の前にあったのだから、ルフィの為に用意したものだったのだろうが、それにしても山積みだった。
 ルフィは幸せそうだったが、見ているだけで一般人なら胃もたれしそうな光景だった。幸いこの船には一般人は存在しなかったが。
「ありゃしょうがねぇ。空島で分けてもらった肉が、思った以上に足が速くてよ、ギリギリだったんだよ! 保存食にするにも、もう手遅れっぽかったしな。しかもルフィだろうが、別の場所にまでいつの間にか大量に積み込んでたみたいで、全部使わねぇとアウトだし。責任持って喰ってもらおうと思ったら、ああなったんだよ」
 それでも船長は幸せそうだった。
 だから、それはそれで正解だったのだろう。
 ひとしきり笑いあい、ゾロは酒をサンジに差し出した。
「呑めよ」
「いらねぇよ、お前が口つけたもんなんざな」
「それもそうか」
 えらくあっさり納得して、上機嫌で酒を口元に運ぶゾロをサンジは黙って見る。
 そこにはあくまでも穏やかな色しかなく、言葉を聞いただけでは喧嘩になりそうな会話なのに、二人の間にはさざ波すら立たない。
 ゾロはゆっくりと酒を呑む。
 いつもなら、水のようにぐびぐびと呑むのに。それが気に入った酒を呑む時だけは、ペースが落ちるのをサンジは知っている。
 だから、今回はアタリだ。
 どうしても緩む口元を引き締めることはとうに放棄して、サンジはゾロが瓶を呷るのを見る。
 ゾロが酒を呑みきれば、この短い時間は終わる。サンジの仕事はそれで終了するのだ。
 今日も一日、良い一日だった。
 自分が作ったものを、美味しいといって食べて貰えることは、本当に嬉しい。
 この船の者達は、その賞賛だけは惜しまない。これはある意味、とても恵まれているといっていい。食事が日常になればなるほど、出すものは当たり前になっていくからだ。
 当たり前になっても、賞賛をくれる仲間がいるというのは、本当にありがたいことかもしれない。
 ゾロはいつの間にか持ってきた皿のものを食べ尽くし、最後を惜しむかのように瓶の底を天にむけた。大きくさらした喉を月明かりに反射させ、大きく一つ満足げに息を吐く。
 ああ…一日が終わる。
「美味かった」
 ゾロがいう。
 だからサンジは頷いた。
「当然」
 月はいつしか真上に来ている。大きく波打つ帆が笑うようにはためいて、サンジは揺れるゾロのピアスが光っているのを、なんとなく見た。
「ありがとよ」
 ぼんと手渡された言葉に、サンジは皿を取ろうと伸ばした腕を止めた。
「は?」
 斜め上にあるゾロを見れば、ゾロは満足を湛えたままサンジを見ていた。
「美味い飯だった」
「…ああ」
「美味い酒だった」
「…おう」
「つまみもやたらと酒にあって美味かったしな」
「合わせたからな」
「おれだけじゃねぇ。皆、今日は満足したぜ。絶対」
「そりゃそうだ」
「だから『ありがとう』だろ」
「………」
 当然といったように渡される言葉に、サンジはどうしてもついていけずに、ゾロを見る。
 ゾロは空を仰いだ。
「もう、日付変わる頃だな」
「…そう…だな」
 ゾロはもう一度サンジを見ると、楽しそうに口角を上げ、上機嫌に笑う。まるでイタズラ小僧のようだ。
「礼を言うなんざ…どういう風の吹き回しだよ」
 呆然と囁くように言うサンジに、ゾロはどうしてか吹きだした。
 本当に、あちこちで風は吹き回っているらしい。
「そういう日もあっていいんだと、教わったんだよ、ここでな」
 コツコツと足が床を叩く。
 この船では、色んな事が日常として流れて、流れすぎて。一時も留まることをしないけれども。
 流れるだけではなく、巡ってくることもあるのだと、ふとした時に教えてくれることがあった。
「そういう日…」
「ああ、いつもありがとよ」
 いつの間にか三本の刀を腕に抱き、マストに寄りかかり大壇上に構えながらもそういうゾロは笑っている。
 今日だって、いつもと変わらない、まったく同じ一日だったというのに。
「礼を言う日かよ」
 睨み付ける男に、ゾロは笑みを深める。
「それしか知らん」
 サンジは大きく息を吐き出すと、改めてゾロの横に座り直した。なんだなんだと、ゾロがわずかに表情で、疑問を浮かべる。それに構わず腰を落ち着けると、サンジは口元で伸びきってしまっている灰にやっと気付いて、持ち歩いている携帯灰皿にいくらも吸わなかった煙草をねじり込んだ。
「おっまえは不器用だなぁ」
「はあ?!」
「まあいいか。仕方ねぇし」
「なんだよ、そりゃ」
 不機嫌丸出しで言うゾロに、サンジは改めておおきーく項垂れつつ息を吐くと、そっと顔を上げた。
「ありがとよ」
 さらりと声がかえる。
「あ?」
「だから、ありがとうって言ってんだよ。お前に」
 大きく疑問符を飛ばす男の顔に、サンジは力なく笑い、今日はそういえば笑ってばっかりだったことを思い出す。
「礼をかえすのかよ」
「だってそういう日なんだろう?」
 そう言われれば、他になんにも言いようがない。
 思わず目を見交わし、吹き出した。
「しょうもねぇ!」
「まったくだ」
 礼を言って、礼を返して。笑って終わる一日。
 それは…極上の日かもしれない。

 一年の中の、たった一日。意識すらしない一日。
 なのに       そういう日にしてくれた。
 笑い終わって、サンジは立ち上がった。
 今日は終わりだ。
 だから。
「ちゃんと見張れよ、寝腐れるな剣豪」
「言われるまでもねぇ」
「なら封じといてやる」
 片眉を跳ね上げた男の口を、あっさりと口で塞いでサンジは目を閉じた。
 月明かりに光りを弾いたピアスの金色に、己の髪が混じるのが、妙に目の奧に残る。

 ぶわりと吹き渡った風に、大きく帆布がはためいた。
 サンジはひらりと見張り台の欄干を飛び越えた。勿論皿も瓶も忘れない。
 タン、と床板が弾むような音がして、細身のスーツ姿の男の影が甲板に伸びる。
 見上げたらしい男の影は、キラリと彼の髪色に輝き、その腕がひらひらと振られる。
 今日はお終い。
 見張り台の上から見下ろした大きな影が、もたれかかるようにしているのを知りながら、サンジは笑った。
「そういう日だろ?」
 抑え気味の声は、それでも不思議とまっすぐにゾロの耳に届いた。
 だから仕方なく、ゾロは笑った。
「ありがとう、しかいえねぇぞ?」
「どういたしまして」
 そう、それが正しい料理人の受け答え方。
 歩き出したサンジに、ゾロは肩を竦めて、船の進む先へと視線を飛ばした。

 追求するのは、また後の日。
 今日はただ。

 そういう、日。

 
終了(2009.3.2ギリギリ!)
  (2009.3.6改訂)   




 おめでとうサンジ。
 まだ未満の二人で、しかも片思いとお互い思ってるようなそうでないような…(笑)
 お付き合いありがとうございましたv



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