『奇談夜話』
〈後編 2〉



 昼過ぎまで、結局玄関の掃除で時間が過ぎた。
 不思議とゾロは雑巾を使った掃除を器用にこなし、サンジを感心させた。聞けば剣術を習った道場や寺などで、掃除は修行の一貫として普通にしていたのだという。
 ゾロが寺にいたというのにも驚いたが、それが剣も教える寺だったということにも更に驚いた。
 そんな寺があるのかと正直に尋ねれば、結構あるのだという。そういえば昔の読み物などには、山の妖怪や山で修行する修験者から剣を習ったという話を聞いた覚えがある。
 他愛のない話をしながらも、サンジの目線はついゾロへと向いてしまう。そして、玄関から続く外へと流れる。
 ゾロは何を見たのだろう。
 ゾロがこの街に来るまでに、旅をしてきているのは風車で色々と聞きかじって多少なりとも知っていた。だが、剣の修行が、寺での一般的な修行と合致する部分が多いというのは知らなかった。
 サンジにはまったく理解もできない世界だ。
 だが、色々な経験が一つの道を究めるという修練は、料理の道でも同じだ。
 なるほどな、と感心しながら聞く話の合間にも、サンジは理解していた。
 ゾロは何かを見ている。
 見えざるものを見ることが、この男にはできるのだろう。
 多分間違いなくできるだろうとは思っていたが、実際確信すると複雑な気分だ。
 話をちらりと聞くだけでも、実はこの男が見ているものが人に見えていないということが多々あるらしい。疑いたいたいが、先程のこともあって疑いようもない。
 そんな風だからか、きちんとこちらが聞けば、案外正直にゾロは教えてくれる。そうすることで、自分でも何が人にみえなくて、何が自分に見えるのかの判断をつけている部分があるらしい。
 だからサンジは知りたければ聞けばいいのだ。
 朝方のあの時のことを。
 けれど、サンジは聞けない。聞けば、きっと、サンジは分かってしまう。
 理解したくないことを、理解してしまう。それが分かっていて、答えを聞くのは結構辛い。
 そうでなくても、サンジの目は出会ってからずっと、この風体異様な破戒僧から離せなくなっているのに。
 大きく嘆息する。
 ビビ姫の事件からこっち、出会ってまだ数ヶ月。なのに、最初からサンジの目はつかず離れず破戒僧を追っていた。
 それもこれも……。
「…その答えを求めにやってきたのにな…」
 往生際が悪いといわば言え。
 肩を落としながら、慣れない余所さまの台所と格闘しつつ、サンジは筍をすり下ろし始めた。


 玄関口が見える部屋に陣取ったゾロは、手慣れた様子で小刀を拝借していた。
 これも部屋にあった竹の材料をほんの少しだけ借り、先程からあれこれと切っては削りと細工に励んでいる。
 見よう見まねとはいえ、こうやって小さなものを作ることは、旅暮らしには多々あった。だが、元々あまり小細工が得意なタイプではないし、そう器用に物事をこなすほうでもない。
 多分こういうのを作るのは、板前の方が得意なのではないだろうか。
 分かっていても、これをサンジに頼むわけにはいかない。
 物問いたげにこちらを見ながらも、サンジは何かを恐れているかのように口を閉ざしていた。ペラペラと益体もないことを自分に問いながら、本当に聞きたいことは口にもできないといった様子だった。
 あんな態度を取られては、こちらから聞くこともできやしない。
 なんとなく、それが可愛らしくも見えたことに内心驚きつつ、そんなこともあるかと自然と受け入れたゾロである。
 何かを隠しながらも、それに引きずられながらも、サンジはしっかりと自分でその何かと向き合おうとしている。その態度は立派だ。逃げることをよしとしない潔さは、清々しいまでにゾロには映った。
 見た目は軟派ではあるが、あれは鍛えている。そういう所も望ましい。
 料理の腕もいいのはさらにケチのつけようもない。いい者を見付けた。
 ここにきて、そう確信してしまったのだから、仕方がない。これこそが出会いというものだろう。
 寺を渡り歩いた暮らしの間に、感覚が麻痺していたのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
 自分が思う、それが一番大切なことだからだ。
 今までこんな風に思った男はいないし、女であってもいなかった。たまたま、目を引いたのがあの板前なら、そういうことなのだろう。
 人の意見が何程のものか。教えや先人の経験に基づいた意見などには聞く耳を持っても、その他の人の言の葉に何の意味もありはしない。
 人は人であり、己は己だ。
 だからこそ、ゾロは剣の道を究めんとしてここに立っている。
 多分あの板前も同じような人間だと、もうゾロは疑ってはいない。
 ただ、あの男は何を知っているのだろう。
 それを問うても、きっと今は何も言わないのだろうと、そう思うから黙ってはいるのだが…。
 ゾロは小刀を置くと胸元にその手を突っ込んだ。そうして、何かを引っ張り出す。
 それは気を付けて見なければ分からない程に、細い蜘蛛の糸のようなものだった。ただ、蜘蛛の糸と違うことは、はっきりとした手触りからも分かる。色があまりない。白ではないし、かといって黒くもない。どこか朱くも見えるそれは、日に透かせば金色に輝くのかもしれない。
 明らかに、人の髪。
「…そのうち、聞くか」
 丸く削った竹籤にそれを巻き付け、ノリで固定する。他に作っていた薄く平らに削った竹を、ゆっくりと折り曲げながらゾロは徐々に形になっていくそれに、口元に小さく笑みをはいていた。

 結局その日は朝の騒動以外、何事もなく1日が終わったのだった。

 実質二日目、しかし考えようによっては三日目の早朝。
 サンジは寝不足の顔を冷たい水で洗い流しながら、躰に溜まった重いものを一緒に洗い流そうとしていた。
 夕飯に出した筍と山菜の寄せ豆腐はゾロにとても好評だった。
 ウワバミのように呑むゾロだからこそ、味を少し濃いめにしておいたのが的を射たらしい。
 ゾロは酒のつまみになりそうな総菜が好みだ。
 そんなことを覚えたからといって、なんの足しにも本来ならならないはずなのだが、嬉しいと思う自分がいるので諦めた。
 ここに来たのは、確かめる為だったはずなのに、なんだか諦めに来ているような気さえしてきているサンジである。
 昨夜。
 ゾロとあの玄関の見渡せる部屋で、また一緒に夜を明かした。
 灯火の薄暗い明かりもとうに切れ、月明かりが戸板の隙間から細く伸びるだけの室内で。一昨日の晩よりも近く、けれどどこかまだ距離をあけつつ。
 いつの間にかつれづれとお互いの話をしていたのは、成り行きだったのか間を持たせる為だったのか。
 だが、おかげで少しかもしれないが、ゾロの殺伐としつつも充実していたらしい過去に触れることもできた。他愛ない話ばかりだったが、それを聞けたことがとても嬉しくてこちらも少しはしゃいでいた気がする。
 二人きりで話をしているだけだったのに、とても穏やかで楽しい時間だった。
 旅暮らしのゾロの話は物珍しく、また料理の修業ばかりをしていたサンジの話もゾロには面白かったらしい。
 酒を酌み交わしつつ、穏やかな夜はいつの間にか更けて、そうして目覚めればゾロに抱え込まれるように寝て…。
「うおぉおおおおお」
 咄嗟に頭を抱えて蹲ってしまう。
 思い出さないようにしていたというのに。
 目が覚めたら豪快に寝ているゾロの懐で、大念珠を頬に当てるようにして寝ていたとは。しかもしっかりとゾロの腕はサンジの躰を抱えるように回され、まさに抱きしめられている状態。
 驚いて飛び起きて何が悪い。
 大慌てでゾロの腕をひっぺがしたが、それでゾロが起きる気配はなかった。だから急いで朝飯を作るという言い訳の元、逃げ出してきたのだが…。多分、あのままゾロはまだ寝ているだろう。
 なんであんな体勢になったのか、その頃の記憶はない。酒豪のゾロに付き合っているうちに、己の調子を忘れて呑みすぎたのだろう。
 それにしてもなんで?
 しかも気持ちよかったとか、いきなりどうなんだ!?
 井戸端で意味不明に呻いているサンジを、しゃらりと笹葉を鳴らす風がなだめるようにすり抜けた。


 風の音か葉ずれの音か。
 しゃらしゃらと鳴る音は普通の山の葉ずれの音より鋭い。
 かといってゾロの知る殺伐とした鋼の音とはやや遠い。
 懐から温もりが消えて、ふるりと寒さに目が覚めた。気持ちのよい体温だったのに、と妙に惜しく感じて大あくびと共に躰を起こす。
 昨夜。さすがに夜も更ければ寒さが勝ったのか、酒のもたらす温もりが抜けかける寒気とあいまったのか、ふいにサンジが寒いと震えてゾロの懐へと倒れ込んできた。
 これ幸いと抱きかかえて寝たのだが、大層気持ちよかった。適度な温もりと、どこかふんわりと香る煙草の匂い。サンジの吸っている煙草はどうやら香りの高いものらしい。清々しさすら感じさせる香りが、彼自身の匂いと共に酷く愛おしくさえ感じた。
 まだ朝は早い。
 きっとこれからあの板前は朝餉の支度に向かうのだろう。
 ゾロはゆっくりと手元近くに置いていた刀へと手を伸ばした。赤い刀と白い刀と黒い刀。一瞬その手が迷い、白を握る。
 一番自分にしっくりくる刀であり、多分これからもずっと一緒にいる刀だろう。
 そして、多分今に一番ふさわしい刀    
 そっと立ち上がり、ゾロは玄関へと向かい戸を開けはなった。
 緑と白の光の中、無数の細い竹の乱立が見える。
 ざあっと大気が揺れた。
 まるでゾロの躰を押しのけようとするかのような、そんな風を真っ向から受け止め、ゾロは笑った。
「よお、ちゃんとまた来られたな」
 膝を折り、腰を下ろす。そうすれば、目の前に小さな人影があった。
 普通ならばいつの間に来たのかと、目を疑う所だ。が、ゾロは当然のようにその小さな人影を見やった。
 どこか虚ろな影は、どう見ても子供のものだ。
 昨日、自分が目にしたモノだ。
 金色の丸い頭に、小さな手足、青絣の着物は着古しているが不潔そうな感じはしない。はっきりとしつつも、どこか朧気に見える姿はゾロの言葉に目を見張っているようだった。
「ちょっと待て」
 その子供の後ろに回り、ゾロは指を地面につけ一直線に線を引いた。
 軽く手をはたいて土を落とすと、先程よりもやや濃い姿を見せた子供が大きく息をついた。なんだか初めて息をしたようなそんな仕草だった。
「…あんた…誰だ?」
 甲高い声が聞こえた。どこか強ばった響きに、ゾロが振り返る。
「誰だと思う?」
「……お坊さん…」
「おう、とりあえず間違っちゃいねぇな」
「おれの声…聞こえるのか?」
「ああ、ちゃんと姿も見える」
 白く輝く朝日が透かした竹影を弾いて、子供の髪をキラリと光らせる。
 それをゾロは眩しそうに眺め、子供が恐る恐るこちらに手を伸ばすのを黙って待った。
 小さな手がほんのわずかゾロの着物に触れ、その感触を確かめた途端、思い切り握りしめてきた。
「じ、ジジイが! ジジイが落ちたんだ! 沢にいる助けてやってくれ! あんた大人だろ! 助けてやってくれよっ!」
 ゾロへと体当たりをするように抱きつき、力任せに揺さぶる。
 されるに任せながら、ゾロはほんの少し驚いたような顔をした。
「ジジイ? お前誰かと一緒だったのか?」
「そうだよ! おれ、山菜を採りにきてたんだ! そしたら…なんか迷っちまったみたいで! あああ、くそ、ここどこだ!? ジジイ大丈夫なのか!? おれ何日ここにいるんだ? そんなに時間たってないよな? ずっと…ずっと人を探してたんだ! ジジイを助けて! お願い、おれじゃ届かないんだ! 持ち上げられないんだよ! あんなジジイなのにっ! おれじゃ駄目なんだっ!」
 興奮してしがみついてくる子供をしばし眺め、ゾロは頷いて小さな頭に手を乗せた。
「そうか、それで…。おい、小僧」
 髪をわしわしと撫で回すと、その感触に子供は動きを止めて呆然としたようにゾロを見上げた。
 蒼く透き通るような目が、大きく潤んでいる。子供らしいのに、妙に強いその瞳は光を弾いてキラキラとやっぱり輝いている。それをちょっと笑って見つめ、ゾロは大きな指で子供の目尻をぬぐってやった。
「大丈夫だ。お前はおれの所まできちんと来た。だからもう大丈夫だ。お前のその爺さんとやらのことも心配するな。…よく頑張ったな」
 呆然とした顔のまま、小さな子供はゾロを見上げた。
「大丈夫なのか? ジジイは…」
 力強く頷くゾロに、ぽろりと子供の目尻から涙が伝う。ゾロは子供の顔を包み込むように、片手で覆えそうな手で覆った。その手にも雫が零れる。
「小僧、お前まえに女の子に笹舟作ってやったりしなかったか?」
 笑って聞けば、こっくりと頷いた。
「…ちょっと前に会った子だ…ずっと人を捜してて、やっと人影見付けたらまだ小さい子で…すんごく可愛い子だったんだけど…でもなんでかな? 声が届かなかったんだ、だから誰かにここにいるって伝えてほしくて…笹船なら…沢に…」
「ああ、なるほど」
 小知恵を回したらしい。それとも必死だったのだろうか。
 ゾロは頬に添えていた手を子供の身体へと回し、その身を何かから遮断するように抱きかかえた。
「いいか、少し時間がねぇ。よく聞けよ。ジジイとやらは大丈夫だ。ちゃんとおれが聞き届けた」
 胸の内で、子供がゾロの大念珠を握りしめたのが分かった。それにちょっと笑い、ゾロは力強く子供を抱きしめた。
 目の端に大地に指で引いたはずの線が、消えていくのが見える。
「お前のことも、おれは見付けた。すぐに何とかしてやりたいが、…今はちょっとだけ位置が悪い。おれの胸元におもちゃが入ってる…探ってみろ」
 ごそごそと懐を探す手がくすぐったい。だが、すぐにそれと見付けたらしい。小さな頭が頷いたのを感じて、ゾロはさらに子供を抱え込んだ。
 さらに大地の線が薄くなっていく。
「それを持っていろ、それでもうちょっとだけ、待て。絶対にお前を見付けてやる。…約束だ」
「やくそく?」
 幽かな声に、ゾロは頷いた。
「おお、おれは絶対に約束は破らねぇ。お前の願いは、どっちもちゃんと聞いてやる」
 小さな頷きが胸元にかえった。
 だがそれは恐ろしく幽かでしかなく、ゾロはその手の中のものが薄くなっていくのを止められない。
「もうちょっとだけだ。辛抱しろ」
 子供の頭がわずかに上がったような気がした、その瞬間腕の力が抜けた。
 大きく風が唸り、ゾロを突き飛ばした。
 思わず振り上げた腕で顔を覆ったが、まるで渦を巻いたかのような空気の揺らぎが地面の笹葉を巻き上げてゾロを襲った。
 微かに上体を仰け反らせ、ゾロの腕が一閃する。
 いつの間に抜いたのか、その手には白い刀。
 大きく風がぶれ、まるで刀の軌線に沿ったかのように何かが裂け、瞬間破裂した。
 ドコッと鈍い音がしたが、それは酷く遠い場所のような感じがした。
「ぶはっ!」
 頭を振り、ゾロは立ち上がった。
 全身が土砂まみれだ。盛大にはたいて落としながらも、ゾロは刀を鞘に収めるべく腕を回し、その目を眇めた。
 あれだけ大きく土砂を巻き上げたはずなのに、地面にはなんの乱れもない。それどころか、ゾロが引いたはずの線一つ残っていない。
 刀をきちんと鞘に戻し、懐を探った。その顔が、小さく笑う。
 そこには何の感触もない。
「うっし」
 小さく一歩を踏みだそうとして、ゾロは思わずしゃがみ込んだ。
 その頭上を物騒な足がなぎ払う。
「何しやがる! このクソ板前!」
「そりゃこっちのセリフだ! この破戒僧! いったい何しやがったらそんな姿になるんだ! 泥まみれじゃねぇか! お前は大人しく寝てることすらできねぇってのか!」
 立ち上がり様振り返れば、そこには怒りに目をぎらつかせた板前がゆらりと佇んでいる。
 金色の髪を後ろで小さくひっつめ、怒りに燃える目は青い。
 ほんの一瞬、ゾロの脳裏に小さな影が走った。
「てめぇ…」
 きつく睨み付けてくる男を、ついまじまじと眺める。そのてらいすらない、けれどどこか何かを探るような目線に、サンジは一瞬虚を突かれたように動きを止め、それからじゅわっと赤く顔を染め上げた。
 ゾロから目線を外し、きつく拳を握り締めて俯く。
「な…、何見てやがるっ!」
 まったくそんなつもりはなかったが、その一瞬の肌の色の変化にゾロの方も面食らった。
 先程掠めた印象は一瞬にして消え去り、かわりに…
「いや…美味そうだなと…」
 思わずそう呟くと、奇妙な沈黙が流れた。
「………美味そう…?」
 どのくらい時間がたったのか、それともほんの数秒だったのか。
 怪訝そうに顔を上げたサンジに、ゾロもはっと正気付いた。
「お前腹減ってるのか?」
「いや減ってはいるが…っ別のもんで…とそんな場合じゃねぇ」
 まったく分かっていない風のサンジに毒気を抜かれ、ゾロは本題を思い出して肩越しに後を見た。
 広がっている竹林は、朝の日差しの中で清澄に佇んでいる。
 ゾロは袖口を探り、そこから何かを取り出した。
 ゾロの掌にすっぽりと入り込むくらい小さな、それは竹で作られた風車。
「それっ!」
 取り出した途端、サンジが飛びついた。ゾロの腕を捕らえ、抱き込むように引き寄せると、その竹細工を食い入るように見つめる。
「……見覚えでもあるのか?」
 なんとなく確信を持つような言葉に、はっとサンジはゾロを見上げた。
 緑の髪に強い光を帯びる鋭い目。太い眉は引き絞られるように流れ、左耳には三つの金の飾り。
 声もないサンジに、ゾロはほんの少し逡巡したようだった。だが、何かを確かめるようにその手にした風車をサンジに差し出した。
「お前が持て」
 恐る恐るというように、サンジの手が伸びる。その指が何かを確かめるように風車の羽根をつつき、それからそっと心棒をなぞった。
 押し付けるように差し出すゾロの動きに一瞬躊躇うようにし、けれどサンジはしっかりと風車を手に取った。
「これ…」
 言いながら己の胸元に引き寄せ、しみじみとした風にためつすがめつ風車を見つめる。
 小さいながらなかなか立派な竹細工だった。ただ軸足の所に、細い糸のようなものが貼り付けてあり、それが奇妙に浮いて見える。
 ふっと息を吹きかけるが、羽根はぴくりとも動かない。
「…へったくそ…」
 なんだか泣き笑いのようにそう零す。そんなサンジに、ゾロは憮然と応えた。
「うっせぇ。そりゃそんな風に回すもんじゃねぇ」
 風車を持つサンジの手に手を添え、ゾロはゆっくりと風車を周囲に翳した。腕を勝手に動かされるまま、呆気にとられながらもサンジはゾロの動きの邪魔をしない。
 それどころか、どこか上の空にゾロの顔ばかりを見つめている。
 けれどそれもすぐに驚きに解けた。指先に伝わる微かな感触。慌てて見れば、風車がゆっくりとけれど確実に回り始めている。
 だがその方角に風はない。
 さやさやと吹く風は風車の向きとはまるで違う方角から吹いてきているというのに。
「ゾロ…」
「おう。朝飯前に一働きだ。こっちだ、行くぞ」
 方向を定めると、サンジの手をまるで道しるべにするように握り、ゾロは一気に駆け出した。

 竹林は本当に広かった。
 急勾配の斜面を駆け上がり、時折立ち止まってはサンジの腕ごと風車を周囲に翳す。すると何故か、風車が回り出す場所がある。
 それを確かめてはまた走る。
 二人とも体力には不足はない。もしかしたら一晩で山一つくらいは軽く走りきるくらい造作もないのかもしれない。それでも当てもなく走るというのは、気分的に疲れが出るものなのだろう。
 軽く息を乱し、何度目かに足を止めたそこは小さな川が流れる沢のような場所だった。竹は相変わらず縦横無尽に生えてはいるが、広々とした空間というよりも、斜面があちこち隆起したような起伏に富んだ地形になっていた。岩も多く、走るのにも飛び上がるようにすることの方が多くなってきている。
 コニスからこの山奥は山頂は切り立っていると聞いたような気もするが、適当に流していたのでうろ覚えだ。
 だからだろうか、もう既に聞き慣れた竹の風音に混じり、水のやや重い音が混じって聞こえるが、どこか立体的な響きがある。この寒空に涼やかなその音は、葉ずれの音と比べてしっとりと耳に馴染む音だった。
「みず…」
 なんとなくフラリとそちらに身体が吸い寄せられる。
 そんなサンジの腕をゾロは掴んだまま、軽く引き留めた。
「喉が渇いたか?」
「あ…いや、そういうんじゃねぇんだが…」
 言いながら、それでも軽く首を傾げサンジは水辺を見た。
「下の方で川は見たことあったけど、ここら辺りから流れてきてたんだな」
 コニスの家の近くで見る小川に比べて、川幅は本当に狭い。それに、竹林の中にほっそりと流れる水流は、心細いくらいだ。
「…もっと…こう…深い所のような感じがしてたんだけどな。岩とかごっついのが多くてさ、見下ろすように深くて…もっと水音は囂々としててよ」
 それはどこの水辺のことなのか。
 ゾロは黙って聞きながら、そっとサンジの手を引いた。
 その手にはしっかりと風車が握られている。その羽根はここにきて、ゆっくりと回るのを止めていない。
 ゾロは辺りを見回し、そこが竹林の中で一際大きな竹の群生地であることに気付いた。
 下で見ていた竹よりも、太さが大きい。種類なんぞ分かりはしないが、緑の色も濃く、さらに節も大きい。
「…年期も入ってやがるしな」
 ずっと片手に持っていた刀を握りしめる。
 ゾロの言葉に、サンジは水場からゾロへと視線を戻した。そうして自分が握っている風車がくるくると回っているのに気付き、慌てて周囲を見渡した。
 山の中腹大きな竹。
 どことなく、サンジには見覚えがある。
 けれど、それがいつ見た物なのかは分からない。山には幼い頃からよく入っていた。そんな時に、こんな風に大きな竹林に出くわすことも何度もあった。
 山は不思議だ。その時々で色々な姿を見せるし、時折見も知らぬ場所へと誘われることもある。
 ゾロはぼんやりと辺りを見回しているサンジの手を、そっとかざす。
 そうして一際大きく回る方向を見つめると、不意にその口元を綻ばせた。
 そこには大きな岩が作る土壁があった。この山らしく竹の葉で白く染め変えられ、一瞬岩というよりただの崩れ落ちた土の壁のように見える。けれど生えそろった竹は大きな竹の中でもさらに大きく、節の太い幹がどっしりとその周囲を囲っている。
 その竹の回りは降り注ぐ葉を受けてさらに色を落とそうとしているようだ。
 いや、確かに白い。その竹の回りだけ、笹の葉の色が妙に白くなっている。
「…ゆ…き?…」
 微かな声が疑問を零した。呆然としたサンジの声に、ゾロはアホ、とあっさりと応えた。
「ありゃただの竹の葉だ。雪でなんかあるか。ボケてんじゃねぇぞ、板前」
 ハッとサンジの目に意思が入った。
 なんとなく今の今まで夢を見ていたような、ぼんやりとした思考がいつの間にかサンジを浸食していた。けれど、むかっ腹が立つと同時、サンジは自分が今、大地にきちんと足を揃えて立っていることをきちんと思い出した。
 自分は、料理人の、サンジだ。
「お前に言われるまでもねぇ!」
「よっし、その意気で邪魔するんじゃねぇぞ。ちゃんと見てろ」
 楽しそうに笑い、ゾロは首から提げている念珠を片手に絡めた。
 何やら小さく唱え、大きく息を吐く。
 そうして、サンジに目配せをした。その風車をかざせと、目線が告げる。
 サンジはゾロの横に並ぶと、風車を岩の方へとかざした。羽根が回る速度は変わらない、けれど、その風車をゆっくりと岩から右へと逸らした時、カラカラカラと小さな音がした気がした。
 それは明らかに別の場所からする音で、また奇妙に響く音でもあった。
「ウン!」
 ふっ、とゾロの呼気が静まった。
 ざわりと何かが渦巻いたような気がしたと同時、ゾロの腕が霞んだ。
 サンジの目の前で、確かに何かが切れた。景色が斜めにずれ、ぐにゃりと歪む。しかしそれは錯覚だったのか、ふと気付けば、近くにあった竹の数本が胴震いしたかのように大きくしなり、じゃわりと不愉快な笹音をまき散らして大地に突き刺さった。
 声もなく見守るサンジの前で、次々と目の前からその奥に向かって一直線に、竹の群れが揺れてはずれて落ちていく。
 何本も何本も、見事な切り口を見せて竹が倒れ落ちていく。
「…な…」
 切れているのだ。
 多分ゾロが薙いだ刀の軌線に沿った位置にあった竹が、奥の奥まで切り裂かれていっている。
 そのあり得ない様に目を奪われていた時、サンジは何かを聞いた気がした。
 風の音のような、けれど確かに聞こえる。昨日も聞いた気がする…これは声か。
 急いでゾロを振り返りサンジは確かに見た。
 一際大きな竹の斜めに切れた節の一つから、何かが飛び出したのを。
 まるで今そこに湧いたかのような、小さな人影が大きく手を広げて駆け寄ってくるのを    
 ゾロの腕がその影を確かに抱き寄せようと伸ばされ、その手はきちんとその影を懐へと導いた。
 そうして、ゾロの懐に飛び込んだ小さな影はゾロを仰ぎ見るように顔を上げ、笑みを浮かべたと同時にふわりと溶けた。
 ほんの一瞬の、目の錯覚かと思える、出来事。

 反射的に瞬いた。
 ゾロがいる。
 竹林の清々しい程に静謐な世界の中に、着古した僧衣を纏った男が遠くを見つめている姿がある。
 抜き身の刀を手に、それは異様な風体で。
 なのに酷くこの場に似つかわしい。
 そんなゾロの足元に、小さな風車が落ちている。地面に突き刺さり、カラカラカラと軽やかに回っている。先程聞いた音は、これだったのだとサンジはぼんやりと理解した。
 サンジが今持っているものとは違う、もう一つの風車。

 ただ立ち尽くすサンジは、ゾロがそれを拾ったのを見ても動けない。
 ゆっくりと風車を拾いあげたゾロは、サンジを振り返り、そうしてその手のものをサンジへと差し出した。
「…お前にやったものだからな」
 ああ…。
 サンジはその場に崩れ落ちた。












(12.05.11)