遠くて近い現実
[1]




 忘れられない光景がある。
 それは未だに思い出せば腹が立って、そこらにあるものを蹴り飛ばしてしまいそうな記憶の中にあった。
 いっそのこと、そんな記憶は無くしてしまった方が自分の精神衛生上素晴らしく良いことなのだと思う。思うのだが、それはできない相談だった。
 何故なら、それから続く記憶は…無くしてしまうには…あまりにも大切だったからだ。


 小さな小さな家だった。
 はっきり言えばボロ屋。いつ建てられたのかと疑いたくなるような小さな家は、2階建てだった。しかもアパートらしく、壊れそうな外階段の上の階には、二つだけ同じ大きさの壊れそうな木の扉が並んでいた。
 その一番手前の扉は開け放たれでおり、その奥からは何人もの人の気配と怒鳴り声に近いがなり立てるような声が響いていた。聞いているだけで不快な声だった。
 笑い声、だったからかもしれない。
 その声を耳に入れて、立ち止まったのは体格の良い初老の男だった。何を考えているのか、口ひげを三つ編みにした男はそれで己からにじみ出る迫力を押さえようとしているようだったが、そうではないことも後ろに立っている青年は知っている。
 あれはただの趣味なのだ。
 一服したい気持ちを無理矢理抑え込み、どこかまだ涼しい風に金色の髪をそよがせ、サンジはゼフと呼ばれる男の背中を見つめた。
 再び歩き出したゼフの後ろについて行けば、笑い声が周囲の静寂を頓着せずに上から響いてくる。サンジは思い切り眉間に皺を寄せた。
 ろくな事にならないと本気で思って、軽く階段を登るついでに暴れても支障がないかと自分の足の筋を伸ばしてみたりしたくらいだ。自分は高校の制服を着てきたが、あまり良い選択じゃなかったかもしれない。
 扉の前に立つと、ふわりと嗅ぎ慣れない香の匂いが強く風に乗ってきた。
 はみ出した黒い靴の群れ。
 覗けば中の様子は一目瞭然だった。
 狭い部屋はそのまま奥が全て見通せたからだ。
 奥の窓は開け放たれ、薄いカーテンの裾が左横に纏められながらも名残を惜しむように風になびいていた。
 その前には、ビールの缶を握った黒い服に身を包んだ壮年の男が3人、笑いながら膝を寄せ合っている。その回りに足を崩して退屈そうにしたやはり黒い服の女性がこちらは4人。やはり手にはビール缶やチューハイの缶を持っていた。
 酒のツマミが色も艶も果ててささくれている畳の上に散乱している。
 その奥に、人影に紛れるように小さな影があった。
 窓の前に座るその小さな姿は、男達の背に隠れそうな感じだったが、サンジの目には真っ直ぐに飛び込んできた。
 お仕着せられたのか、少しぶかぶかのやはり黒い服は皺が目立った。だが、すっと伸びた背筋はとても真っ直ぐで、凛としている。何事にも揺らぎもしない、そんな意思すら感じさせる後ろ姿。
 きちんと正座した小さな姿の奥からは、微かな煙が風にかき乱されながらも上っている。
 目に鮮やかな緑の小さな頭は、それでも揺らぐことなくじっと膝の前の箱を見つめているようだった。
 駆け寄っていきたくなったのは何故だろう。
「邪魔するぜ」
 そう言って、玄関からはみ出す靴の群れに己の靴を紛らせて中に入ったゼフに、笑いまくっていた男達が怪訝そうに顔を上げた。
 ピタリと声を止め赤ら顔を凶悪にして、胡散臭そうに睨み付けてきたが、ゼフはどこ吹く風で受け流した。
「どちらさん?」
 女性の1人が困惑に迷惑を貼り付けた顔で立ち上がって寄ってきたが、その体が不自然に左右に揺れている。
 それもどうやら酔っているかららしい。
「…線香をあげさせてもらおうと思ってな。チビナスお前もこい」
「チビナス言うんじゃねぇ! このクソジジイ!」
 きちんと反論しながら靴を脱いで上がる、つい見てしまう小さな背中は振り返らない。
 ゼフの迫力の威力はここでも発揮された。ガラの悪そうな大人達が、気圧されたように文句も言わずに席を空ける。
 座ったら埃と畳の屑が文句なしにつきそうだったが、サンジは黙ってゼフの横に並んで窓際まで進んだ。
 そこまで来てサンジはわずかに目をしばたかせた。
 汚れた畳の上に、無造作に置かれたのは紛れもない遺骨を入れる白い箱だ。その前に座るのは少年。
 少年は後ろにゼフが立つと、慣れた仕草ですっと膝立ちになり、躰ごと横にずれるように動いた。あまりにも自然な動きに、多分この少年が何かこういう動きを昔からやっていたのだろうという確信をもたせる。
 少年はその背筋と同じように、まっすぐにまずはゼフを見上げた。
 はっとする程にまっすぐな視線だった。
 少年にしては鋭い目つきは、ともすれば小生意気なきかん気坊主を連想するが、どうみたってそれだけの玉ではない。子供のくせに、とつい思ってしまう何か力強いものがそこにはあった。
 少年はついで横に立つサンジを見た。
 一瞬その目が驚いたように見開かれたようだったが、すぐにその目は隣のゼフへと戻った。
「焼香させてもらうぜ」
 子供に言い聞かすというよりは、大人相手にしているような言い方にも、少年はまったくたじろがずに、しかし仕草だけは幼く一つ頷いた。
 ゼフはそんな少年に頷き返すと箱の前に座り、用意されている線香へと手を伸ばした。
 サンジはずっと少年を見ていた。少年は意思の強そうな唇をぎゅっと引き結び、ただじっと、ゼフが手を合わせるのを見ている。それだけでも意思の強さを伺わせる目は、やはり揺るがない。
 サンジもゼフに倣って、そっと線香を立てると手を合わせた。
 サンジは見たことも会ったこともない人物だ。だが…何故だろう、そうしなければならない感じがした。
 ふわりと前髪を揺らす風に、サンジの金色の髪がなびく。
 強い視線を感じて、サンジがそちらを見れば少年がじっと見ていた。視線がかち合う。サンジは逸らさなかった。少年はまた少し目を見開き、そしてどこか眩しそうに目を細めるとゆっくりと視線を外した。
 そうして、白い箱を見つめたまま動かないゼフと見つめるサンジへと、畳へ手をついて一礼した。


「ゾロ」
 名前を呼ばれて、少年は顔を上げた。
「お前がロロノア・ゾロか」
 少年は背筋を伸ばすと、大きく一つ頷いた。
「はい」
 まだ高い少年の声だ。それがなんとなく意外で、サンジは少しだけ首を傾げた。
 相変わらず微妙な空気が室内には漂っている。サンジはあんまり正座が得意ではない。なので自然に見えるように膝を崩させてもらいながら、周囲を伺った。
 入口の方に女性陣。そしてゼフと自分の背後に、赤ら顔の男達。
 絶対ろくなことになりそうではない。となると、乱闘になるよなぁ、と自然に考えるだけサンジの思考も危険思想に近い。
 蹴り倒すのは楽勝だが、いくらなんでも女性陣には暴力は振るえない。となると強行突破かな…と考えていると、それを見透かしたようにゼフが小馬鹿にした様子で自分を見ていることに気付いた。
 目線でなんだよ! と問えば、小さくふん、と鼻でせせら笑われる。
 くそぉっと最初にジジイに間違えたフリで蹴りを入れてやろうかと考えたが、まともに食らってくれるゼフではない。返り討ちを覚悟しなくてはならないだろう。
「…年は」
 考えている間にも質問は続いていた。
「11月で11歳です」
「小学校…六年か…」
「五年です」
 思わずサンジは立ち上がりそうになった。五年生にしては…目の前の少年は小さい気がしたし、なのにその小学生という響きが妙に似合わない気がしたのだ。
「そうか」
 しかしゼフは淡々と納得したように頷いた。
「それで、お前これからどうする?」
 もの凄く簡単なことを聞くように問われ、ゾロは少しだけ言葉を止めた。
「なんとかって所に行けと言われてるから、そこに行くんだと思う」
 簡潔に答えだけを返す少年は、それで今の自分の状況をきちんと把握しているという事実を知らしめた。
 目の前の箱の主は、ゾロの母親だ。
 母1人子1人。その二人きりの家族が、ゾロのこれまでの全てだったのだから。
「そこはどこだ」
「…知らね…忘れた」
 最後の言葉だけは年相応というか、投げやりな調子だった。多分本当に忘れているんだろう。
「バカが、何てこと言うんだ。すみません、子供の言うことで。こい…この子は、身よりがないですから、自分達が保護者代わりになってですな、こいつみたいな子供を預かってくれる児童施設へ行く手続きを…」
「あんたらは黙ってろ」
 背後から割り込んできた男を一瞥して、ゼフはゾロへと視線を戻す。それだけで、背後にいた男達が本格的に腰を引いたのが分かる。
 思わずニマリと笑うと、ゾロも同じように笑っているのが目に入った。
「なるほど、お前は両親が亡くなった。親戚も…ほとんどいないに等しい。まあ、遠いのはいるみたいだがな。…それで、お前はどうしたい?」
 不意に問われて、ゾロは二・三度瞬くとゼフを真っ直ぐに見つめ治した。
「…あんたは何でそんなことを聞くんだ? おれにどうする自由はないって、この人達は言った。だからどうしようもないらしい。おれは剣道さえ続けられれば、それでいいんだけどな。…まあ、それも無理だと言われたから、どうしようかとは思ってるけどもよ」
 サンジは背後の男達を問答無用に蹴り飛ばしたくなるのを必死に堪える。
「どうしようって、どうするんだ?」
 どこか面白がるように聞くゼフに、ゾロは当たり前のように答えた。
「自分で練習するしかねぇだろう。とすると、先生もいねぇし試合とかできねぇだろうから、今まで習ったことを忘れないようにしねぇとな。腕が落ちるとまずいから、なんか特訓とか考えねぇとだし…竹刀は今持ってるのでいいとして…錘つけた方がいいかな…」
 どうやら言ってるうちに本当に考え出したらしく、半ば俯いてブツブツ言い出す。その姿は年相応にも見える。
 ぶはっと吹き出した声に、ゾロとサンジ二人揃って見れば、ゼフは大きく笑うとゾロの頭へ手を乗せ、ぐしゃぐしゃとかき回した。
「面白ぇ小僧だ。なるほど、あの鷹の目が目をかけるだけあるのかもしれねぇな」
「鷹の目…?」
「知らねぇわけじゃねぇだろう。お前の師匠とかいう人のさらに師匠だ」
「あ!!あのケバジジイ!!」
 本格的に爆笑したゼフは、暫く笑いまくるとゾロへ再度視線を定めて告げた。
「お前は自由がないと言う。だがまったくないわけじゃぁねぇ」
 え?という目で見上げるゾロに、ゼフはニッと笑うと背後で沈黙している者達へと振り返った。
「…さあて、じゃあ大人の話をしようか」
 威力のある申し出にたじたじになっている男達に、ゼフは懐から取り出した折りたたんだ大判の封筒をポンと投げつけた。
 その表には、弁護士事務所の宛名。そうして、サンジも持ってきていた封筒をこれはゼフに渡す。
 こちらは分厚い上に中身は数十ページにも及ぶファイルが一冊。
「あんた達のことは調べさせてもらった。よくもまぁ…こいつの母親が残したものを食い荒らしてくれたもんだな、このたった半年で。それについちゃぁ、既に訴訟の準備はできてる。きっちり耳揃えて返してもらうから、そのつもりでいろ。ほとんど繋がりのない、遠い親戚ってのは確かだろうが、子供のためにと自分の寝食忘れて残したもんを好き勝手にするのは、いくらなんでもやりすぎたな」
 明らかに顔色の変わった男達の目がすわる。
「もっと言わせてもらえば、この小僧に残された母親の生命保険の受け取りも、お前達には手がだせねぇようにしたぜ」
「んだと! 何勝手なことしやがる! 俺たちはこの子を半年も預かってやってたんだぞ! その間の養育費くらいいただいたって普通だろうが!」
 つばを飛ばして威嚇するように詰め寄る男達に、ゼフは眼光をさらに鋭く光らせた。
「その限度を超えてると言ってるのがわからねぇのか」
「なんの権限があってそんなこと、あんた達にできるっていうのよっ! この子を食べさせてやったりするのに、こっちだってどんだけ大変だったと思ってるの!!」
 ここが踏ん張り所だと思ったのか、背後から女達も詰め寄る。
 サンジはそっとゾロを見た。本当ならこんな場面に小学生を同席させることはしない方がいい。だが、多分、この小僧はこの場に残らないことの方に憤るだろうと、なんとなく予測はできた。それに、自分のことを他人が決めるのは…本当はとても嫌なはずだ。
「あんた達がこいつとどんな繋がりかなんて知らないが、こっちは曲がりなりにもこの亡くなった母親の親戚になるんだよ。どうこう言ったって…」
「わかってねぇのはお前等の方だ」
 言い募る男の言葉を静かに遮り、ゼフはその口元を笑みの形に引き上げた。
 酷薄な笑みは、興奮した男達を一瞬で黙らせるのに十分だった。
「この小僧は片親から生まれたわけじゃねぇだろう? そっちが母親の親戚と言い張るならな、こっちは…父親の方の親戚に当たるんだよ。まったくあのバカめ、行方が分からなくなってからこっち、どれだけ探したと思ってるのか。探し当ててみればこのざまだ。しかも…こんなに近くに色々なもん残しておきやがって」
 驚いたように顔をあげたのは、男達だけではない。ゾロも心底驚いたようにゼフを見た。
「…親父…?」
「そうだ。お前の…今はいない親父はな、俺の亡くなった嫁の弟だ」
 あんぐりと口を開けた馬鹿面で見たゾロは、小さく呟いた。
「それ親戚っていうのか…?」
「言うんだよ、こいつらの言い分より遙かに近いぜ、それでもな」
 サンジが言えば、ゾロは呆然とサンジを見て、納得したように頷いた。事実そうなのだから仕方ない。
「そういうわけだ。つまり…あんたらの言い分はまったく俺には通用しねぇ。その上で、俺はお前さん達に落とし前を付けさせてもらおうと思ってここまで来たんだ」
 男達は無言になってゼフを睨み付けた。
 元々あまり良い性の者達ではないことは見れば分かるものだが、今は物騒な気配を隠しもせずにいる。やくざ崩れと噂されているようだが、どうやら本当にその筋のものかもしれない。
「落とし前だと? いいてぇこと言いやがる…俺たちの奉仕の精神を、よくもまぁボロカスに扱いやがって」
「小せぇ子供の未来の金にまで、手を出そうというヤツのセリフじゃねぇな」
 思わずそうサンジが反論した瞬間だった。
 男の手に銀色のなにかが光ったと思った時には、目の前に緑色の物体が飛び出していた。
 咄嗟に反応しそこなったのは、飛び出した少年がにっと笑ったからだ。細い手が、それでも力強くサンジの胸を押した。後ろに倒れそうになったのを片手で防いだら、妙な音が響いた。
 布を引き裂く音と何か、聞き覚えのある妙に生々しい音。そして風切り音と共に吹き飛ぶ男達の悲鳴と怒号と破壊音。
「小僧、お前!!」
 すっくと立ったままのゾロは、軽くサンジを振り返ると怒鳴るゼフへ目を向けた。
 なんだか酷く満足そうに、ニッカリと笑う。
 線香の香りに紛れて…匂う。赤い色が伴うその匂い。
「選べるなら、選ぶぜ。あいつらと一緒には絶対にいかねぇ道だ、ははっ!すっとした!!」
 子供らしい一本気な言葉だった。だが、あまりにも…行動が伴わない。いや、伴いすぎて壮絶だ。
「チビナス! 救急車だっ!」
「え! あ、おう!」
 ゾロは今にもピースサインでも向けそうな得意そうな顔で、サンジを見ると、そのまま…本当に見事にひっくり返った。
 間一髪、受け止めたゼフがざっとゾロを見下ろし、苦笑を深くする。
「…とんでもねぇ小僧だぜ…」
 胸を斜めに切り裂かれた姿は、子供らしくはない。だが、傷自体はそこまで深くもないのも、一目瞭然。
 慌てるサンジに落ち着きやがれと軽い蹴りをお見舞いしつつ、ゼフは細い子供の躰をそっと抱えなおしたのだった。

進む→




リハビがわりに書いたお話でございます。ちょっと短期集中で連載します!
以前いただいたバトンから、ヒントもらって実はお話を練っておりました。暫くお付き合いくださいませ…(笑)
すいません、地味に打ち間違い等々文章まで改稿しました 2008.5.3(改稿2008.5.5)



のべる部屋TOPへ