足音
[後編]




 そんなに長い時間を潰したつもりはなかったが、家の方に戻ってみるとゾロの姿がなかった。
 井戸で足を洗い、玄関へと回って家に入れば、そこには大きな布に包まれた荷物が届いていた。一度紐解いた様子がある。多分、ゾロが開けたのだろう。自分も、と開けてみれば布団一式が二組揃って入っていた。
 そこで初めてこの家にはベットがないことに気付いたサンジである。が、この何もない家にはそれはとても当然のような気がして、サンジは改めて文化というものの奥深さに唸った。
 とりあえず、と台所の土間に立ってば、隣接の風呂場から音が聞こえる。
 もしやと思って土間の水場の板窓を開けると、風呂場から水音が聞こえてきていた。
「おーい、寝くされっ、いんのかー?」
 わざと声をかけてみれば、「ああ?!」と怒り混じりの返事が反響して返ってきた。
「めっずらしいな、おい。お湯でんのか?」
「ああ、水だ。湯が欲しいなら、沸かせとよ。面倒だから、俺は水でいい!」
「横着してんじゃねーよっ、沸かせこらっ!」
「うっせぇ、入りたきゃ自分で沸かしやがれっ!」
「食事作る俺に何言いやがるっ、てめぇの分も俺は作るんだぜっ! そんくらいしやがれっ! この穀潰しっ!」
 言い合いしながらも、くっくっと喉の奥で笑いながら、サンジは蛇口を捻り水を出した。最初のうちはなかなか出てこなかったが、暫く待つと赤黒く濁った水が流れ出し、そのうち透明で綺麗な水が蛇口からこぼれだす。
 本当に長くこの家は使われていなかったらしい。
 なんとなく、それを疑問に思いつつ、サンジは諦めて唸るゾロの声を聞きながら、2人分の食事作りに着手したのだった。



 当然の結末として、風呂から上がったゾロに薪を買いに行かせて風呂を沸かさせた。食事の準備が粗方できたところで、久しぶりにゆっくりと風呂に浸かったサンジだ。勿論、汗だくで沸かしたせいで、ゾロももう一度風呂に入るハメになったのだが。
 ふてくされたゾロを懐柔する意味も含めて、夕飯は囲炉裏のある部屋で、高い足のついた盆に食器を並べての食事となった。
 とりあえず夕刻になり虫が入るのを嫌って障子を閉めたので、風は遮られたがそれでも何故か涼しい。
 照明には簡易なのだろうが大きなランプがあり、不自由はない。居間の周りはとりあえず襖を閉めているので、きちんとした個室状態だ。
「いや、すげえな。こんな家があるとは。…プライバシーはどうしたとか言いたくもなるけどよ」
 コップについだ酒を差し出しながら、サンジは綺麗な絵の描かれた襖を見て何度目かの感嘆の声を上げる。
「プライバシー? そんなもん、相手を尊重してこもってる奴のところに入らなけりゃいいだけじゃねぇか。がちがちに外壁からして身を固めなきゃそんなもんも守れないようじゃ、精神的に貧困なんじゃねぇのか?」
「マリモがうがったこと言いやがる。それでも心配なんだろうよ。人を信じられないってのは、哀しいがな」
 2人しかいない。
 そんな空間で、相手をお互い計りながら時間を潰そうと思えば、酒盛りが一番なのは確かだろう。
 幸いこの島での珍しい山菜などを見つけたサンジが喜んで作った夕食は、酒のつまみ系のものが多く、また船ではめったに食べられない和食だった。
 ゾロは喜んでそれをつつきながら、地酒を口にしては満足そうに表情をほころばせている。
 今頃船の皆は作り置きしてきた食事を取っているだろう、それを思うと申し訳ない気がしたがそのことを口に出すことはしなかった。そんなことを言えば、絶対にゾロは自分を船に戻そうとするという奇妙な確信があったからだ。
 ふと、硬質な音がした気がしてゾロを見る。
 何の音かと思えば、それはゾロの背後に並べるように置かれている三振りの刀だった。
 こういう場所では適当な所にきちんと置いているのが普通だが、何故か今はすぐに手の届く場所に置いているつもりらしい。
 そういえば、この島に上がってからゾロは刀を片時も傍から離していない。
「…刀そんなとこじゃなく、あっちにでも置いてきたらどうだ? 邪魔じゃねーのか?」
 わざと今気付いたように言ってみると、ゾロは一瞬刀に視線をやり当然のように否定を口にした。
「いや、いい」
 ふうんと言いながら、酒を手酌で注ぐ自分をゾロは観察している。
 今の言い方で、自分が変な疑いを持っていないかを探っているのだろう。バカめ、と口と態度には出さずに、サンジはまるで気付かないふりをする。
 ゾロは気付いていない。
 自分が些細な彼の違いを、いつの間にかきちんと把握できるようになっていることを。
 覚悟しやがれ、胸の奥でそう強く言い放ち、サンジは大きくコップを煽った。

「……今、なんか言ったか?」
 ん?と顔を上げてみれば、ゾロが不思議そうに自分を見ている。
「何かって? 何も言ってねえぞ。酔いでも回った…わけねぇか、お前がこのくらいで」
 ランプの明かりは大きいが、かといってすべてを真昼のようにカバーできる程ではない。
 天井からつるした明かりでできた大きな影が、障子に映って外の暗さを返って意識させる。濃い陰影に彩られた剣士は、改めてみれば端正な顔をしている。
 そのことに急に気付いて、サンジはなんとなく口元を尖らせた。自分の方が端正だとは思うものの、種類が違うことも事実だ。
 くそっと、吐き捨てたくなれば、しっ、とゾロが手で声を静止させる。
 音が何もなくなると、異様な静けさに気付いた。
 耳が痛く感じるような…そんな静けさだ。耳鳴りにも似た音が聞こえる気がするのは、これは静かすぎるせいで自分の躰の音が耳の奥に反響しているのだろう。
 口の動きだけで、ゾロの名を呼ぶと彼が小さく頷く。
 サンジはいつでも動けるように、体勢を整えた。普通に食事を続けるように振る舞いながらも、躰は動く準備をしている。それはゾロも同じだ。彼の右手は空けられている。いつでも刀へと手が伸ばせるように、用意しているのだろう。
 カチャかチャと食器が触れ合う音だけが聞こえる。
 自然と耳を澄ます。だが、自分達がたてる音以外、何も…本当に何も聞こえてこない。
 変だった。先程まで、ここまで静かだったという記憶がない。
 では今とさっきまでと何が違うのだろうか?
「…虫の声がしねぇ…」
 思わずそう声に出した、瞬間。
 さりっ、と何か音がした。
 はっと2人して顔を見合わせた。確かに、今、何か…音がした。
 ゾロの目線が外に向かう。そうだ、今の音は外だ。玄関から行けば庭のある方向。台所の方からは逆の位置になる。
 さりっ。
 何の音だろう?
 何かを擦るような音にも、引きずるような音のようにも聞こえる。いや、微かなそれは何か…叩いているのか?
「…外か?」
「ああ」
 低く、そう囁き2人は再度顔を見合わせた。とりあえず、音のする場所は家の中ではない。
 ゾロは無言で刀を掴んだ。3本のうちの一本、それは赤い刀だった。立ち上がるゾロに合わせるようにサンジもゆっくりと立ち上がる。
 何の音なのか確かめておかなくてはならない。
 音を立てないように、そっと襖を引き開けると畳敷きの部屋は広すぎて、昼間とはまた全然違う雰囲気を暗く醸し出している。
 障子から漏れる月明かりに、ランプの明かりが混じり、部屋自体が発光しているようにも見えて、サンジは目を細めた。
 その時だった、庭に面した縁側に立てている障子が大きくしなり、ガタガタと揺れたかと思うと突風が隙間から漏れ入り2人をすり抜けた。
 生ぬるい風は、家自体を揺らしたかのようで、サンジは目を見開いた。
「風か? にしちゃぁ…」
 そんなに家が揺れる程の突風が吹いてたようには思えなかった。辺りを見回すサンジを放っておいて、ゾロは揺れた障子に向かって歩いていく。
 ためらうことなく、障子の傍に行くとゾロはサンジを見た。来い、と視線で呼ぶゾロに、とりあえず文句を胸にしまい込み、サンジも傍へと歩いていく。
 ゾロの傍に来た時、サンジはなるほど、と合点した。
 音が聞こえる。
 それも、これは人の歩く足音だ。庭の方は小さな小石が敷き詰められている。どうやらその上を誰かが歩いているらしい。
 足音の数は…一つ。ゆっくりと歩くその音からは、あまり大きな人ではないことが分かる。
 サンジはゾロを見た。面白くもなさそうに、外へと耳をすませた剣士は音の行方をさぐっているようだ。家の周りを歩くというのなら、島人かもしれない。どこかすり足気味に歩くその音に、ふと昼間に会ったラサカを思い起こさせた。
 あんな風な衣服を着て歩いていれば、確かに今立てているような足音になりそうな感じが大いにする。
 この家は侵入者に対してはとても寛大な家だとも言える。特に今は、まだ雨戸と呼ばれる板戸も立てかけていない。無防備この上ないと言わざるを得ない。
 しかし、それも野宿に比べれば十分な安心感と安らぎをもたらす家であることに違いはない。
 寝込みを襲われたからと言って、どうこうできるような自分たちでもない。
 ここは一つ、最初に自分たちを襲うことがどういうことなのかを示しておくべきなのかもしれない。
 ましてや、ここにいるのは女ではない。
 そこまで考えて、なくとなくげんなりした。まさかとは思うが、女がいないからといって島の男共が宗旨替えをしているなどということは……。
「そりゃねぇだろ」
 ぼそりと呟かれ、サンジははっとゾロを見た。どうやら自分は思ったことを口に出していたらしい。
「なんでだよ」
 独り言を聞かれた恥ずかしさも相まって、ついドスの効いた声で唸るとゾロは呆れた様子でサンジへと視線を定めた。
「それなら1人では来ないだろ。俺達が海賊で、どうやら腕っ節があることは、昼間で分かってるはずだ」
 極力声を落として、囁くように言うゾロの声に、サンジは目を細める。
「…ま、まあ…そりゃそうだけどよ…」
 どこか動揺した声の響きに、いぶかしげにゾロが見つめてくるのが分かったが、サンジはそれを無理矢理別の方向に転換させた。
「それよりっ、とりあえず、あの足音野郎をどうにかしようぜ。休む場所をうろつかれるのは御免だ」
 それに異存があるわけはない。
 2人はタイミングを計り、足音が目の前に来たとき一斉に障子を開け放った。
「誰だっ!」
 青白く視界が開けた。
 じゃりっ、と音が途切れる。
 白い砂利が敷き詰められた小さな庭は、夜空に浮かぶ半円の月の光を受けて青く滲むような光を弾いている。
 風はない。
 そこには、何もいなかった。
「………え?………」
 目を見開き、サンジは辺りを見回した。ゾロは何故か庭の音がしたであろう場所を睨んでいる。
 音は確かに先程までしていた。
 それはこの耳で聞いていたので確かだ。あのタイミングで逃げる場所は、普通ならない。まさか、ルフィのようにゴム人間だったり百式使いのような瞬時に移動を可能とするような体術の使い手だったらあり得るかもしれないが、それにしてもあのタイミングで人を見失うことはないはずだ。
 縁側にフラリと出ようとした時、ゾロがサンジの腕を掴んだ。
 軽い仕草ではあったが、有無を言わせぬ形で引き寄せられゾロの隣に並ぶと、サンジは目を見張った。

 音がする。

 足音だ。

 ぎしっ。

 それは縁側を…登る音だろうか?

 みしっ。

 木が軋む音。

 きしっ。

 敷居を踏む音。

 すさっ…すさっ…すさっ…。


 そして、サンジとゾロの前を、摺り歩くような音がゆっくり…ゆっくりと通り過ぎていく。

 何も見えない。
 なのに、音だけが通り過ぎていく。
 家の中に入っていくその音を2人はどうすることもできずに、ただ呆然とそれを見送ったのだった。

(2006.8.16)




…半、実話!
どの部分かはさておき
何が何でもただでは転ぶものか…という根性が見えるお話でございます




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