風の唄




 さくりと音がした。
 踏み出した砂浜に、めり込む靴が立てた音だと一瞬気付かずに、サンジはわずかに目を細めた。
 慣れ親しんだ海風が、陽光より眩しい金色の髪を流す。それにまったく逆らわず、サンジは辺りを見回した。

 足元には白い砂浜。
 奧に行くに従って、浜に咲く昼顔らしい草の蔓の群生が見える。
 目線を上げれば濃い緑の群れ。まるで入道雲を思わすその姿は、もくもくと天をつくように辺りを覆い尽くし、ともすれば、その先の想像すら拒む。
 まるで完成された絵画のようでもある。
 だが、海から吹き抜ける風に、緑は揺れてまるで、呼吸でもしているかのようにうねり動く。

 こんな場所だったのか。

 記憶の底にあるのは、もっと…普通の島だったような気がする。
 海辺には人の姿があり、少し先に行けば小さな広場があり…そもそも、この砂浜から少し先の岩肌には、簡単な代物ではあったが、船を着けるための桟橋などもあったはずだ。
 それが、跡形もない。
 まるでそれこそが、夢・幻であったかのように。

 全身に浴びる日差しと風を受け、サンジは目を閉じる。
 だが、あれは夢ではなかった。
 幻でもなかった。
 忘れてはいない。忘れられはしない。
「……」
 吐息に紛れるように、微かな囁きが口元から漏れれば、島全体が身震いするかのように大きく緑を揺らした。


 この島に行くから、休みをくれと直談判した時、オーナーゼフは、一瞬渋い顔をした。
 バラティエを離れるのは、買い出し以外では初めてだ。休みをくれと要求したこともなかったし、これまでそんな素振りを見せたこともない。
 だが、今年サンジは19歳になった。
 その時から、ずっとこの日を狙っていた。
 1の並ぶ、冬の入り。
 この島のことは、ずっと前から調べて調べて、今や海図がなくても場所を特定できるくらいには頭にたたき込んだ。必ず行くのだと決めていた。だから調べた。…手の届かない、自分が探している海とは違い、ここははっきりしている。だから行くのは簡単だ。
 けれど、行けるからといって行くことができるかというと、これがまた違うというのがもどかしい。
 ゼフの元で一言も言わずに料理の腕を磨き、喧嘩を覚え、バラティエというファニーなレストランを支え。毎日はこのまま過ぎていくのだと、ともすれば思う毎日の中で、ここに来ることと幻の海を探すことだけが…サンジ自身を支えていた。
 何かを確かめるように、サンジは歩を進める。
 さくりと音を立てる砂浜が、一瞬だけ固く足元を支えようとしてもろく崩れ去る姿だと気付いて、彼の口元に皮肉げな笑みが登る。

 何もかもが、砂上の楼閣。
 だが、あの記憶だけは…。

 あの時、自分はこの砂浜を歩いたことがあったのだろうか?
 確か、あったような気がする。
 まだ海賊だったゼフに襲われ、なのに共に出会った嵐の中で助けられ、無人島で長い助けを待つという名の飢餓を体験し。生きるとことと、死ぬことの差がよく分からなくなっていた時だった。死はいつも身近にいて、わずかな身震い一つが己の命を削ることも知った。
 それでも、サンジもゼフも生きた。
 生きることは、本能だ。…そして死もまた、本能だ。
 そこにある差は、実は無いに等しかった。それでも自分達が生き残ったのは、微かな…それこそ髪一筋ほどのただの望みだけだったのかもしれない。
 あの時は幻の海を思い描き、それだけが頭にあった気がする。そして、微かな隣にある気配。
 いくつもの夜、いくつもの昼、いくばくかの雨、流れゆく時間。
 それだけが、ただ平等に自分とゼフの上に流れた。
 そして、その時間は、自分達の感覚とは違う所で、やはり生きる全ての者達に平等に流れていたことを知ったのも、この島に来たからこそだったような気がする。
 何もない岩島から助け出され、サンジとゼフは九死に一生を得た。
 暫くは助け出された街で養生をし、それなりな回復を待って退院した二人は、しかしまだかなりな安静が必要だった。
 それだけ躰の衰弱は激しかったのだ。しかも、ゼフは片足をなくし、そのリハビリももっと必要だった。
 幸い何もない岩場では活躍のなかった宝は、人の暮らす場所に出れば絶大な威力を発揮した。
 ずっと二人しかいない岩場で、幼い子供といい大人は、もしここから助け出されたらという話をしていた。
 そして、助かったら海上レストランというものを作ろうと話は決まっていた。
 レストランを作る資金をさっ引いても、宝はもう少しの余裕を二人に与えてくれた。だが無限に余裕をくれたわけではない。
 街で知り合ったとある人の紹介で、二人はこの何もないかもしれないが、養生するにはことたりる島を紹介され。
 まだふらつく躰で、二人でこの島へとやってきたのだ。


 何度も何度も、それこそ毎日のように思い出していた記憶は、やはりあちこち食い違っているようではあった。
 いや、そもそも、あの時と今とでは、まるで違っているものがある。
 迫り来る緑の覆い。誰も手入れをすることがなければ、自然はあっという間に、その勢力を広げる。
 自らが思うがままに。人の意向など、それこそまったく関係せずに。
 砂から固い地面になっても、草の勢いは衰えなかった。
 だが、遠い昔。ここが人のいた道だという事は分かる。わずかな盛り上がりを見せる人工的な堤、それを補強するような石垣。
 隙間を縫うように絡まる緑の蔦草達は、活き活きとしている。
 海と緑の織りなす香りは、人のことなどおかまいなしに爽やかだ。
 手がかりは、自分の記憶しかない。
 サンジは慎重に当時を思い出す。
 もう少し先に、集落の入口があったはずだ。その当時、ここら辺りは一角、人家が溢れていた。背後はもう少し奧まで開かれ、畑や田んぼがあった。背後の山手からは清水の湧く小さな湖があり、海に近いのにとても綺麗な水が溢れていた。それがこの地の農作を賄っても有り余り、細いが美しい水の流れがあったはずだ。
 記憶に従い、当時の道らしきものを辿っていけば、現れたのは廃屋の群れだった。もう天井が崩れたものも、原型を留めていないものも、辛うじてなんとか形を保っているものもある。
 わずかにサンジは目を細めた。ここは記憶にある。もう少し先に行った所に、自分達が暫く滞在した家があったはずだ。
 だが、サンジはそこに向かうことはせず、この集落の奧に続くもうほとんど姿のない一本の道を見た。
 その奧に…自分は用があるのだ。


 ゼフが寝込んだのは、この島にきて、暫くした頃だった。
 まだ完全ではない足が悪化して、膿んだのだ。それまでの手術で全ては成功し、義足をつけて歩くこともできるようになっていた。だが、その義足がここにきて、徒になったらしい。
 ふとしたことで、義足と生身の足が齟齬をおこした。…というのが、その当時の自分にわかった全てだった。
 とにかく、ゼフは寝込み、早急に街に戻るか何かして病院に行き、治療をせねばならなかった。
 なのに、だ。
 そんな時に限って、この島では、数十年に一度、と言われる祭りを迎えてしまったのだ。
 意味が分からなかった。何もない島で、祭りといわれても、祀るなにかがあるようには思えなかったというのもある。
 しかも、その時期だとおふれが出た途端、海が荒れた。
 船が出せそうにはない高波が続き、空は薄曇りになり日差しが消えた。
 雨は降らなかったと記憶している。
 だが、それは病を抱えたゼフにとっては死活問題だった。大きな街の病院に行かねばならない。この島の医者では、応急処置しかできないという。なのに、そこに行く手段が断たれたのだ。
 なんで!?
 そう叫んだことを覚えている。そして絶望にも似たものが過ぎったのも。
 あの過酷な状況を生き延び、やっと、これからを見つめだした途端だった。今度はあの時とは違い、ゼフ一人が孤独に生死と戦うハメになったことが、無性にサンジを傷つけた。
 一緒にいたからこそ、あの時間を生き延びてきた。
 自分のせいで傷ついた人が、その傷で、さらに苦しむのを側で見ているのだ。
 その時の焦燥は凄まじいものがあった。
 まだ不安定というのもあったのだろうと、今なら思い返して分かる。だが、あの頃は、必死だった。唯一自分の側に残った、手元にあるゼフは希望だったのだ。



 間違いない。
 この道だ。
 両横に、赤く微かな塗料の残った石柱がある。側に寄ってみれば、当時はもっと大きなものだったような気がするのに、伸びきった草に埋まってしまっていた。腰の辺りにしかこないそれを、どこか複雑な思いで見つめ、サンジは再度道の奧を見た。
 ここを、自分は通ったのだ。
 今でもはっきりと覚えている。
 島のわき水で薄布を一枚だけ羽織り、冷たい清水を頭から何度も何度も浴びせられた。それから島の女達の手で、小さかった自分は丹念に丹念に拭き上げられた。
 サンジの金の髪は、この辺りでは本当に珍しいものだった。それを見たこともない平たい櫛で、しつこいくらいに梳かれ、整えられた。
 幾重にも重なる着物という代物らしい、衣服を着せられ、何度も紐で縛られた。袴という青いズボンのようなものを着て、さらに薄衣を纏う。
 それだけでも、小さい自分には随分と重く、また動きづらかった。
 担ぎ棒の据えられた四角い戸板の上には、赤い緋毛氈。その上に、正座という代物で座らされ、四人の男達に担がれて自分はこの道を通ったのだ。
 ゼフを助ける為に。
 半狂乱で、助けを呼ぶための手段を探す小さい子供に、この島の大人達は一つだけ方法がある、と提案したのだ。

『この島の奧の奧にいる、主祭神に頼むしかこの波は納まらない。誰かが供物を持って行って、頼まなければならない。お前が行ってくれるなら、絶対にあの人のことは助けよう』

 サンジはその提案に一も二もなくのった。
 頼んで、帰ってくればいいのだと、ただそう思ったのだ。
 実際大人達は、捧げ物を持って一晩主祭神のおわす場所に置き、この波を静めてくれと頼めばいいと、それが済めば帰ってこいと言っていた。
 それだけなら、お手の物だと小さい自分は思ったのだ。夜の闇はあの岩場で慣れている。怖いとは思わない。
 まだ人というものの側面も知らない…やはり子供だったのだ。
 いや、まだやはり錯乱していたのかもしれない。ゼフの死の方が、あの時の自分は何よりも辛かったのだ。


 ふらりとサンジは歩き出した。
 道の奧は緑の群れ。
 人の住まう場所ではなく、そこは人以外が住まう場所。
 赤い色は境界で、これを越したら、そこは人も獣も木も水も…命あるもの全てが平等の理の場所。
 何もかもがあっても、それは何もなかった岩場と、同じ条件の場所だった。
 赤い柱を通り越し、サンジはそれでも迷うことなく足を進めた。



 しゃらしゃらと耳許で音がした。
 髪に飾り付けられた小さな鈴や、宝石を散りばめられた簪が立てる音だった。
 小さなサンジは白い肌に金の髪、青い瞳をしていた。だからこそ、鮮やかともいえる臙脂色の着物は妙に映え、不思議な色気すら醸し出していた。
 見事な稚児だと、島の大人達は絶賛した。
 こんな稚児は今までいなかった、これなら…と喜ぶ大人達と複雑そうに黙り込む者達を見回し、ただサンジはゼフのことを訴え続けた。
 それだけは全員が真剣に受けて、絶対に助けると約束してくれた。
 着飾る前に、ゼフの元に行ったサンジは、高熱に朦朧としているゼフに、ちょっとだけ出かけてくると笑って話しかけた。
 その時だけ、ずっと寝込んでいたゼフが目を開けて、側にいろと諭した。
 だが、サンジは絶対に助けるからな! と啖呵を切るようにして、家を飛び出したのだ。
 何が何でも、ゼフは助けなくてはならない。
 それしか…本当に自分にはなかったのだ。

 大きな赤い柱は、その時は上にも柱が乗っかっていて、本当に入口を示す門のようだった。
 あれは鳥居というのだと、御輿を担いでいた大人の一人がそっと教えてくれた。
 今は崩れてない、その鳥居をくぐると、途端に潮風が途絶え代わりに濃い緑の香りと立ち上る土の匂いが流れ出す。
 大きく息をする。
 辛い風に慣れた身には、なんとなく落ち着かない。
 濃密な気配がする。それは…生きている全てのものの、むき出しの気配のような気がする。
 海の気配は、海底にこそある。だが、大地の気配は…皮膚一枚の先にあるのだ。
 ゆるい勾配の、歩きにくい道ともいえなくなった道を、サンジはしかし身軽に歩く。大きなスライドで、ぐんぐんと進む先は、行けば行くほどに同じような景色に紛れていく。
 随分と最近は朝晩が冷える。
 だからだろう、見事に紅葉した木々やまだ緑濃く残る木々が混ざり合い、見事なコントラストを見せていた。
 目にも楽しい。これは、自然の織りなす人にはない美意識の賜物だ。
 あの当時は、この道はまだ整備されていた。四人で担ぐ御輿が、普通に歩いて上れたのだ。
 倒木やなにかで歩きにくくはなっているが、基本やはり平坦な感じがするのは、その時の名残だろう。
 


 男達に担がれ、どれだけ道を進んだのだろう。
 島の人がいる所だけで療養していた自分達は、足一つ踏み入れたことのない場所だということだけは分かった。
 どこまでも濃い木々の密集した場所は、まったく方向感覚が掴めない。
 どこを見ても同じような景色に感じるし、またまったく違う場所を見ているような気もする。
 そのうちに、担いでいる輿では上れないような急な場所を通ったりなどもした。そういう時には、男達の誰かが自分を背負い、そこを上って通ったりもした。
 段々男達が無口になり、朝方に出発したにも関わらず日差しはもう中天を通り越そうとしていた。
 もう、どう戻ればいいのか、サンジにはさっぱり分からなくなっていた。
 だが、ここまで来たら、腹を据えるしかない。
 ひたすら前を見据える子供に何を見いだしたのか、男達が痛ましそうに見る視線が注がれるのをサンジは感じていた。だが、それがなんだというのだろう。
 ゼフの為に、今できることはこれしかない。
 その覚悟は凄まじかった。
 気付けば、自分は大きな壁のような岩が立ちはだかる、小さな広場じみた場所に下ろされていた。
 岩には大きな丸い形が描かれ、周囲を白い紙をまとわりつかせた縄が張り巡らされていた。他には何もない。
 だがその岩の下には、少しだけ窪みがあり、その前には古びた木造の台が設えられていた。
 男達はそこに竹で作った花瓶を取り出し、緑の葉の茂った枝を差し、その前に持ってきていた酒の筒を並べた。そうして、サンジにいくつかの包みを渡した。
 ぷんと香る甘い香りにに、食べ物であることは分かった。
 菓子の類だろう。もう一つは煎った匂いがしたので、こちらは多分煎り米かなにかだろう。酒の筒を渡し、これを持っていろと男達は言った。
 ゼフを…と言い募るサンジに、それだけは絶対心配するな、と念を押し。
 彼らはその場から、逃げ去るように走り出した。
 …最後の最後に、一言だけ、男達は零した。

       すまない

 言われなくても、なんとなく、理解できていた。
 ここに来るまでの道筋で、いくら余裕のない子供でも理解できることは沢山あった。
 供物を捧げて、願いに行け。
 その供物が、こんな小さな包みのものであるわけがないのだ。
 手渡された包みをじっと見つめ、サンジは懐にそれらをしっかりと仕舞った。
 酒はどうしようかと思ったが、それもきちんと仕舞う。
 何があるかは分からない。だが、それでも、今晩一晩を過ごせば自分はゼフの元に戻ることができるのだ。ならば、後は生き残ることを考える。
 なにせサバイバルにはサンジは慣れている。
 何もない所での経験がここで役に立つとは思わないが、生きることと死ぬことの境界を見た者にしかなしえない覚悟は…いくらでもできるのだから。
 夜に供えて、サンジは辺りから薪になりそうな木々を拾い集めた。
 そうして必死に火を焚こうとした。幸い、枯れ木も朽ち木もある、サバイバルの基本だと火の付け方は習っていたので、随分と時間はかかったが陽が落ちる前になんとか火を灯すことはできた。
 動きづらい着物は、それでもそのまま着ていた。
 夜の寒さは辛いだろう。ならば服は重宝する。何枚も重ねられているから、体温を保つことは十分にできるはずだ。
 食べ物は今晩分くらいは楽にある。
 それだけでも安心していたサンジは、たった一つのことを失念していた。
 供物にされたということは、捧げるものがあるのだという…一番重要な事実を。

 日がかげった途端、サンジはそれに気付いた。
 違う。
 何かが大きく違う。
 自分が知っている危機も確かにそこにある。
 だが、まったく違う何かが、そこにあるのだ。

 どこかで、地鳴りのような腹の底を揺さぶるような音がした気がした。
 空気が歪むような音だった。背後の壁がのしかかるように暗く、重い。それはサンジの知っている、何もない夜とは根本的に違うものだった。
 暗いのではない。
 冥いのだ。
 まとわりつくような土の匂いがきつくなる。
 視界が閉ざされる闇が、木々の隙間から徐々に…徐々に広がっていく。
 先程まで見えたはずの枝が、少しづつ霞み視界から闇に消えていく。遠くから唸るような音がする。多分あれは風の音だろう。だが、視界が消えていくにつけも音だけが響きを強くしていく。
 正体のわからない音が増えていく。
 よくぞ火を灯したと、その時心底思った。
 もっと火を大きくしようと、まだどこかに微かに陽の気配が残る空を見上げ、サンジは必死で集めた薪を火にくべた。
 そして何故だろう。大きな木の枝を一つ取り出し、着物の袖を引きちぎるとそれに巻きつけ、酒をかけて松明を作った。
 それこそが本能だったのかもしれない。
 完全に陽がかげった時、サンジが捕らえたのは視線だった。
 見られている。それも…四方から。
 愕然とした。
 生き物の気配はない。なのに、まるで絡みつくような視線が、幾重にも幾重にも降り注ぐのを感じるのだ。
 身動き一つ、できなくなった。
 動いてはダメだ、と本能が忠告している。
 自分の心臓が早鐘のように鳴っている。息が苦しい。だが、細く細く、気配を消すようにしか呼吸をすることができない。震えそうになる息を、必死で押さえた。胸元の包みを、無意識にぎゅっと握りしめ、サンジはじっと目を凝らし、見えない闇の奧を睨み付けた。

 …かさり

 音がした。
 背後。
 岩壁がある行き止まりから。

 雄叫びが上がった。
 それが自分が発しているのだと、気付くことはできなかった。
 ただ、無我夢中で、サンジは手元にあった松明を背後に向かって投げつけていた。

 悲鳴のような叫びが辺りをつんざいた。
 それはやたらと甲高く、耳障りなキーキーという錆びた金具が立てる音にも似ていた。
 そしてサンジは見たのだ。
 自分とあまり背丈の変わらないような、大きな猿が爛々と輝く目でこちらを見ていることに。
 しかも一匹二匹の沙汰ではない。
 青く燃えさかる炎にも似た数々の目は、ひたとサンジを見据えている。
 わずかな炎の灯りに、のたうちまわる一匹がいる。


 あれは偶然の賜物だった。
 汗をぬぐい、サンジは山の頂上付近を目指していた足を止めた。
 多分、方角はあっているはずだ。
 小さい自分にはかなり遠く感じたが、今の自分には、造作もない。とはいえ、慣れない山道はやはり、勝手が違う。
 背の高さも違うからだろうか、あの頃とは周囲の印象も違う気がした。
 そう考えて、苦笑が口元を彩る。
 当然だ、あの頃とは本当に違うのだから。


 あの時、サンジが取った行動は本当に本能的なものでしかなかった。
 大きな猿の群れの中にいるのだと気付いた時、頭上からも木々の根元からも、沢山の目があることに慄然とした。
 硬直しそうな手足を必死で動かし、サンジは、炎の燃えさかる薪を取り、振り回した。自分に火が飛び移ることなど、まるで怖くはなかった。
 そして、サンジは駆け出した。
 のたうち回る猿の方、すなわち、壁の方に向かって。
 さすがに火にやられた猿は、飛びかかるように火を持ってきた小さな者からは飛びすざって逃げた。だが、唸りを上げて襲いかかるその他の無数の猿達は容赦はない。
 そこにきて、初めて、着せられた服の意味にもサンジは気付いていた。
 動きづらい、それは逃げにくくしているのだ。
 だが、重ねられた服は、動きにくくしていると同時に、襲いかかる鋭い爪からサンジをわずかながら守る役目もしてくれた。
 壁の方にはほんの少しの距離だったはずだ。
 だが、それが恐ろしく遠い。上からも横からも飛びかかる大きな影を、必死にひたすらに避け、駆け抜け、火を振り回し、サンジは髪を振り乱し、走った。

 しゃらしゃらと音が沢山した。
 この音も、自分がここにいるという居場所を告げる為のものなのではないか。
 壁に辿り着き、そして今度は壁に添うように、必死に逃げた。
 壁にさえ、片方を寄せていれば、四方ではなく、三方と頭上を気にするだけですむ。それだけでも随分と大変なことだ。だが、それでも、四方八方よりも、一つでも負担がなくなれば、それだけ生きる道筋が立つ気がしたのだ。
 なんとか襲い来る猿達をかわしていけたのは、ただの偶然だ。
 火があったのが本当に幸いしたのだろう。どこともつかぬ所を走り、必死で逃げていた時、サンジは土壁が不意に消失している所に出た。
 このままでは、帰れない!
 必死で、自分を守る壁を探そうと手を伸ばした時、そこに明らかに人工的に作られた木の扉があることに気付いた。咄嗟にその扉を開いた。
 開いた瞬間、炎が消えた。
 そして、自分は扉の内側に引きずり込まれたのだ。


 あの場所に辿り着くのに、思った程は時間はかからなかった。
 1日2日はこの山を巡るつもりだったのに、なんだか拍子抜けする。
 あれから12年経つというのに、そこは全く変わらなかった。
 少しだけ窪んだ岩壁、その上に描かれた大きな丸。窪みの前には、古びた棚らしきものの残骸がある。
 だが、岩壁に張り巡らされていた縄と紙だけはない。
 ここで、自分は必死に逃げたのだ。
 そっと壁に手を添えれば、ひんやりとした土の感触がほてった肌にしっとりと馴染む。
 片手を壁に伸ばしたまま、サンジはまるで唄うような足取りで、さらに歩き出した。
 あの時に、自分が進んだ方へ。
 走って、必死に逃げた方へ。


 引きずり込まれた、と思ったのは、間違いだったのかもしれない。
 ただ、開いた空間につんのめるように倒れ込んだ。その勢いに負けたかのように、扉は大きく開ききり、音を立てて勢い良く閉まった。
 喘ぐような息の元で、必死に倒れた躰を起こそうとして、それでもカラカラに乾いた喉が上げるきつい蠕動に、苦しいのに咳き込み、力が入りきらない。
 何か…とにかく何かを…。
 何も見えない視界のなか、すぐにでも襲ってくるだろう爪を思い出し、必死に手を伸ばした。
 もう炎もない。後は…ただ逃げるしか、もう子供の自分には手段がないのだ。
 壁がなくなった時と同じように、必死で腕を伸ばした時だった。
 ひやりと触れたものがあった。
 固い。何かの棒のようなものだ。だが、それは確実に木のような自然物ではなかった。人工的なものだ。ざらざらとした表面、その先には、紐のようなもので綺麗に巻かれた場所があり、平たい小さなものがある。
 その小さな平たい物に、何かが結わえられている。
 訳が分からないままに、サンジはそれを引きちぎった。
 これは固い、ならば、きっと今この場を逃れる為の武器になるのでは、と思ったのだ。
 抱き寄せるように、胸元にかき抱き、整わぬ息の元、必死にどうにかしようとあがいた時だった。
「…餓鬼か」
 声がした。
 それは明らかな人の声だった。
 はっと顔を上げたサンジは、そこに、一人の男がいることに初めて気付いた。
 途端、噎せて咳き込んだ自分に、その男は小さく舌打ちしたようだった。
 ぜいぜいと肩で息をする自分の背を、暫く見つめ、男は仕方なさそうに立ち上がった。そして、すぐ傍に座ると、背中を軽く叩いた。
 不思議と、冷たい感触だった。
 多分汗を吸った着物が冷えてしまっているせいだろう。
 優しい感触に、思わず涙ぐみそうになりつつも、サンジは必死で息を整えた。そうして、なんとか暴れる鼓動と息を静め、再度顔を上げた。
「贄の稚児か」
 静かな声だった。
 見上げた先に、一人の男がいる。何故だろう、こんなに冥いのに、その男の姿がうっすらと見える。
 だが、それに疑問を持つことはなかった。とにかくここに、自分以外の人がいる。それがサンジには一番重要なことだったからだ。
 男は着古したような着物をまとい、面倒そうにこちらを見ていた。
 緑色をした短い髪、物騒な程に鋭い眼光。左の耳には、細い金色の輝きが三つ揺れている。
「…あれを連れてきたのは、お前か」
 くいっと顎で背後を示す、それに、サンジははっとして背後を振り返った。
 扉が見える。
 なんだろう、何かがおかしい。だが、それが何なのかは分からない。
 けれど、外にある無数の音には気付いた。奴らが立てている音だろう。地面を這いずるような、かさかさと落ち着きのない、まるでわき出るような音がしている。
 思わず胸元の細い物をぎゅっと抱きしめると、男は苦笑したようだった。
 何かを言おうとして口を開いたが、声が出ない。喉がもう、ひからびたようになっている。
「まあ、いい。…お前が抱いているそれをこっちに寄こせ。それから、お前が懐に持ってるそれも、少し寄こせ」
 ゆっくりと自分に向かって伸ばされる手に、呆然とサンジは見入った。
 外に無数の物騒な気配があるというのに、この男の落ち着きぶりはなんだろう。促すように、手がわずかに上下するのに、のろのろとサンジは抱えていたものを下ろした。
 気付けばそれは随分と重い。取り落としそうになったのを、男は軽々と手中に収めた。それでわかった。細いそれは、見事な程に白く綺麗な刀だった。
 男は満足そうに、刀を握るとゆっくりとそれを上下に振った。その度に、口元が押さえきれない笑みを履く。
 鋭い笑みだった。
 物騒な笑みだと言い換えてもいい。
 男は満足そうに持ったまま、再度自分の方を見た。
 そうして、またしても手を差し出す。今度は首を傾げた。すると男は嗤いながら手を伸ばし、サンジの胸元に手をかけると、引き寄せるようにして衿をはだけさせ、懐に忍ばせていた筒を引っ張り出した。
 あっ、と静止する間もなく筒の蓋を開け、男はそれを煽った。
 音を立てて、喉を上下させ、酷く満足げな呼気を零してゆっくりと口を外す。
 呆気にとられているサンジをなんと見たのか、男は少しだけイタズラっぽい表情を見せると、小さく今度は筒を煽り、またしてもサンジを引き寄せた。
 有無をいわさずに、その口元にかじりつくように口を寄せ、無理矢理覆い被さって驚くサンジの口内に、熱い水を注ぎ込む。
 がっと喉が焼けた。
 思わず盛大に噎せて、サンジは蹲った。
「わりぃわりぃ。餓鬼にはやっぱ強烈か」
 ぽんと投げ出された筒は、もう少し中身が残っているようだった。
 筒の中身は酒だった。口の中に広がる酒気と喉の痛みに、涙目になって睨み付けると、男はニッと笑って見せた。
「美味い酒だ…久し振りだぜ。これで何か喰うものがあれば、文句ねぇんだけどな」
 どうやら腹を空かせているらしい。
 軽く腹をさする仕草に、まんざら嘘でもないと思ったサンジは、黙って懐にあった菓子と煎り米の包みを取り出した。
 男は嬉しそうな顔をして、サンジが差し出す包みを見、それから残念そうに首を振った。
「煎り米とは恐れ入るぜ。お前が喰え。…まったく念がいってやがる…外はうるせぇしよ」
 びくりと震えたサンジは、慌てて外の方を見た。
 扉が見える。
 そういえば、たかだか木の扉一枚。それくらい、外にいるモノ達からすれば、まず障害にすらならないような代物のはずだ。
 なのに…何故襲ってこないのだろう。
 低く、しかし楽しげな音が響いた。
 それが男が発しているものだと気付いて、サンジは刀を手に扉を見る男を見上げた。
「久しぶりに出たと思ったらこれか、本当に念が入ってやがる」
 男はくつくつと笑いを堪えられないように肩を震わせ、やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「贄の稚児。美味い酒の礼だ。お前はここから出るな」
 言うや否や、ゆらりと立ち上がった。
 慌てたサンジを見下ろした視線だけで封じ込め、男は本当に楽しそうに口元を緩ませた。
「ここまで来れただけでも、たいしたもんだ。お前はよっぽど、やりたいことがあるらしい」
 それには頷いた。
 帰って、ゼフを助ける。
 そして、店を作って…行くのだ    幻の海へ。
「おう、なら、頑張るんだな」
 不思議と明るく言う男に、サンジは何故か酒の筒を差し出した。もう少し残っていたはずだ。
 男は少しだけ呆気にとられたような顔を見せ、それから破顔した。受け取ると、一気に残りを煽り、筒を投げ返す。
「外に出るなよ」
 言い残し、男は一息に、外に飛び出した。
 大きく開いた扉から、外が見えた。
 無数の青い目の乱舞。獣の唸る声も聞こえる。耳障りな甲高い声、そして、初めて気付いた、生臭い獣の匂い。
 そこに、男が一人立った。
 すらりと腰の刀を抜き去り、鞘を背後のサンジの方へと投げる。
 それは過たず、サンジの膝元へと突き立ち、驚いたサンジの目の前で扉がゆっくりと閉まっていく。
 必死で外を見ようとしたサンジが扉が閉まるのを止めようとした時、鞘がわずかに光り動きが止まった。と同時に、ちらりとこちらを見た男と視線があった。
 男の目は赤く燃えさかる炎にも似た輝きを放っていた。
 その手がすらりと伸びた、白い輝きを持つ刀身をゆっくりと肩に乗せる。
 微かに開いた口元から見えたのは、牙だろうか。
 扉が閉まっていく。
 視界が途絶える寸前、白い軌線が走った。

 扉が閉まったと同時に、鋭い咆吼が山を揺るがした。



 夢ではなかった。
 幻でもなかった。
 あれは事実だった。
 ただの現実だった。



 サンジは歩みを止めた。
 小さい頃の自分は、何もできなかった。
 あの時に自分ができたことは、ただ祈ったことだけだ。信じたことだけだ。
 あの男を。
 そして、あの男の勝利を。
 外には出られなかった。出るななど、言う必要すらなかっただろう。出られなく、あの鞘がしていたらしい。
 サンジは食い入るように、ただ木造の扉を見ていた。歯を食いしばり、ただ必死に見ていた。
 音だけが、外の様子を知るよすがだった。
 獣の低い咆吼と、甲高い声の群れ。
 肉の交わるような音、殴るような音、そして地響きを立てる音。風切り音。
 何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。
 だから祈るしか、できなかった。

 時間の観念など、あの時の自分にはまったくなかった。まるで無限のような時間。
 あの岩場とはまた違った、しかしとてつもなく長く感じた時間だった。

 音はまだ続いている。何もない暗い空間を灯すのは、目の前に突き立つ白い鞘だけだ。
 何故かぽうっと発光している鞘は、静かにそこにあって、サンジを慰めているようだ。
 なんとなくそれを見つめているうちに、サンジは鞘に古びた紙がぶら下がっていることに気付いた。
 引きちぎられたそれは、多分、最初に自分がむしったものではないだろうか。
 そっと、それに手を伸ばしサンジは紙を抜き取った。
 薄く灯される鞘の光にかざせば、そこには墨色で、小さな文字が連なっていた。


 目の前には、小さな祠がある。
 岩壁が途切れたと思った所は、ただ単に大きな裂け目があるだけだ。
 その狭間に、両手を伸ばしたくらいの大きさの、小さな祠が一つある。背の高さも、サンジの腰くらいまでしかない。
 何もかもが朽ち果て、崩れ去っている中で、その祠だけがまるで崩れた様子もなく、まるで先程まで誰かが手入れしていたかのような姿でそこにある。
 土で汚れた手を軽く叩いて埃を落とし、サンジは笑みをその口元に登らせた。
     見つけた。
 あの時と同じ、だが記憶にあるよりもかなり小さな木の扉をサンジはそっと、指でなぞった。


 気付いた時には、外の音は鎮まっていた。
 それまでしていた音がぴたりと止んでいる。
 耳が痛くなるような静寂が、返って恐ろしい。自分が自分の鼓動で震えるのが、はっきりと分かる。
 ガタガタと今頃になって震える躰をぎゅっと押さえようとすれば、自分で自分に抱きつくような形になっていた。
 音が欲しい。岩山に置き去りにされていた時には、海の音がずっと寄り添っていた。小さな鼓動がずっと寄り添ってくれていた。なのに、ここには音がない。
 それは…怖い。
 思わず、ぎゅっと目を閉じた時だった。
 かたりと小さな音が響いた。反射的に、サンジは飛び起きた。慌てて音の正体を見ようとして、サンジは気付いたのだ。今まで突き立っていた鞘が…倒れている。
 急いでサンジは扉に手をかけた。扉はすんなりと開いた。
 そして、サンジは見たのだ。
 わずかに空が白み始めた空間の下、真っ赤に染まった一面血の海。
 そしてどす黒くさえある地面に、累々と横たわる大量の獣たち。
 その中に、すらりと立つ、男がいる。
 赤く染め上げた刀を手に、自身も真っ赤に染まったまま、男は徐々に明るくなっていく緑の木立の中に立っていた。
 噎せ返るような血の臭いに、思わず胸を押さえたサンジは、男が大きく振りかぶった刀を振り下ろすのを呆然と見た。
 その一振りで、どういう仕組みになっているのか、赤く染まっていた刀から血糊が落ちる。
 刀身が、まるで歓喜するように、白く輝いた。
 それは場違いともいえる、不思議に清浄な姿だった。
 所狭しと横たわる猿の死骸は、恐ろしい数だ。まだ闇の気配の方が勝る空間に、夜を沈み込ませたかのような地面。それが異様に、佇む男を浮き立たせている。
 ごきりと首を回し、男は振り返った。
「…腹の足しにもなりゃしねぇ」
 空は明るくなっていく。闇より光が強くなり、平等な時間という流れがここにも注がれようとしている。
 辺りがはっきりと徐々に色を鮮明に浮き上がらせ、墨を流し込んでいたような闇が薄れていくのを、ぼんやりと見るしかできない。
 そんな中で見る男は、思った程年をとってはいない感じがした。まだ若い。緑の髪が、あるかなしかの風に揺れ、左耳の飾りがわずかな光にも反射していた。
 凄惨ともいえる血の海の中にあって、男はなんの感慨もなさそうに、サンジを見た。

 木の感触は、忘れもしないあの時のものと同じだ。
 だが、扉は開こうとはしてくれない。あの時は、なんの抵抗もなく、すんなりと開いたというのに。
 耳の奧に、記憶にある声が過ぎる。
『お前ボロボロだな』
 お前の方が、よっぽどボロボロだ。
『たいした怪我もなさそうじゃねぇか』
 お前だって怪我はしてねぇんだろうな?
『さっさと戻れ。戻って、島のもんにいっとけ      『終わり』だってな』
 なにが?

 あの時、何故自分は一言も口がきけなかったのだろうか。
 考えてもわからない。ただ、声が出なかったのだ。
 立ちつくす自分に、男は屈託なく笑いかけ、それからなんでもないことのように大あくびをした。
『これでまた暫く、寝るしかねぇか』
 どこか自嘲を含んだように呟き、男は本当に満足そうに手足を伸ばし    笑った。
 それは一暴れして気が済んだ犬かなにかが、気持ちよさげにのびをしているような。
 そんな感じだった。
 何もかもについていけず、ただ呆然と男を見るサンジの前で、きらりと何かが輝いた。
 緑の木漏れ日の中から差す、鋭い程に鮮明な一筋の光。
 闇に慣れた目が、そのあまりの眩しさに視界を白く焼き切ろうとしたかのようで、サンジは目を細めた。
 瞬間だった。
 音もなく、世界の全てが蒸発した。
 それこそ一瞬だった。
 地面を濡らす一面の赤黒い血溜まりと、横たわる屍の群れが、光を拒否するかのように霧散したのだ。
『じゃあな』
 声が響いた。
 きらりと、こちらは金色の光が視界を掠め……背後で扉の閉まる、微かな音を聞いたような気がした。


 気付けば、自分はあの丸い形のある岩壁に背を預けるようにして倒れていたらしい。
 翌日、やってきた島人が生きているサンジを見つけて、急いで連れ戻ってくれたのだ。
 後で聞けば、贄が戻ってきたのは初めてのことだったらしい。
 寝込んでしまったサンジの意識がはっきりした時、苦虫を噛みつぶしたようなゼフから、凄まじい一喝をもらった。
 既に、自分がいた場所は島でもなく、そこは大きな街の病院だったのだ。
 何があったと尋ねるゼフに、サンジはぽつりぽつりとあったことを話した。どこまでが夢で、どこまでが現実だったのか。
 それすら分からないような話を、だがゼフは静かに聞いてくれた。
 そうして、ゼフはゆっくりと諭すように教えてくれたのだ。
 あの島の言い伝えというやつを。

 サンジは力を込めて、ガンとして開こうとしない扉を無理矢理こじ開けた。
 内側から封でもしてあったらしい扉は、鈍い音を立てて扉ごと壊された。
 誰にも開けない…という扉だったという。けどそれは嘘だ。現に自分は幼い時に開いた。そして、自分なら、この扉は開けるのだ。そうでなければ、おかしい。
 壊してしまったけども。
 そう思いつつ、開いた扉から奧を覗けばそこにはやはり、思った通りのものがあった。
 白い刀。
 鍔と鞘には、白い紙が巻き付けられ、封をされている。
 サンジは、楽しげに笑うと、刀に手を伸ばした。

 この刀には、鬼が封じられているという。
 遠い遠い昔、この島のはるか先の大陸で一人の鬼がいた。
 魔獣と呼ばれ、通る先を血の海に沈め、数多者人の命を奪い尽くした鬼だそうだ。あまりにも昔の言い伝えだ、それが本当なのかどうかは分からない。だが、人ではないものではあるらしい。
 それがどういういきさつでか、刀に封じ込められたのだという。
 封じ込めた刀は、それでも妖気甚大だった。それを恐れた人々は人知れず、その刀を何処かにさらに封じたのだという。
 そんな刀が、何故あの島の一角にあったのかは分からない。
 だが、刀は待っているのだそうだ。
        己を開放するなにかを。
   あの島は実に平和で、綺麗で、静かな島だった。
 だが後から知ったのだが、確かに遠い遠い昔から、不定期に何十年に一回かの割合で、島の海が不意に荒れる時があるのだそうだ。
 それは大概数日で納まり、それ以外はたいして害はないらしい。それどころか、不思議なくらい毎年の天災の被害もないという。
 平和と人は言う。
 しかし、そこにはやはり影があるのだ。
 結局それ以降、サンジはあの島に足を踏み入れることはなかった。
 ただ、サンジはあの男から伝えられた言葉だけは、島の人に伝えたいとゼフに言い募り、一通の手紙を書いた。

 翌年。
 島は大きな嵐に巻き込まれ、島に人が住める状態ではなくなったらしい。
 考えてみれば、その周囲の島は、よく嵐が発生する場所でもあったのだ。
 それこそが当然だろう、という周囲の大人達の言葉を、サンジは新しくできた海上レストランで忙しくしながら聞いた。
   終わりだ』
 あの言葉の意味は、それだったのだろうか。

 刀はずしりとした重みをサンジに伝える。
 子供の自分には、もっともっと重いものだった。だが、今は、それでも普通に持つことができる。
 そっと抱き寄せ、サンジは刀の柄に唇を寄せた。
 愛おしむように優しく、まるで愛撫するかのように。

「…迎えにきたぜ…ゾロ」

 ざっと島が揺れた。
 大きく風が巻き上がり、サンジ自身を巻き込んで竜巻のような渦が駆け抜ける。
 それをサンジは笑って見つめた。

 1の並ぶこの日に、自分は選んだ。
 選んで、捧げられたのだ。

「ちと時間はかかったが…やっと来られた。これでも随分悩んだんだからな」

 …自分は贄だった。
 多分、島の大人達は、この島に巣くうあの妖の猿達への贄だと思っていたのだろう。
 だが真実の贄は、多分違うのだ。
 いつの間にか、現実問題として巣くう妖への対処になっていたのだろうが、多分本当の所は違う。
 元々は…こいつの為の…贄だったのだ。

 背後に大きな存在が湧いた。
 がさりと重い音がする。
 サンジは刀を抱えたまま、満面の笑みを浮かべた。

 贄はきちんと受け取られた。
 それはきっと、この島で初めてのことだったのだ。
「…ゾロ。それがお前の名前だろう?」
 引きちぎった紙に書かれていたのは、人の名前らしい拙い子供の文字だった。それを読み取った時、サンジはなんだか全てを理解した気がしたのだ。
 背後から近づく気配がする。
 サンジは振り返った。
「お前がマーキングしたんだぜ! きっちり受け取りやがれ! 腹空かしの人でなし野郎! 文句は受付ねぇからな!」
 勢い良くシャツをはだければ、左の胸元に赤い三本の線が交わるように絡む痣が浮き出ている。

 放り投げた白い刀を受け取る大きな手が伸びた。
 その腕の中に、サンジは自ら飛び込んだ。

 幸福な、贄もあるのだと、知るために    


 
終了(08.11.11)




 『2008AyaKasi』様提出作品。 びりっけつですみません…orz
 この後サンジはバラティエに戻って、ゼフに「おれの旦那だ」とゾロを紹介するといい…。
 そしていつか、ルフィ達がきて、化け物がなんだというグランドラインに入るといい…!(笑)
 そんな妄想こっそりしつつ(笑)ゾロ誕期間中、やっぱり心意気だけのDLFでした。DLF期間は終了しました。
 貰ってくださった方、ありがとうございました!
 



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