遠くて近い現実〜12歳と17歳・バレンタイン〜




 12月の恐ろしく忙しいイベント盛りだくさんの年越しを済ませ、1月はお節に飽きた人々が殺到する時期を乗りきり、2月の声を聞くと、途端に甘い時期がやってくる。
 仕事が緩やかになってくる蜜月の別名のようにも思えるが、そうではなく文字通りに甘い匂いに包まれるからだ。この時期の厨房は少しいつもと様相が変わってしまう。
 お菓子作りが入ってくるのだ。
 バラティエはレストランだ。なので、勿論製菓を主にしているわけでもない。デザート類を得意とする者も確かにいるのだが、あくまでもコックであってパティシエではない。
 だが、この時期になるとレジカウンターの横に小さなスペースが設けられ、チョコレート菓子がそっと置かれるのは毎年のことらしい。
 するとそれを買い求めに来る客が多くなる。
 食事のついでに買う客も確かにいるのだが、あきらかにバラティエのチョコを買うために来る人達もいるのだ。
 だからというわけではないだろうが、毎年必ずバラティエでは2月になると14日までチョコレート菓子が用意される。
 ゾロがそれを身を持って知ったのは、2月に入った初日のバラティエの厨房から漂う匂いからだった。
「俺たちは料理人だけど、製菓専門にしてるパティシエってわけじゃないからなぁ。作り甘ぇんだが喜んでもらえるならやっちまうんだよ」
 カルネが笑いながら、甘い匂いを充満させて豪快に笑っているのは一種異様だ。
 どうやら初日はカルネがチョコレート担当だったらしい。
「そうそう、コースのデザート類も今月はチョコレートで纏めてあるし。…まあ、ある意味2月は分かりやすくて助かる。デザートはチョコ出しておけば、絶対間違いないからな!」
 決まっていると、確かに楽なのかもしれない。
 目を白黒させてあちらこちらと首を回して休憩しているコック達を見たゾロは、なんだか少し実験室に似ていると思った厨房の一部を見直した。
 今はそこには誰も立っていないので、余計に実験しているような感じに思えるのかもしれない。
 いつも以上に近寄ってはならない…といった雰囲気に、ゾロが少し妙な顔をして厨房を覗いているのをコック仲間が面白そうに観察していたのが初日だった。


 甘い匂いというのは、慣れる。
 というのが、サンジの言葉だった。
 果たして本当にそうか? と家に帰ってきたサンジを出迎える度に思いつつ、ゾロは黙って2リットルの牛乳に口をつけた。
「あ、お前、直接飲むなってあれだけ言ってるだろう! コップに注げ! コップに」
 飲みながら、器用に首を小さく横に振る。
 牛乳は飲むが、実は牛乳を注いだコップを洗うのは好きではなかったりするゾロは、心密かにそれだけは嫌だと思っていた。
 まさかそんなことを考えているとは思ってもいないサンジは、どうしてもこれだけは言うことを聞かないゾロをいつも叱り飛ばしていたが、それもどうも最近諦めつつあるようだ。
 その証拠に、ここのところ、ゾロ専用の牛乳というのを買ってくる。
 それが分かってるので、余計ゾロはコップを使わないという状況が確定してきていた。
「ったく、ホントそれだけは治そうともしやがらねぇよなぁ…お前は。なんでなんだ」
 ブツブツと言いながらも、手早く24時間ストアで買い込んできた食材を冷蔵庫や食品棚にしまい込み、エプロンを身につけていく。
 サンジは料理の学校に通っている。学校が終わったら一旦家に戻りゾロとの夕飯を作り、早めの夕食を一緒に食べるとパラティエにバイトだと行ってしまう。
 普段からそんな生活で、こいつは大丈夫なのだろうかと最近密かに思うようになったゾロを余所に、2月に入ってさらにそれに夜中のチョコレート菓子作りが加わった。
 バラティエで先にその様子を見ていなかったら、きっとゾロは自宅でおののいていたことだろう。
 なにせゾロにはどう考えても、理解できないことだったからだ。
 何故、チョコレートという売られている品物を溶かして、また固めたりしてなくてはならないのか。
 しかもしかも、一旦溶かしたそれを温度計などで測り、お湯につけてみたり氷で冷やしてみたりと、もう訳が分からない。
 溶かして固めて、それを作るというのも、実はちょっと分からなかったりしたのだが、それをバラティエで初日にコックの連中に聞いて失敗したので、あえてサンジには聞いていない。
 長々とチョコレートの成り立ちなど説明されても、さっぱり分からないことだけがゾロにはインプットされてしまっていた。
「2月の14日に間に合わせるには、今日がギリギリなんだよなぁ…」
 つい先日までは、そんなことを言いながら作っていたが、それから先は、毎日違う女性の名前を呟きながら作っているサンジがいる。
 バレンタインっていうのは、女性が男性に送るものだと聞いていたゾロには、サンジが何故嬉しそうにチョコレート菓子を作るのかがそもそも分かっていなかった。
 最初は店で出すものが間に合わないかなにかで家でも作っているのかと思っていたのだ。けれど、サンジが作るものはどう見ても店で出しているものとは違う。
 それで、サンジが自分が誰かに配る用に作っているのだと自然気付いたゾロだ。
 ただ、女性の名前を呟きながら作っているので、かなりな大人数に配ることも理解して、小学六年生は首を傾げていたのだ。
 しかし、いい加減ゾロは閉口してしまっていた。
 店でも甘い匂い、そして家でも甘い匂い。別段甘い匂いが嫌いというわけではない、ぶっちゃけどうでもいい。
 しかし、こうまで毎日毎日毎日嗅ぎまくっていると、鼻がどうにかなりそうな気がしてくるのだ。
 またチョコレートの匂いというのが、意外と家に残る。
 おかげで最近、思い切り食傷気味になって、ふと気付くと風呂場にいる時間が増えてしまっているゾロだった。
 何故か、風呂場だけは匂いが少ない気がしてついそこに行ってしまっているのだ。
 そんなゾロの奇行には気付いていないらしく、今日も今日とてサンジはバラティエから帰ると毎度同じみになってきている板チョコを取り出していた。
「…今日も作るのか」
 思わずそう口に出したゾロに、ほんの少し目を見開いてサンジはニヤリと笑った。
「当然だろう。でも今日が最後だな」
 チラリとサンジが目線を走らせたのは、壁に貼られているカレンダー。思わずゾロもそれを見れば、明後日が14日。つまりバレンタインデー当日だ。
「明日は?」
「明日は作らねぇよ。バラティエもさすがに前日当日その次の日までは予約がびっしりだ。さすがに帰ってからチョコ作る体力が残ってるとは思えねぇ。翌日にも響くしな」
 料理の為の体調管理はとりあえずやっているらしい。
「ふーん…まあ、ガンバレよ」
 とりあえず、今日を我慢すればいいのかと心密かに握り拳を作ったゾロが、チョコレートを溶かす前にとさっさと踵を返そうとしたのに、小さく笑い声が追いかける。
 思わず振り返って、ゾロは後悔した。
 真っ黒な感じの板チョコに、サンジが軽く唇を寄せて愛おしそうに目を細めて笑っている。
「よい子は早く寝ろよー。寝太郎だから心配ねぇか」
 その優しい目のまま、サンジは見下ろしたゾロへと手を伸ばし若草色の髪をわしゃわしゃとかき回した。わざとだ。
 とりあえずその手は振り払い、ゾロは憤然と部屋へと戻ろうと足を速めた。
 サンジからは甘い匂いが微かにした。その甘い手が頭をぐしゃぐしゃにした時、ゾロの頭の中身もなんだか一瞬ぐしゃぐしゃにされた気がした。
 甘い匂いに酔ったような気分だ。
「おやすみ〜、よい子よ〜」
 調しっぱずれのからかいとも歌ともとれる声がゾロの背を追いかけるが、逆にせき立てられように、ゾロは自分の部屋へと引っ込んだ。


 いつもはサンジが家にいるときには、一度も寝てる途中で起きたことはないのに、その夜は目が覚めた。
 何故だろうと首を傾げつつも、喉の渇きを覚えてドアを開けたゾロは、まだ台所に立っている青年を見て目を細めた。
 蛍光灯の下で、金色に輝く髪を動かし笑みを浮かべた唇が小さくブツブツと動きながら甘い甘い匂いの中を漂っている。
 それは匂いそのものよりも、ただ、そこにいる生き物自体が甘さを発しているようにも思えて、ゾロは目眩を覚えて額を押さえた。


 あれはなんていう生き物なんだろう。
 甘い生き物なんているはずがない。
 既に寝ぼけて支離滅裂なことを考えつつ、ゾロはそのままそっとドアを閉めると匂いを遮断し、己のベットへと突っ伏した。
 …もう、甘いものは沢山だ…と何故か本気で思って。
 そのまま意識を暗闇に落とし込んだ。


 2月14日。
 朝起きたらテーブルの上に、珍しく洋食の朝飯と濃い飲み物が用意され、硝子の皿にいくつも丸められたチョコレートが茶色い粉をまぶして置かれていた。
 どちらもその匂いから、チョコレートだと分かる。
 思わず眉根を寄せたのを見たサンジが、朝から爆笑しつつ指先で摘んで取り上げたチョコを無理矢理ゾロの口に突っ込んできた。
 強引に口に入れられたそれは、甘さをそこまで感じないどこか苦みさえ感じる風味が豊かに広がった。
 思わず
「あっ! 美味っ!」
 と口に出したらさらに爆笑されてしまったが、その時にはもう一つを口に入れてしまっていた。
 また味が違う。どうやら皿に盛られたチョコレートは一つ一つ味が違うらしい。
「美味いだろう? 板チョコを溶かして別の味に作り替えて、より美味しくするのがチョコ作りだ。愛情込めれば美味さは倍増! これぞバレンタインチョコ」
 なるほど、味を変えることができるのか、と別の意味で感心したゾロは、濃い飲み物にも口をつけて目を細めた。
 匂いは甘いが、飲み物自体は甘さを全く感じない。
 わざとそうしてあるのだと、わかる。
「ハッピーバレンタインだぜ! どうせ女性からの愛の結晶なんぞ貰えないだろうお前に、おれからのささやかなお恵みだ! 味わえい!」
「けっ、それはお前もじゃねぇの?」
 言いながら、あっという間にチョコを平らげたお子様に、半ば本気の蹴りが飛んでくる。
 結局朝ご飯前に大乱闘になった、ゾロ12歳、サンジ17歳の初めてのバレンタイン日。
 後に。
 ゾロが初めて食べたチョコが完成に二日かかる代物で他のどのチョコよりも手が込んでいたとか、匂いに辟易していたのを知っていたサンジが謝罪を込めていたとか。
 色々なことが分かるのは、まだまだずっと後のことで。
 とりあえず、その時の近い未来。小学生最後のバレンタインだったからという理由で、クラスの女子達から沢山のチョコレートをもらって帰ったゾロの方が、サンジより二個ほどもらいが多かった為に、夜にはまた大喧嘩することになるのだけは確かだった。


終了(10.2.14日)




バレンタインの日に、日誌に書き逃げしていた小話です。子ゾロにホワイトデーがあるんだよとか、誰が教えるんでしょうか?(笑)



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