『奇談夜話』
〈後編 1〉



 朝の日差しの中で見るコニスの家は、本当にこじんまりとした小さな住処だった。
 背後に広大な竹林、手前も既に竹林だ。一応竹林の入り口となってはいるが、ふと見る限りはどこを見渡しても竹の最中だ。
 奇妙に明るい空間は、普通の森林とは違う竹という植物のまっすぐな乱立と細い葉から来る恩恵だろう。が、その分、まったく別の植物が育つ気配はない。
 ただ、広がる垂直にほぼ立つ竹の群れ。
 それは人に奇妙な感慨さえ与える代物だった。
 こんな所に住もうと思うのは、風流人を気取るものか世捨て人か。どちらにしろ、粋人と呼ばれる類の者達だろう。
 もしくは。
 何かを捨て去った者達の行く先。
 小さく苦笑し、ゾロは歩き出した。
 なんにしても、生を持つものには酔狂なものであり、場所である。
 どこか呆れたように思いつつも、本来ここに暮らしているコニス達は違うということを思い出した。ここの竹林の管理を任されていれば、それは仕事だ。気ままとはまた別のものがあるのだろう。
 実際明るくなってから見たコニス達の部屋は、どこも竹細工用の小物やそれらを切り出したりする為の道具等で溢れていた。そういう仕事も管理には含まれていたのかもしれない。
 ふらふらと歩いて辿り着いたのは家の裏手に作ってある、小さな井戸だった。
 つるべ桶を落として汲み上げてみれば、思った以上に澄んだ綺麗な水が汲み上がった。どうやらここは、水も上物らしい。
 だからこそ、よい筍も採れるのだろう。
 ゾロは顔を洗い、懐から手ぬぐいを取り出すと水気をぬぐった。先程手渡された物だ。一人なら、顔を洗うということすらしたかどうか。
 何よりまだ朝も早い。こんなに早いうちに起き出したのは、久しぶりだった。やっぱり一人だったら、絶対もっとゆっくり寝ていたはずだ。そうできなかったのは、もう一人にたたき起こされたからだ。
 今も人様の台所で動き回っているのだろう彼は、つきっきりで竈の前で火の番をしている。
 昨夜は家に入るや否やゾロはそのまま玄関のほぼ横にある部屋に入り、寝てしまった。そんなゾロにサンジが暫くブツブツと文句らしきものを言っていたらしいが、知ったことではない。
 そのまま寝ていたら、先程蹴り起こされたという寸法だ。
 随分と不機嫌そうではあったが、ゾロの邪魔をするつもりがないというのも本当らしい。ただ、飯の支度ができたと言い、顔を洗ってこいと井戸の場所を教えられた。
 そのいいざまから、どうやらあの板前は何度かここに来たことがあるらしい。
 コニスの家は玄関から縦に二部屋連なり、その奥に台所の土間という作りだった。縁側は一応表の人が来る方に作られていて、誰か来たことを確認するのに良い作りだ。
 結果、一番手前の部屋はそのまま玄関を見る部屋になる。トイレは土間を出て少し先に作られている。風呂はない。
 風呂はちょっと歩けば町中にいくらでも風呂屋があるのだからいらないという寸法だろう。山際でもあるし、辺りは火の手が上がりやすい場所でしかない。出来る限り火を使わないという徹底さが、好ましい。
 それにしても。
 ゾロはゆっくりと周囲を見回した。
 微かにシャラシャラと音を立て、ひらひらひらひら回転しては薄く光りを弾いて舞い落ちる落葉に、思わず目を細めてしまう。
 静けさをさらに際だたせるその音は、風のざわめきに節を揺らす緑の柱の中にあって、いっそ夢をみせられているかのような現実感のなさがある。
 本来なら、そんな気分になどなかなかならないゾロをしても、ふとどこかに紛れたような気分になるのだから見事だ。
 小さく胸の大きな念珠が呼吸に合わせてカチリと音を立てる。それに小さく笑い、ゾロは辺りを見回した。
 そうして一つ頷くと、そのままフラリと家の方へと戻っていった。


 縁側から入れば早かったのだろうが、ゾロはわざわざ玄関から家へと入った。
 昨日は暗いまま、火を入れることもなくそのまま寝てしまったので、改めて家を見てみたかったのだ。
 コニス達がこの家から出たのは、一昨日と聞いた。昨日ゾロの所に来た時には、既に家からは出ていたという。戻るつもりでいたらしいのだが、一端外に出てしまったら戻るのが怖くて仕方なくなったらしい。
 それでもまだ三日目。そうそうに家が荒れることは、当然ながらない。
 けれど山中の一軒家、たった三日されど三日。よく見れば家のあちこちは埃でうっすらと白く汚れている。
 ゾロはそっと玄関から後じさり、一旦外へと躰を出した。ゆっくりと背後の竹林を振り返り、それからきつく視線を飛ばす。
 さらさらさらと音がする。
 しゃらしゃらしゃらと葉が鳴る。
 どこか遠くから小さな唸り声のような音がして、視界の奥から竹がしなる姿が見える。
 静寂。
 土の匂いと、緑。
 そして白い無数の落葉。
 細い落葉。

      雪かと思った。

 耳を過ぎったのは、低い掠れた男の声。
 それを言ったのは、昨夜の板前だ。
 確かにそう見ようと思えば見えなくはないが、一見しただけではそんな風には見えない。
 ということは、そう思う何かをあの板前は持っていたということだ。
 朝の冴えたまだ冷たいとも思える空気の中、じっとどこまでも続くのではないかと思える竹林を見つめた。
 そうして、面白くもなさそうに再度玄関から入り、無造作に上がろうとして視線を落とした。
 上がり框の真ん中。埃をかき混ぜるように細い線が入っている。
 いや、線というには不自然だった。膝を折り、よくよくそれを見てみれば、それは取りすがるような形の細い指の跡だった。
 ゾロはそっとその跡に指を這わせた。
 己の指とは違い、幅もその先もかなり細い。かき混ぜたような跡をよく観察してみれば、掌で何かを掻き出そうとしている跡のようにも見える。
 注意して辺りを見てみたが、それ以外に跡らしい跡は何もついてはいない。
「戻ってんのか、破戒僧! 顔洗うだけに、どんだけ時間かかってんだこののろま坊主が……って、何やってんだ、お前」
 ドカドカと足音も荒く歩いてきた板前が、這い蹲るように玄関先にしゃがみ込んでいるゾロを見て、呆れたように目を丸くした。
 ゾロは顔を上げると、立ちつくす板前を見上げた。
 鋭い視線に板前は少したじろいだように見下ろし、はっと何かに気付いたように慌てて腰を下ろした。
「なんか分かったのか?!」
「…いや」
 言いながらゾロは埃を袖でなであげて、何でもないようにするりと立ち上がった。跡の上に足を置き、ずかずかと歩いていく。裸足の足跡が乱雑に埃の上につき、速攻サンジからの蹴りが飛んできた。
「紛らわしいことしてんじゃねぇよ! ああ、ああ、家汚すんじゃねぇ! おれたちゃコニスちゃん家を汚す為にきたんじゃねぇぞ!!」
 蹴りを片手で受け止め、煩く喚くサンジを無視し、ゾロは良い匂いのする方へと歩き去る。
 サンジは小さく舌打ちして、足下を見た。先程までゾロが蹲っていた所は、ただ足跡と白い埃で斑模様になっているだけだった。


 板前が用意した朝食は、シンプルながらとても美味いものだった。
 みそ汁だけでも白飯がいくらでもいける。しかも、副菜は筍を使った代物ばかりだったが、種類が豊富でこんな料理があったのかとゾロはいたく感心してしまっていた。
 旺盛な食欲で、おひつを空にしていくのをサンジは呆れたように見つつも、酷く嬉しそうにしていた。もちろんサンジも一緒に食べていたのだが、途中からひたすらゾロへ給仕に回っていたくらいだ。
 食事が終わってから、何かするのかと思えば、ゾロは玄関前の部屋へと入るとゴロリと横になった。
 一応玄関が見えるようになのか、襖は開けっ放しにしてあるが、それでも寝る体勢そのものだ。
「お前なぁ…」
 一通り食事の後かたづけを終えたサンジは、ゾロの傍に来るとどっかりと腰を下ろした。
「喰ってすぐ寝るつもりかよ。どんだけ寝るんだ」
「うっせぇ」
 あくびまじりに答えれば、返事が嬉しかったのかサンジがちょっと嬉しそうに身を乗りだしてきた。
「この部屋、竹細工やらなんやらの道具で一杯だよなぁ。コニスちゃんの親父さんは、竹細工の腕のいい職人なんだぜ。うちもザルとか結構作ってもらっててな、竹の花瓶とかあったろ? あれも親父さんが作ってくれたんだよ。あ、箸もな。色々お世話になってるんだ。またこれが使い勝手が良くてな。竹を熟知しているんだろうなぁ」
 上機嫌で話をしだす板前を、ゾロは薄目を開けて見た。そういえば、こんな風に二人きりで話をするのも初めてというえば初めてだ。
「ここの竹林はよ、同じように見えるかもだけども、場所によって種類が分けてあってな。真竹に破竹、孟宗、大名ちょっと先にはわざわざ群衆させて古参があったり、珍しい所では黄金竹とか、とにかく豊富なんだよ。全部筍の時期も違うから、筍狩りも時期が長い。それに、ここの竹で作る弓も結構いいらしいぜ」
「…弓か」
「お前やるのか?」
「いや。おれは刀だけだ」
「坊主がなんでそこで堂々と刀だけとか言うかね」
 呆れたように言いながら、弓の許になるのであろう切り出された竹を見上げた。
「そっか、弓はやらないのか…おれの勘違いか…?」
 最後の言葉はあまりにも小さく、ゾロの耳には届かない。
 けれどどこか少し落胆したような様子に、ゾロは眉をひそめた。
「…コニスとかいう娘は、お前のいい人か何かか?」
 この場所をよく知っている上に、いやに親身とくればゾロにはそのくらいしか思い浮かばない。しかも、常日頃から女性は大好きだが男は蹴り殺そうというくらいの意気込みの人物が、わざわざ自分と二人きりでもなんとかしようとしているとくれば、尚更だ。
 ほんの一瞬、サンジは目をぱちくりと見開いてゾロを見つめた。
 次の瞬間、デレッと相好を崩し、デュフフフフと意味不明な笑いを漏らしながら、その場を転がる。
「うっわ、いい人だってよ、え? そんな風に見える? かっわいいもんなぁあああああ、コニスちゃぁあああん。あああ、いい人だったら、おれもう天にだって昇っちまうぜ! つーか、おれって罪つくり? そんな風に見えるなんて、やっぱなぁ! にじみ出る雰囲気はあなどれねぇよなぁ!」
「んだ、違うのか」
 あっさりと言いのければ、いきなり鋭くメンチを切ってきた。
「んだと、この破戒僧! コニスちゃんなら全然オッケイだっつってんだろ!」
「…違うんじゃねぇかよ」
 言いながらゾロは目を閉じ、ガバリと身を起こした。
 起きあがりざまに刀を手にし、そのまま玄関の方へと目線を定めるとわずかに首の大念珠へと片指を預ける。
 文句を言おうとしたまま、サンジも固まった。
 …今、何かが聞こえた…気がした。
「こりゃ…」
 言いかけようとしたサンジへと一瞬だけ、ゾロの視線が流れて口止めた。
 次の瞬間、確かに耳に届いたような気がした。
      声だ。
 誰かを呼ぶ、どこか切羽詰まったような声。
 急いでいるようでもあり、焦っているようでもあるのに、すがりつくような響き。今にも応えなくてはならない、そんな気になるような…。
 なのに、確かに聞いた気がするのに、本当に聞いたかどうかが分からない。
 サンジはゾロを見た。
 ゾロは玄関の方を見据えたまま動かない。
 しかし、その目は何かを見定めたかのように動くことはなく、また迷いもないようだった。
 小さくゾロの口元が動く、ほんのわずか鋭く息を吐いた。
 思わず玄関の方へと視線を動かしたサンジの前で、閉めていたはずの玄関の板戸が大きく開いた。
 唸りのような音と共に、一陣の風が舞い込む。反射的に目を閉じようとした時、ゾロが飛び出した。
 大きな歩幅で玄関へと走り込み、手を伸ばす。その手が何かを掴もうという風に開いたのを確かに見たと、サンジは思った。
 次の瞬間には、鋭く渦巻く風が玄関をぐわりとかき回し、白く細い葉がまるで吹雪のように辺りを覆い尽くした。
 鋭い気合いが風塵を切り裂いた。
 多分、切り裂いたのだろう。目を庇っていた腕を下ろした時、そこにはぐちゃぐちゃになった戸口に立ちつくすゾロがいるだけだった。

「……な……なんだ? 今のは…」
 ゾロは外を見たまま、動こうとしない。サンジはゾロの傍に駈け寄り、同じように外を見た。
 大きくしなる竹野原は無限とも続くかと思われる緑の海。うなり声のような風の通りに、しなり回る緑の乱舞が見えた。
 それ以外、サンジには見えない。
「声がした…ような気がする」
「ああ」
「やっぱりあれは声か?」
「聞こえなかったのか?」
 ゾロは隣に立つサンジへと顔を向けた。ということは、既にもうそこには何もないのだろう。
「声のような気がした。誰かを呼んでいるような感じの…そんな風に思ったとしか、おれには言いようがない。聞いた気がするのに、あやふやなんだ。本当に聞いたのかどうかも分からない。…けど、あれは声だ。助けを呼ぶ声だった」
「ああ」
 ゾロはもう一度わずかに外を見つめ、それから手にしていた刀を握りしめた。
「助けを呼ぶ声だ」
「なんて言ってたか分かったのか?」
 頷いたゾロはゆっくりと、今度はサンジをしっかりと見つめた。

       ここはどこ 誰かいないの 誰か助けて

 低い声が告げるそれに、サンジの躰が揺れた。
 どこか愕然とした様子で、ゾロを見つめてくる。
「…その繰り返しだ」
「繰り…返し…」
 青ざめたまま、サンジはその手で額を押さえる。
 ゆっくりと俯き、ぎゅっと掌を握りしめた。金色の髪が指の狭間から覗く。俯いたサンジの表情は分からない。
 それをゾロはじっと見ながら、己の手を懐へと差し入れた。その指に一瞬だけ、幽かな光が流れたがそれにサンジが気付くことはなかった。





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よ…よもや後編が続くとは…。
絶対次回で終わります。断言します! もうちょっと続けさせてくださいませー!