『奇談夜話』
〈終章〉




 真っ暗な場所だった。
 必死に走っている子供は、辺りを見回しては声を張り上げた。
     助けて! 誰か! 誰かいないの!?
 けれど、どこまで走っても誰もいない。
 どんなに叫んでも、答えてくれる人はいない。

 手足が千切れそうになるくらい、走っても走っても、いつも暗いまま。
 けれど、そうやって意識すらなくなりそうになると、不意に白い小さな何かが視界を掠める。
 気付けば、真っ白な小さなものが無数に降り注ぐ中を、小さな子供は走っていた。

 たまに、人影を見かけることもあったが、すぐに消えていく。
 声をかけても、誰も気付いてもくれない。
 それでも諦めることもなく、子供は降り注ぐ白いものの中を駆け抜ける。
 いちどだけ、可愛い女の子にあった。
 けれどやはり、その子にも声は届かず。久しぶりに出会った自分以外の人に、必死に自分がここにいることを伝えようとしたがいつの間にかその子もいなくなっていた。

 何度も何度も、気付けば子供は暗い中に立っていた。
 時折、爽やかな青い草の香りがするのが不思議だった。

 走って走って。
 気付けば走って。
 そうして白い…きっとあれは雪。その雪の中に出る。
     誰か! 助けて! 誰かいないの!
 叫びながら走っている時に、子供は一件の家に気付いた。
 見つけた!
 そう思って必至に戸を叩き、時には蹴破るようにして、中に入った。
 けれどどんなに声を上げても、誰もいない。
 そうして、自分も玄関から先にはどうして入れない。

 必死に声をかけるのに。
 気付けば、いつも暗い中に子供は一人立っている…。



「まだ小さい頃、おれは行方不明になってたことがあるんだ」
 コニスの家の縁側で、サンジはゾロに抱きかかえられたまま、ぼんやりと告げた。
 倒れ込んだサンジを抱え、ゾロはコニスの家まで戻ってきた。途中で正気付いたサンジは歩くと言い張り暴れたのだが、なんだかんだと言いくるめられて家まで運ばれてしまった。
 まあ戻るまでに、ゾロの方向音痴のせいで随分と遠回りされたので、歩かなかったことについては文句を引っ込めたサンジだ。
 なので抱きかかえられたまま、サンジは散々声を張り上げて家までの道案内をするハメになったのだが、それはまあご愛敬だ。
 戻ったといっても何故かゾロは玄関からは家に上がらず、井戸のある縁側の方へと直接戻った。とりあえず雨戸だけは外してあった縁側へと、サンジを抱えてどっかりと腰を落ち着けて今にいたる。
 既にお日様は良い具合に上空を昇っている。
 誰かがもし来たら、丸見えになるだろうが、ここに人は来ない。
 最初は随分と離せと喚いていたサンジだが、ゾロが自分を離す気がないことを実地で知ると、しおしおと大人しくその腕に身を預けてきた。
 もうどうにでもしてくれと、諦めたのが半分。自分も離れがたかったのが、信じたくはないが半分といった所だろうか。
 なんだか一気に幼い頃の記憶も甦って、酷くサンジは混乱していたのだ。
 だからこそ、しょうがなさそうにゾロの肩口へと顔を埋め、サンジは続けた。
「小さい頃は、渡りの料理人だった育てのジジイと一緒でな。そのジジイと食材探して入った山で、沢に落ちたんだ。おれが足を滑らしたのを庇ったジジイがさらに落ちて…。おれは慌ててジジイを探したんだが、見つからなくて。でも声は聞こえた。誰か呼んでで来いと言うから、必死に探して沢を下りて…それからの記憶がない」
 覚えているのは、助けてと叫んで走っていたことだけ。
 気付けば、辺りは真夜中よりも暗い闇の中で、必死にサンジはそれらを振り払おうと走っていた。
「実際ジジイはすぐに山で仕事していた人達に助けられててさ、おれがいなくなったことの方が大事になっちまったらしいんだが…おれはまったく見つからなかったらしい。山に拐かされたんじゃないかって、そう言われてたみたいだ」
「そうだろうな」
 ゾロの手がサンジの頭をゆっくりと撫でる。
 それが妙に気持ちよくて気恥ずかしくて、サンジはゾロの胸元を小さく拳で叩いた。
「否定なしか!」
「可愛い子供を欲しがるもんは、結構いるからな」
 それでいけば、あの子供は確かに可愛かった。金色でキラキラで、大きな青い眼は強くて。ああいうものを好むものは沢山いる。
 人も、人ではないものも。
「助けてって叫んでたから、力を貸したんだろ。その何かは。だから褒美にお前を取ってったんだろうさ」
「………なんだそりゃ、すっげぇありがた迷惑…」
 呆れて言えば、ゾロは吹きだした。
「そんな理屈が通じるか、人でないものに」
「でもおれが行方不明になった山はここじゃないぜ? もっと遠くの別の山だったんだけど?」
「…通じてたんだろうさ。ここはウロだらけだからな」
 ぽんぽんとサンジの頭を叩き、ゾロはサンジを抱きしめたまま視線を竹林に注いだ。
「うろ?」
「虚、空、洞。どれもウロだな。小さな空間には、何かが宿る。四方を閉ざされればそれは空間であり、部屋だ。そういう場所を人も…何かもよく好む。あー…なんだったか、昔の話であるじゃねぇか。竹から女の子が出てきたり、金が出てきたりする話。あれだってそうだ。ウロに入ってるんだよ、何かが。もしくは隠されるんだ。宝がな」
 ほんの一瞬間があり、サンジは顔をしかめながら睨み上げた。
「かぐや姫のことかよ、なんて言いぐさだ…あんな絶世の美女に対して!」
「会ったことがあるのかよ」
 笑うゾロに、サンジは大きく溜息をついた。
 吐息が耳にかかったのか、フルリとゾロの身体が揺れる。それを感じながらも、サンジはもう泣きたくなりながら、その太い首筋にすり寄った。
 なんてこった。
 こうしているのが気持ちいい。
 だってもう知ってしまった。やっぱりこいつだったのだ。
「…そう考えてみれば、この竹の山はウロの宝庫だ。幾つも幾つも、無数の空間で作り上げられている。古い場所なら尚更だ、山は異界って良く言うだろう。通じる所くらいあるだろうよ」
 ゾロは何かがいたことを前提で話している。それをサンジも否定しない。否定できないと、知ってしまった。
 肌を寒気が走ったのを感じたのか、サンジを膝上に抱きしめたまま、ゾロの手が足をなぞる。
 なんだか慰められているような気がして、目を閉じた。
「ずっと走ってた。雪の中を…今でも夢に見る…」
「そんな話してたな。店で」
 聞いていたのか。
 おずおずとサンジはゾロの背に己の腕を回した。
「お前が言う何かを見た記憶はない。ただ…ずっと何かがおれを覆っていたような気持ち悪い感覚だけはあるんだよなぁ…。見られていたみたいな…こう…落ち着かないっつーか」
「ああ」
 ゾロはそんなサンジを己で囲い込むように、懐へとさらに引き寄せる。
 どうしてもそれが安心できて。サンジは大きく吐息を零した。
「行方が分からなくってから、三月くらいした頃、山の麓でおれが倒れているのが見つかったんだ。おれは随分窶れていたらしい。もうその頃の記憶なんざないけどよ。ただ…おれが覚えていたのは…」
 緑の髪に金色に輝く三つの光。
 そして、自分を抱きしめる強い腕と、その    笑み。
 顔なんてほとんど覚えていない。
 見たのだろうが、記憶にはない。なのに、笑ってくれているその姿だけは、妙に記憶にあったのだ。
 そしてその人物が、約束を守ってくれたことも。
「風車をもらったことも覚えてたんだけどな。けどそんなのどこにもないしさ。けどよ、約束守ってくれた…礼は…言うんだって、言わなきゃって、ガキの頃は思ってたんだ。なのに、ありゃなんでだ? 思い出せば全部曖昧で…なのに、こう…感情だけがはっきりしてて、もの凄く会いたくて…。ちくしょう、結構探し回ったんだぜ! おれはっ!」
 けれど、当然そんな人物などいやしない。
 譫言のように話をするサンジの言葉は、結局誰にも届かなかった。
 なんだかんだと身体を治して、ジジイとまた料理の修業に出始めたりすれば、時間は容赦なく流れていく。
 時折身を引き裂かれそうな気持ちを時間の狭間に甦らせ、たまらなくなりながら、あれは遭難している間に見た夢か幻だったのだろうと己に言い聞かせ。けれど、もしかしたらいつか、記憶の底に眠っている人に会えるのではないかと思い直し。
 その思いを繰り返し繰り返し。
 いつしか料理をしながら店に訪れる人を確かめる癖がついたのは、もうこれは当然だったのだろう。
 そんなサンジの葛藤を余所に時間だけは流れてゆき、自分も独り立ちする日がきて。
 辿り着いたこの街に根を下ろして、さて働く場所を探そうとした所で、あの店に出会ったのだ。
 風車と屋号のつく、美しき店主のいるあの場所に。
「ナミさんの思い出の風車と…なんだかな、おれの記憶の風車が、こう…運命だと思ったね!」
 ひゃひゃひゃ、と笑うサンジに、ゾロは苦笑して足を叩く。
 ジタバタしていた足がピタリと止まった。
「…運命だったのかねぇ…お前に初めて会った時、びっくりした」
 遠い遠い記憶の縁にある人影が、いきなり姿を現したのかと思った。
 けれど自分が幼い頃の記憶からすれば、ゾロはあまりにも若い。随分と混乱したし、恐ろしくもなった。
 あれは夢ではなかったのか。本当のことだったのか。なら何故こいつは何も言わない。やっぱりこいつは違うのではないか。ゾロに出会ってからこっち、サンジは密かに恐ろしく困惑していたのだ。
 なのに…目が離せなかった。
 それどころか、何故あの目が自分を見つけないのかと、もどかしくすら感じて。
 女性至上主義の、このサンジ様が! と酷く落ち込んでいたりもしていたのだ。

 この男がもし、あの男なら。
 きっと、この男は、何かをしでかす。

「…そう思ってよ…」
「それでコニスの件をナミをたきつけたのか」
 呆れたように言うゾロに、憮然とサンジは上体を起こして睨み付けた。
「まさかそれが直球ド真ん中に来るとは思わなかったんだよ! ただおれは! お前が…あの時のヤツかどうか…を知りたいと…そう思っただけだったんだが…」
 徐々に上目使いになるサンジに、ゾロは吹きだした。
 途端に真っ赤になったサンジの頭を引き寄せ、ゾロは問答無用にその唇を封じた。
 ムガッと抗議する声が上がったが、喉の奥で唸るだけに押しとどめ、ゾロは好き勝手にサンジを奪う。
 その温もりに、すぐにサンジの身体は抗うのを止めて。
 いつしか小さな水音が、ぴしゃりと二人の間に響いた。

「見つけっちまったなぁ」
 はふっと熱い息を吐いて、サンジが囁けば。
 ゾロがそっと、あの幼い頃に感じた大きな腕で、今は何倍も大きくなったはずのサンジの身体を、けれどゆったりと大きく抱きしめてきてくれたのだった。 






 そろそろ春の陽気も深まり、桜の花ももう少しで咲きそろいそうになっている。
 今年も桜祭りは盛大に行われるだろうし、風車も盛大に花見弁当で儲ける予定で大忙しの毎日だ。
 けれど、それもあと数日の猶予がある。
「筍、コニスからきちんと届いてるわ。ホントあんたちゃんと仕事したのねぇ」
 既に最後の客を送り出し、ナミは暖簾を終いながら、明るい笑みを零した。
 コニスの竹山は無事に再開された。
 それまでの怪異はウソのように静まり、問題も何もなくなったからだ。一応お上からの視察も入ったが、当然のことながらなんの支障も出ることなく、これまでどうりにコニス達が竹山の管理にあたることになった。
「けど、結局、コニスの竹山はなんだったの? なんかやっぱり…障りがあったの?」
 カウンターで一人、筍の蒸し物をアテに酒を呑む僧侶の格好の男の隣にストンと座り込み、ナミは無愛想な男の顔を覗き込んだ。
「障りというより…、拐かしだな。時々あるこった」
「時々あるって、何よそれ。ちょっと、ちゃんと説明してよ! 私だって気になってるんだから! サンジくんもよ! 結局あんた達二人して一緒に解決したんでしょ?」
 板場からひょいと顔を出したサンジは、バツが悪そうにグルグルに巻いた眉尻を下げた。
「…ごめんナミさん、おれぁ何っの解決にも手を出してもいねぇんで…ちょっとわからねぇんだよ…」
「お前がげんきょ…」
「おおおお!! お前くっだらねぇことほざきやがったもう二度とこの店の敷居は跨がせねぇぞ!! この破戒僧!!」
「んだと、このグル眉! 誰のおかげでこうやって…」
「だーっからっ!! そういうことを言うなっっ!!」
 とうとう板場から飛び出してきたサンジが、思い切り足を振り下ろしてくる。
 それを刀で受け止め、ギリギリと睨み合う。
 そんな二人に、ナミは大きく頭を振ると溜息をついた。
「はぁいはいはい! もう、じゃれるのは後にして、もう終いなんだから」
「っ、はーい…もうこっちは終わったよ、ナミさん」
 忌々しそうにゾロを睨みながらも、それでもナミを見る目はハートに飛び出させ、サンジは板場を指差した。
 相変わらず、板場に関しては完璧な仕事人だ。
「そう? なら、今日はもう本当に終わりね、ご苦労様」
 言いながらもチラリとゾロを見る。
 どっしりと腰を落ち着けた男は、最後の酒を飲み干すとトンと机に升を置いた。
 サンジがすかさずそれを手に取り、板場へと持って行く。
「ほんと、いつの間にか仲良くなっちゃってまぁ」
 呟いたナミに、ゾロの目線が流れたが面白そうに見るだけで何も言わない。
 刀を三本も持ち、なんだか得たいの知れない僧侶の格好をした、けれど僧なんかじゃ決してない男。
「まあ…どうでもいっか」
 ナミは肩を竦めて板場へと声をかける。
「じゃ、サンジくん私先に帰るわね。お疲れさまー」
「えー!? ナミさん送っていくよ!?」
 慌てて出てくる男に、ナミは笑った。
「いらないわ、そんなことしたら、そこにいる誰かさんに恨まれそうだし。それに今日は…」
 外からナミを呼ぶ元気のいい声がする。
 あれは麦わらの親分の声だ。
「親分に送ってもらうことになってるの! じゃね、また明日」
 打ちのめされてのたくっているサンジに明るく声をかけ、ナミは足取りも軽く外へと出て行く。
 戸を出る時にチラリと見れば、うちひしがれているサンジにゾロが手を差し出してる所だった。
 あの二人が、今一緒に住んでいることなんて、等に皆が知っている。

 何がどうなってコニスの件が解決したのかは分からないけれど。
 全部が丸く収まったのなら、それでいい。

 ずっと、いつかどこかに消えそうな不安があったサンジが、今はとても強くここに風車にある。
 そんな風になったのは、三日の休暇を終えてコニスの家から二人して戻ってきた後だ。
 おひな様の前日で、こっちは大わらわの時で…。
 ナミは小さく笑って外に出る。

 これも一つのサンジの生まれた日になるのかもしれない。

 そう思いながら     



 
終了(2012.5.11)







 長々お付き合いありがとうございました。