吊り下がる
[後編]




 じっとりとした風が、サンジをなでるように通り過ぎていく。
 まだ中天からそう傾いていていない日差しに全身をさらし、サンジは不快そうに眉根をよせていた。
 今はもう、あの不思議な音はどこにもない。 
 あの耳鳴りのような音を聞き漏らさないように、と集中しているうちに音は不意にかき消えた。
 そのあまりのあっけなさは、まるで一瞬の雑音だったかのようだった。
 たまにある、ちょっとした体調の変化で聞こえる耳鳴りだと言われれば、そうだと納得するしかない感じだ。
 けれどサンジにはあれが耳鳴りではない、という確信があった。
 雑音の向こう。確かにか細く、なにか…感覚のような、しいていうなら胸を掻きむしりたくなるような、微かななにかを受け取ったからだ。
 気のせい、ではないと思う。
 なぜなら、自分にはまるでない感覚だったからだ。いや、遠い昔、そんな感情を持ったこともあるような気がする。
 けれどそれは、今ここにいる自分にはない感覚だった。
 なのにあの音にはそれがあった。
 どこから来たものなのだろう、とふとその場から辺りを見回した途端、目に入ったのは大きな柱だった。
 この島のどこからでも見えるその柱は、大きな上に古く、いっそ不気味な姿をさらしていた。
 今までも気になっていたが、疑いを持ったままに見ると、その柱の不自然さはさらに際だった。それもあって、つい興味と足の赴くままにここに来てしまったというわけだ。
 もちろん、試したいこともあったのだが。
「…さあて、どうするか…」
 小さく1人ごち、銜えていた煙草を指に挟むとその背をポンと指で押して、伸びていた灰を落とした。

 この島は大きな森に囲まれている。
 というよりも、町事態が森を切り開いて出来ているかのような状態だ。
 噎せるような木々の濃い緑の群れは、この島を一呑みにしようとしているふうにも思える程だ。そんな町の周囲は当然木々との浸食の攻防を繰り返しているらしく、その証拠のように線を引いたかのような境が見えた。
 その境界線の一角に、この町には不自然に無視されている場所があった。
 そこの存在にはここに来てすぐに気付いた。町を歩いていれば、当然目に付くのだから気付かない方がおかしい。
 町の中心から伸びた大きな道の先。山へと続く道の一端ではあるだろうが、サンジ達が住まわせてもらっている家とは九十度近く別の方角だ。町の中心からも遠くなく、行き来しやすそうな位置にあるにもかかわらず、そこが酷く荒れ果てているのは遠くからでも分かった。
 多分、そこは…昔は大きな広場だったのだろう。
 もしかしたら、この島の外での大きな集会場のような場所だったのではないかと推測するくらにいは、そこに至る道筋や利便性は良いものがある。
 遠くからでも、この大きな柱が朽ちかけた姿のまま中心に立っているのが見えるくらいには。
 よく見れば、その柱の頂上付近には横棒が据え付けられていたらしい。半ばからぼっきりと折れた横棒は、朽ちかけた様をより強調しているように見られた。
 ぶらりとここまで歩いて来る間、何人もの島人に何処にいくのかと尋ねられた。
 まるでこの道を辿ることに怯えるように、もしくは忌避するように。遠回しに近づくなと警告しているようにも受け取れる対応だった。
 そう感じたのはサンジの勘違いかもしれない。だが、あながち外れてもいないのではないかと思う。
 何故なら、ある程度まで近くなった途端、引き留めるように声をかけていた人影が、まるで耐えられなくなったようにすべて途絶えたからだ。
 今、1人佇むサンジの前には、大きな板塀に囲まれた奇妙な一角が出現しているだけだ。
 入り口らしきものはない。月日の立つままに放置されているのであろう板塀は、元々なんの着色もされてはなかったのだろう。だが年月が染みついたのか、奇妙な流線模様を上下に流し、一種奇天烈なオブジェを想像させるものになっていた。
 そこから中は区切られて、覗くことはできない。
 ただ、大きな柱がその太さを強調して、頭上に聳えるのを見上げるばかりだ。
 長年の放置に、それでも板塀は役割を放棄はしていないらしい。隙間らしきものがないかと見回したサンジの目には、厳重に閉ざされたのだろう板の先は、見事に閉ざされている。
 それでもどうしても、中を見たい気がする。
 というより、見なくてはならないような、そんな気がするのだ。

 このままここにいていも仕方ない。だが、ここまで来てしまった以上、このまま帰るという選択肢もサンジにはない。
 板は頑丈そうに見えるが、長い間の風雨にそこまで剛健ではなくなっているだろうことは予測がつく。例えどんなに固いものであったとしても、それが鉛や鉄などでない限りサンジにしてみればなんの障害にもならない。
 一発、蹴りでも入れれば早い話。
 そうしてみようか、となんとなく片足を動かそうとしたところで、サンジは小さく笑んだ。
 じゃり、と土を踏む音がする。
「よう、お出ましかい」
 後ろを見ることもなく、そう声をかける。途端に後ろの足音が途絶えた。
 不意に小さな風が吹き抜け、サンジは足下に流れる砂と木の葉に目をやりながら、ゆっくりと不敵な笑みを口元にはいたまま振り返った。
 そこには、この島でも珍しい鮮やかな色彩の服を着た人物が立っていた。
 以前見た時と同じ白色の着物に薄い浅黄色の上着を重ね、これは後からゾロに聞いて知った袴という一見スカートにも思えるズボンの形式をした代物を穿いている。全体的に白い印象が強い服装をした、老年にさしかかろうとしている男は、静かにその場に佇んでいた。
「ラサカ…だっけ。世話になってるぜ」
 かけられた声にどこか暗い目をしたまま、それでも何かを半ば諦めかけた様子で、ラサカは頷く。
「あんた1人か? もうちょっと人が来るかと思ったんだけどな」
 辺りをのんきに見回す青年に、この地の神官だという男は強ばった表情のまま色のなくなった唇をほどいた。
「……ここにはもう…誰もこないだろう。来るとすれば、私くらいのものだ」
「できれば、あんたも来たくはないってところみたいだけどな」
 軽く正鵠を射るサンジにラサカは一瞬息をのみ、ついで大きく項垂れるように肩を落とした。
「来たい場所では決してない、というだけだな」
 その言い方に、サンジは苦笑を漏らすと、肩越しに背後を見上げた。
「で、あれはなんなんだ?」
「直裁だな」
「まどろっこしいのは苦手でね。…俺たちは海賊だからな。なんでも直で手に入れないと気が済まないのさ。例えそれが他愛ないと思える情報でも、な」
 見上げる先の柱から伸びる横棒は、強い風が来ると軽く震えているようだ。
 ラサカはまたしても大きく息を吐くと、小さく呟いた。
「一時しかこの地にとどまらぬ旅人には、まず関係ないはずだが」
 サンジはゆっくりと銜えた煙草の先を赤く燃やすと、ふうっと長く煙りを吐き出した。
「それはこっちが言いてぇ言葉だな」
 言いながらも、サンジはもう一度柱を囲む板へと向き直った。
 まだ昼の強さを含んだ日差しは影を濃く刻み、白く見える大地と鈍い色に染まった板と奥から伸びる柱とを結びつけている。
 不思議に日差しが濃くなればなるほど、この場所の荒廃とまるで夜の水底を思わす雰囲気が強くなっていく気がしていく。
 ゆうるりと腕を振り上げ、サンジは煙草を道しるべにしたかのように、柱を指さした。
「関係ない、とあんたは言うが、やってることはまるで違うんじゃねぇか? だからあんたに直接聞くんだ。あれはなんだ?」
「何故こんな朽ち果てた柱について聞こうとする?」
「やーっぱりそう来るか」
 サンジは肩越しにラサカを見ると、不敵な笑みをみせつけた。それがラサカが疑問で返してくることを望んでいたのだと教えている。さっと顔を青ざめさせたラサカに、サンジは喉の奥で笑った。
「あんたは正直だな。俺はな、ずっと疑問だったんだ。あんたは何を俺たちに望んでる?」
「…なにを…」
「俺たちは海賊ではあるが、ただの一時的な旅人だ。2週間だけ、この島でログを貯めて、少し物資を補給させてもらって。それだけで、ここからいなくなっていく。ただそれだけだ。それだけのはずだよな」
 サンジは柱へと顔を向けると、また紫煙を吐き出して登らせた。
 風がそれを吹き流しては消していく。
 まるでそこには何もなかったかのように。
 けれど、ふわりと香る残り香が妙に強くラサカに届いた。
「だが、どうもそう思ってねぇヤツがいるんじゃないかと思えるんだよ。…例えば、この島の神官とかな」
「…そんなことはない」
「そうか?」
 無言になった男に、サンジは続けた。
「それにしては、なんか不自然なんだよ。あんたのすることは」
「たいしたことをしてはいないと思うが?」
「そうだな」
 言ってサンジはゆっくりとした足取りで歩き出す。
 それだけ見れば、のんきな散歩風景にさえ見える様子で、一歩一歩、前に。
 板塀の方へと。
「----------------止まれっ!!」
 悲鳴にも似た、しかし鋭い声が命令する。ふと、足を止めたサンジはラサカへと躰ごと振り返った。
「あんた喉大丈夫か? 痛くねぇか?」
「……大丈夫だ。このくらいで痛める喉は持ち合わせておらんっ!」
 吐き出すように憮然と告げるラサカの様子に、ほんの少し空に目を泳がせ、サンジは肩を竦めた。
「あっそ。そりゃ悪うございました」
「あなたは見かけによらず、つかみ所がないな」
 一瞬興奮してしまったことで我を取り戻したのか、ラサカが今度は静かに、しかし苦々しく零す。
 サンジは真剣に目を見開くと、目眩でも感じたのか額を抑えた。
「…それは真面目にショックだな…環境が悪いのか…やっぱ」
 ぶつぶつと呟くサンジは見たとおりに落ち込んでいるように思える。
 だが、そんな風に見えるからといって、無邪気な様子のままの青年ではないということだろう。ラサカは大きく息を吐き出すと、よろめくように空を仰いだ。サンジが今までみていた、あの柱の立つ空を。
「ここは、この島のモノにとっては、禁域だ。忘れたくても忘れられない、そんな場所なのだ。取り壊したいが、それもできない。だからこうして、誰も入れないように囲いをして、朽ちていくのを待っている」
「…気の長い話だな、そうまでしてここを放置しなくてはならないことがあったってワケか?」
 答えずに、ラサカは痛みを感じるように柱を見上げた。
「この島に女の人がいないのと、この場は関係してるのか?」
 その問いにも答えず、ラサカは小さく何事かを囁いた。だが、それはあまりにも小さく、サンジの耳まで届かない。
 サンジは肩を竦め、煙草を口にして大きく息を吐いた。
「まあ、いいさ。だがこれだけは覚えておいてもらおう。俺たちはこの島のことに感心はない。ただログと物資だけを補給させてもらえばそれでいい。…例えあんた達が俺たちに何を望もうと、それに関わるつもりはないんだよ」
 ラサカの目が自分の方に注がれるのを感じつつ、サンジは柱を見上げたまま鋭く瞳を細めた。
「だがな、そうさせてもらえないって場合もあるんだよなぁ。…なんか毎度そんなことに巻き込まれてる気もするんだけどよ」
 サンジはゆっくりとラサカへと視線を流す。それは鋭利な矢のように、きつい色を宿している。
「もし俺たちに火の粉が降りかかって来るとしたら、俺たちは代償をいただくぜ? なんたって、俺たち海賊だし? 好き勝手にされるのは性に合わないんでね。特に、一緒にいる男ときたら…」
 言いながら呆れたように首を振り、サンジは笑った。
 奇妙に明るい、あでやかな笑みで。
「その時になって文句を言われても、俺たちは知らねぇから、それだけは覚えておいてくれ。俺たちは降りかかるものしか払わない…降りかかったものには容赦しねぇ」
 それが例え、この島の禁忌であったとしても。
 言外にそう告げる視線をまともに受け、ラサカは苦渋の決断を迫られたように瞳を伏せた。
「覚えておこう」
「そうしてくれ」
 ラサカは重いものでも背負うかのように、ゆっくりと踵を返す。それを見送りつつ、サンジは「あ!」と今思いついたかのような声でラサカを呼び止めた。
「そうだ、これも聞かないとと思ってたんだ」
 振り返るラサカを見て、サンジは無邪気とも思える顔で続けた。
「なんで、俺たちをあの家に泊めたんだ?」
 一瞬何を問われたのか分からない、といった表情を浮かべた神官は、困惑を隠さずに声にする。
「あの家ほど、旅人を招くのにふさわしい場所はないと思ったのだが?」
「……へぇ…」
 どうにでも取れるその答えに、サンジは気のない返答しかできない。
 一礼してラサカは歩き出す。まるで地面を擦るような歩き方をする男の歩みに、小さく声が続いた。
「剣士には、あの家はふさわしい」
 か細い、まるで女のような…高い声。
 ゴウッと唸りを上げて、風が地面から砂埃を巻き上げた。そのあまりの勢いに、一瞬サンジは叫びかけた口を閉ざす。
 ギッと睨み付けたサンジの背後で、何かが揺れた。
 思わず振り返ったサンジは、大きな柱の先、横棒の先端付近に目が釘付けになった。

 横棒の先に、なにかが揺れている。
 大きなみのむしのような…そんな影が…。

「うあっ!?」
 一瞬、風の音に混ざって聴覚を貫く大きな音がした。咄嗟に耳を塞いだサンジの視界の隅で、またしても何かが揺れる。
 大きく、右に…左に。

 はっと目を見張った瞬間、風は止みサンジはただ呆然とその場に立ちつくしていた。
 そこにはただ、大きな柱が一つ立っているだけの空間。

 何もない。

「ちくしょっ!」
 小さく吐き捨て、サンジは昼間の明るい日差しの中、ただ冥く佇むその柱を睨むしかできなかった。

(2007.6.17)




すぐといいつつ、リテイクくらって少し間があきました。すみません、すみません。
少しずつお話は進みますから、ひー、えらいこっちゃ、夏が来る〜!!




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