背後から流れて来る風に乗って、微かに緑とミカンの匂いがする。
潮の香りは、もう麻痺しているのか意識にものぼらない。
少し肌寒く感じる風は、昨日から吹きはじめた。そういえば、この船の航海士が近日中に島につくだろうと今朝
言っていたのを思い出す。
そのおかげだろう。気温も安定しているし、海の荒れも少なくなっている。ということは、次の島は秋島か春島、
そのどちらかかもしれない。
「チョッパーが喜ぶな…」
小さく呟き、ふっと口にしていた煙草の煙を吐き出す。
風に乗って、白く広がった煙はあっという間に拡散して消えていく。
今日は1日穏やかだった。
もう夜も遅い。明日の朝食の仕込みも済んだ。見張りへの差し入れも、手渡した。
後は…。
風に乱れた髪を手ぐしで軽く押さえつけ、彼はみかんの木に紛れるように座った位置から、後方甲板を見た。

そこには一人の     見慣れた男が立っている。

後は、その男を見れば、自分の1日が終わる。

男はまるで自分が見る姿勢を整えたのを待っていたかのように、不意に動きだす。

白刃の鋭い煌めきと共に。
彼しか見せぬ、閃きをまとい。
強く、優雅な。
その舞いにも似た、剣を     



舞闘 3



 外が騒がしい。
 ふと、全身全霊で捏ねていた生地から手を離し、サンジはドアの方へと視線を流した。
 ドアの奥   大きくはないこの海賊船の甲板には、自分以外の全員がいるのかもしれない。だが、揃っていたとしても、6人しかいないはずだ。なのにその騒ぎで船が不自然に揺れまくる、というのはどうしたことか。
「なんでこう騒々しいかね。人数だって少ねえってのに…」
 言いつつ自分が捏ねていた生地を見下ろし、苦笑する。少ない人数からは考えられない分量の生地がテーブルの上にどでかく鎮座ましましている。絶対に、この船の人数からは考えられない分量だ。
「まだ発酵もしてねぇのになぁ」
 なんとなく情けない気分になりながらも、サンジの表情は嬉しそうだ。
 この分量で間違いはないのだから仕方ない。この船のエンゲル係数はとにかく高い。少なくとも、この船の麗しい航海士が頭を抱えて唸る程にはバカ高いのだ。
 生地の方はもういいだろう。後はこのまま冷蔵庫に入れて発酵させればいい。今日の夕飯には間に合わないが明日の朝食には、この生地で美味しいパンが焼けるはずだ。
 一息つきたくなって、煙草を探そうと無意識に手を上げ、彼はほんの少し目を見張った。手が真っ白だ。生地を捏ねていたのだから当然だが、これでは自分の服を触ることもできない。
 背後のシンクに向かいながら、サンジはやはり外に意識を向けた。
 それにしても、賑やかだ。笑い声とはやし立てるような声。それに紛れて、ナミの澄んだ声まで聞こえる。
 なにかやっているのだろうか?
 素早く手を洗い、テーブルの上のパン生地をまとめ上げ、きちんと冷蔵庫に仕舞うまで済ます。そうしてやっと一息つくと、サンジは一服するためにドアを一息に開け放った。
「だからっ、何もそんなに考え込むようなことじゃないでしょっ!」
 勢い良く聞こえてきたのは、ナミの声だ。
 反射的に、『ああ、大声出しているナミさんは生き生きして、なんって素敵なんだっ!』と叫びそうになったが、すぐ横から聞こえてきた硬いヒールの靴音に、ぐっとその衝動を抑えた。
「休憩かな? ロビンちゃん」
 にっこりと笑みを浮かべて振り返る。ふふ、と優しく笑った背の高い女性が、潮風に黒髪をなびかせて頷いた。
「ええ、コックさんは終わったのかしら?」
 ちらりとキッチンへと視線を流すロビンに、サンジも笑みを深めて頷く。
「ばっちりでーす! 明日の朝は、貴女の為にとびきり幸せなお食事を出させていただきま〜す。期待しててくださいねー」
 メロリン、と身をよじるサンジにロビンは笑って期待しているわ、と愛想ではない答えを返した。
「で、あっちは何をしてるの? あんまり煩いから一服しがてら出てきたんだけど」
「ああ、あれ?」
 本を持つ片手をゆったりと腰の辺りで組み、彼女は楽しそうに手すりへと近寄った。
「航海士さんが、ここのところ全然躰を動かしていないって言い出して」
 サンジもロビンと並んで手すりへと近づくと、軽く躰をもたせかけた。
 胸のポケットから煙草を取り出し実に手慣れた仕草で一本を銜えると、現れた手が風を遮るように掌で丸く囲ってくれる。隣を見ると、ロビンが面白そうに笑っている。サンジは柔らかな目線で礼を言うように軽くまぶたを落とし、優しい掌の中でそっと火を灯した。
 どこか甘く感じる火の温もりを吸い込むと、掌がふわりと開いて散る。鼻孔を掠める花の香りと微かな花びらが目の前を舞うのを見届け、そっと息を吐き出す。
 サンジがこぼした白い煙は風に細くなびいて、ロビンとは反対の方向に流れていった。
「ん、もうっ!」
 下ではタクトを杖のように突き立てたナミが仁王立ちになり、その前に困惑したように立つ緑頭を威嚇している。その周りを残りの3人が遠巻きに楽しそうに見学していた。
「なんでも剣士さんは、以前棒術使いの人と何度か対戦しているらしいわ。一度は一緒になって海賊狩りしたこともあったらしくて。その話が出たら航海士さんが」
「ちょっと相手しろって言ってるだけじゃない! あんた相手したことあるんでしょ? どんな風だったのか教えてって言ってるだけなのに、なんでそんなに考え込むのよ」
 まるで答えを告げるように言ったナミに疑問は氷塊して、サンジは目を丸くした。
「そんな無茶な」
 その言葉はどれにかかるのか。
 ロビンが面白そうにサンジへと顔を向ける。しかしサンジはそれに気付かないまま、下の様子を眺めつつため息をついた。
「あんのマリモ頭に、人に何かを教えられるような高等技術があるわけないってのに…」
 思わず吹き出したロビンに、サンジはへらりと笑って肩を竦める。
「あいつの戦いっぷりは、ありゃ人に教えてもらうとか、教えるとかじゃなくて、ほぼ本能みたいなもんだと思うんだけどねぇ、おれは」
「…ふふ。そうかもしれないわね。でも、剣士さんの動きを見ていると、基本というものがある気がするわ」
「ああ。そりゃそうなんだけど」
 ふと、相槌を打ちかけてサンジは言いよどんだ。
 昨夜も見た、あの夜の訓練。
 あれは紛れもない、ゾロの動きの基本なんじゃないだろうか?
 滑らかに動くあの刀を振るう動き。あれならば、確かに基本、と言われれば頷く以外はない。
 だが。
「…けどなぁ、普段のあいつの戦闘みてっと、跡形もない気もするんだよなぁ、基本なんて。第1、三刀流なんて誰があいつに教えるってーの」
 苦笑して煙草を噛むサンジに、至極真面目にロビンは同意した。
「あら、そのことをすっかり忘れてたわ。見慣れるって怖いわね」
 一応彼女も、ゾロのスタイルが変わっている部類に入るという認識はあるらしい。
「あれに見慣れたら世も末だよ、ロビンちゃん」
 言いながらもサンジの視線は下の二人を追う。何故かナミよりもゾロの動きを。
「さあ、相手をして、ゾロ!」
 ナミの声は楽しげだ。ゾロが困惑しているのも、楽しいのかもしれない。
 愛用のクリマタクトを両手に、半歩踏み出した形で構える姿は堂々としていて様になっている。誰に習ったということを聞いたことはないので、ナミの棒術も独学のものなのだろう。もしかしたら実践で身につけたものかもしれない。
 だとしても、ナミの構えはサンジから見ても隙がなく、熟練者の余裕すら見受けられる。
「あああ、ナミさんってば、格好いい!」
 思わず目をハートにしても、誰も文句はつけまい。いや、つけさせまいっ! とメロるサンジに、ロビンが楽しそうに笑っている。
 ナミの前で緑の髪を困ったように掻きむしった男は、大きく息を吐いて肩を落とした。
「相手っていっても、俺は棒を振り回したことはないんだよ。どうやって倒すかとか、そのやっかいな間合いが困ったとか、そういうことはあったけどな。一緒に組んだ時は…見てもいなかった!」
「威張るな!」
「なぁ、ゾロ〜。ならそいつと戦った時は、どうやったんだ?」
 当然の疑問といった風に、突然割り込んできたのは船長だ。腹這いになって、上げた脚をぶらぶらさせながら、にしししし、と笑って聞いてくる。
 そんなルフィに、ゾロは首を傾げた。
「ああ? 確か…間合いを詰めて…で…棒ごと叩き切ったな」
「参考にならない」
 肩を落としたナミに、ゾロは大きく同意する。
「だから、無理だっていってんだ。第1、俺相手に戦ってどうするんだよ、叩っ斬るぞ」
「ナミを斬ったら駄目だ!」
「「「「「あたりまえだっ!」」」」」
 間髪入れずに叫んだルフィに、全員からの突っ込みが入る。
 あれ? と笑う船長に皆が笑い、ひとしきり船上に笑い声があふれた。
「当然でしょう! もう。戦うなんて一言も言ってないってーのに、勝手に戦闘にしないでよ。練習の相手してって何度も言ってるのに、全然話が進まないったら」
「悪かったな」
 憮然と言う剣士に、ナミは諦めたのかタクトを持ち替え、姿勢を戻した。

「わかった。なら、以前どんな風に相手と戦ったのかくらいは分かるでしょ? やってみせてよ」
「はあ!?」
 できるでしょう? と好戦的に見上げられ、ゾロは苦虫を噛みつぶしたようにさらに渋面を深くする。ナミはそれを楽しげに見つめつつ、タクトをゾロへと差し出した。
 うっ、と目の前に突き出されたタクトを見つめ、渋面から困惑に移行した表情でゾロは口元をへの字に曲げる。それから大きく肩を落とし、しぶしぶタクトへと手を伸ばした。
「ほとんど覚えちゃいねーぞ!」
「最初から素直にそうやって相手してくれれば良かったのよ」
 言いながら、ナミはゾロから離れルフィ達の方に行く。
 サンジはほんの少し躰を手すりから乗り出した。ゾロがタクトを手に取った瞬間、ふと意識が引かれたのだ。
 ゾロは眉間に深く皺を寄せたまま、タクトを手に考えこんでいる。
 ほんの何秒か、そのまま立ちつくし、おもむろに左足を一歩踏みだしたそのつま先にタクトを落とした。
「あー…確か…」
 逆だったか? と足先を入れ替えタクトも足と同じ左手に握り替えて、つま先にタクトを杖のように立てて落とす。
 ほんの少し、ゾロの躰が沈んだように見えた。
 どう沈んだのかは分からない。ただそう見えた時、つま先にあったタクトの先端が唸りを上げて跳ね上がり、ゾロの躰が反転した。そのままタクトが伸びたかのように後背を打ち、ゾロはタクトが流れるままに元の姿勢に戻ると今の動きなど何もなかったかのように同じ姿勢で立ちつくした。
「…こんな感じで突かれて…」
 どこか遠い所を見るように視線をあらぬ場所に飛ばしながら、ゾロは動きだす。
 いつの間にかゾロはタクトの半ばほどを逆手で握り、下から前方へと流すようにタクトを回転させつつ目前の相手に叩き込む。
 不意に伸びて飛んでいってしまうかと思ったタクトは、しかし前方を凪ぎきり、ゾロは何かを抱えるようにして握ったタクトに手首を巻き込み脇を締めた。瞬間、ゾロの躰がまたしても沈む。と同時にタクトの飛ばした先端と後方が、回転するように撥ねて杖が返った。
 流れるように動くタクトが、優雅に回転しつつゾロの動きに添う。
 刀を持つ時とは明らかに違う動きではあったが、動き出せば迷いはないのか、ゾロの動きは明確だ。
 ゾロの片手が一旦最初の形に戻り、地面にタクトをつく。
 そのまま手がタクトの半ばを掴むとタクトは少し斜めになったかと思えば、クルリと半回転して逆に回る。ゾロの頭上を巡ったタクトは肩に担ぐような形になると、流れのままに逆の手に握りかえられた手が前方へと叩きつける。
 それは確かに誰かと対戦しているような形だった。
 思わず食い入るようにサンジはゾロに見入った。
 夜に見るいつもの動きとは明らかに違う。どこかぎこちなさを感じさせるものではあるが、真っ昼間に、こんなにあからさまにゾロが動く姿を見るのは初めてだ。
 戦闘ではない。
 まるで演舞かなにかのように、ゾロの動きには殺気も気負いもなにもない。
 だからこそ、動きのみが鮮烈に焼き付いてくる。 
 前に打ち込んだ姿勢のまま、余っていた片手を添えてタクトを引き、今度は下から反対の方へと斜めに上方へと逆手で打ち上げ、ゾロは躰を反転させながらタクトを頭上で回し、反対側へと斜め上から打ち下ろす。
 素朴だからこそ、だろうか。
 何気ない動きだというのに、打ち出されるタクトから聞こえる風切り音が、身を切られるかのような錯覚を与えてくる。
 誰もが言葉も忘れてゾロの動きに見入っていた。
 ゾロは自分が戦った時の動きを、ただ思い出してなぞらえているだけなのだろう。だが、どんな戦いだったのか、動きを見ているだけでなんとなく分かる気がする。
「…凄いわね、剣士さん」
 隣で囁くようにこぼれた声音に、サンジの意識がはっと我に返る。
 反射的にロビンを見ると、彼女は手すりにもたれかかり驚きを隠せない様子でゾロを見つめている。その視線がかなり熱心なものに感じて、何故かサンジは慌てた。
 よく見てみれば、頼んだナミも寝転がっていたルフィもウソップもチョッパーも、食い入るようにゾロを見ている。
 ぐわりと胸に湧いたのは、チクショウ、という憤り。
 ゾロは動きを止めると、またしても首を傾げて唸っている。
 動こうとして、やっぱり思い出せないのか構えようとしては止まっている。
 …まだ、やろうというのだろうか。
 今の、演舞のようなあの動きを。


 皆の前で?


 一瞬にして頭の中が真っ白になった。
 何か…何かをしなければならない、と、無意識にサンジは口を開こうとした。瞬間。
「駄目だ」
 ゾロはタクトを肩にかつぎ長く息を吐いた。
「やっばり思い出せねぇ。だいたい…今みたいな感じだったんだが…分かるか?」
 はっ、とサンジは息を吐いた。
 息を吐いたことで、自分が何かしようとしていたことに気付いた。
 今、自分は何をしようとしたのか? 
 いや、何かを   叫ぼうとしたのだろうか?
 呆然とするサンジを残し、甲板では賑やかな声が舞い戻ってきている。
「よーく分かったわ。…あんたに教えて貰おうとしたこと自体が間違ってたってことが」
 肩を落としたナミに憮然とした剣士がタクトを返す。
「だから無理だって言ったろう」
「そうじゃなくて、あんな動きが…できるかぁああっ!」
 半ば力技で奪ったタクトをそのままゾロに叩きつける。
 わっと盛り上がる集団は、とてもとても楽しそうだ。
 「あぶねーなっ! 何しやがるっ!」叫ぶゾロを追うナミは、笑っている。ゾロは必死で逃げているが、これもどこか余裕がある。
 先程ゾロが見せた動きの余韻など、もう、どこにもない。
「どうしたの? コックさん」
 柔らかな声音に、サンジは首を振った。
 銜えただけで吸うことを忘れていた煙草の灰が、不用意に折れて落ちる。
 自分だけが、ゾロの見せる動きの余韻に動けない。
「…ちくしょうっ…」
 何が悔しいのか分からないまま、サンジは憮然としたまま、騒ぎを見つめ続けた。

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真夜中に部屋で一人、モップと木刀を持って動きが分からない…と確認する己の姿に、
こんなの誰にもみせられんっ、と心底思ったお話前半。…続きます…。



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