ようやく表の提灯の火を落とし暖簾を下げて片づけたナミは、未だに酒を呑み続ける僧侶に呆れた声を掛けた。
「ホントあんたいい加減にしなさいよ? どんだけ呑めば気がすむのよ、この破戒僧!」
「うるせぇ」
これが呑まずにいられるか。
そういった心境を分かっていても、ナミはどうやら無尽蔵にゾロの腹に消えていく酒が惜しくてならないらしい。
「それだって、全部コニスのおごりなんだからね!」
ブッ! とゾロが小さく吹き出した。
「んだと!? お前等のおごりじゃねぇのか!」
「……私がそんなことすると思うの?」
あからさまに呆れた目つきをする守銭奴と名高いこの店の女将に、ゾロは体中から空気を抜くような溜息をついた。
「へーへー、そうだったな…」
「なんだその返事は! おナミさんに向かってなんたる態度!」
飛んできた布巾を片手で受け取り、ゾロは無造作に吹いた酒の上にそれを置いた。拭こうとはしないことに、更に怒りを募らせながら板場からようやく出てきた男は、ゾロを力一杯ねめつけた。
わざとらしく、ゾロの躰を押しのけるようにして板の上を拭き上げていく。
それを横目で見ながら、ゾロはうんざりとしているのを隠さずナミを見据えた。
「で、どういうことだ?」
「あら、どういうことって?」
ナミは前掛けを外しながら、しれっと答えるとサンジに笑いかけた。
「ねぇ、私達もちょっと呑みましょうよ。…この坊さんと話しもあるし?」
「はーいv よっろこんでーvv 今美味しいつまみもってくるからねー!」
ゾロを軽く蹴って場所を空けさせ、カウンター前のゾロから一つ空けた椅子を引いてサンジは急いで板場に入っていく。
面白くなさそうにそれを見送り、ゾロは肘をついてこめかみを支えると、大人しく椅子に納まったナミへと目線を戻した。
「そんな目でみないでよ、私だって困惑してるのよ? だいたいあんた大丈夫なんでしょうね! 引き受けたんでしょ!?」
それを今頃言うか。
ゾロは無言でナミを見据えた。一応後ろめたいという気持ちもあるのだろう、ナミは追求せずに自分も大きくため息をついて両肘をついて華奢な顎をちょこんと乗せた。
「最初はね、青鼻のチョッパー先生から来た話なのよ。なんでもコニスが倒れたのを見たのがチョッパー先生だったらしいの。あの先生ああ見えて有名なのよね。腕もいいのに、おあしも色々融通つけてくれるし? それに、結構どこにでも往診に来てくれるしね」
ヒトヒトの実を食べたという元はトナカイらしく、足取りはどこまでも軽いらしい。
さもありなん、と遠い目をしたゾロに気付いた様子もなく、ナミはうーんと頭を抱えた。
「で、窮状を知って、よりにもよって麦わらの親分に話しを持って行ったらしいのよねぇ。見回りを頼んだってのが本当のことらしいんだけど。けどね、どうも青鼻先生もおかしいって思ったらしいのよ。野生の勘ってやつかしら? で、麦わらの親分も面白いって駆けつけて…」
なんとなく、想像がついた。その顔に得心がいったというように、ナミも厳かに頷いてみせる。
「…引っかき回すだけ引っかき回して、どうしようもなかったってことか?」
「竹林は無事よ」
何があったのかは、聞きたくもない。
とにかく、怪異らしきものはあって、そして正体は掴めなかったということだろう。
ゾロは深々とため息をついて、酒を銚子ごと呷った。呑まずにはいられないとはこのことだ。
「コニスのことは私もずっと前から知ってるの、あそこの筍は本当に美味しいのよ。いつも早生の時期からコニスに筍下ろしてもらってて。評判も良かったのよ? それがこの有様。原因も分からないし、一応、拝み屋とか神社とかにも掛け合って、どういうことなのかって聞いてみたのよね。でも、結局、何かがあるってことは分かるらしいんだけど、どうも正体が掴めないって。またあの竹林広いのよねぇ。…で、全員で困ってたら…」
ちらっとナミの目が板場に向いた。
見逃さずゾロもそっと板場へと目線を走らせた。
そこにはこちらに背を向けて、何かをごそごそとやっている板前の背が見えた。十文字にかけられた紐が、小刻みに楽しげに動いている。
「サンジくんが、そういうことなら、破戒僧が最適なんじゃないかって言い出して」
その時のことを思い出したか、ナミは困惑を隠さずにゾロへと顔を向けた。
視線がどういうこと? と問うている。
それには答えず、ゾロは銚子の底を振って板場に声をかけた。
「酒」
「てめぇはしめぇだ!! このウワバミがっ!」
くわっと鬼神もかくやといわんばかりの怒気を纏った顔が振り返る。本当にい殺されそうなメンチに、ゾロはしれっともう一度、
「酒」
と繰り返して平然とナミを見た。
さすがにナミの視線も氷点下だ。
知るか、とゾロはナミへと続きを促した。
ナミは大きく息を吐き、首を振った。
「コニスが話したんでしょ? どうやら今のところ、怪異らしきものは続いているんですって。実害はないようでいて、ああいうのって精神的に来るのよねぇ。気にならない人は、まったく気にならないんだろうけど、コニス達にとっては大問題よ。しかも一応今は麦わらの親分が上に頼んでくれて…一応そういうこともできるのよ? あの親分でも! まあ、そんなわけで竹林は人払いがされているんだけど。それでもねぇ。噂は噂を呼ぶわ。なんとかしてあげられるものなら、してあげたいじゃない? 本当はまあた、いかさまみたいな感じで、バギー一味でも噛んでるんじゃないかと思ってたんだけど…まったく関係なさそうだし」
「そうなのか?」
「今、バギー一味はこの街にはいないらしいわよ。前に麦わらの親分に受けた打撲が酷くて、湯治にいってるんだって」
そんな情報が入るやくざ者の一味というのも、どうだろう。
呆れた視線を空に飛ばすと、いそいそと板場から出てきた男がナミの前に彩りも綺麗な、筍と春野菜の煮付けを細かくして差し出した。酒のアテとしての代物らしい。
お猪口をナミが手に取ると、すかさず銚子を傾けてわずかに湯気をのぼらせる透明な液体を注ぐ。
まだ夜には少し冷える。それを見越しての燗だろう。
ナミが嬉しそうにそれを口に持って行くのをデレデレと見つめ、それから嫌そうに振り返ってゾロの前にもう一つの銚子を置いた。
「本当にそれで終いにしとけ。どんだけ呑んだと思ってやがる」
軽く肩を竦めたゾロは、無造作に銚子を傾けて己の升に注いだ。お猪口なんかでは足りずに、既に升酒である。それでも足りずに、銚子から直接呑んでいた身としては、一応行儀を思い出したといった所だろうか。
「ねえ、あんたコニスのこと、引き受けたんでしょ? コニスからは、暫く家に帰りませんって連絡はあったけど…本当に大丈夫なの?」
「人に押しつけといて、何いいやがる」
「そりゃ…そうだけど…」
ナミは困惑したようにサンジを見る。全てはサンジが言い出したことだ。
コニスのことで麦わらの親分達と頭を抱えていたのは本当だ。こんなことどうすればいいとか、普通の者ではまったく分からないのも当然だ。誰かこういうことを解決できる人はいないかと、手分けして探すくらいしか方法がなく、途方に暮れていた時に、この破戒僧のことを思い出す人など全くいなかった。
なのに、サンジが言ったのだ。
「あの破戒僧に任せりゃいい」 と。
何言ってるんだ? というのが全員の意見だった。
だが、ゆったりと煙管を吹かし、サンジは絶対の自信を持って言ったのだ。
「あの生臭坊主なら、なんとかするんじゃねぇの」
なんで僧衣なんて着ているんだと、そっちの方が不思議なあの人物に、何ができるというのか。仮にも坊さんだからという説明では到底納得できなかっのに、何故かルフィの親分までが納得した。
「そっか、それもいいな」
結局まったく根拠のないまま、親分の薦めで既に藁にもすがるコニスは突っ走った。その結果が、今のこれだ。
ナミが本当に大丈夫なのかと心配するのも当然だろう。
「だーいじょうぶだよ、おナミさん。こいつが後はなんとかしますから」
まるで当然のことのように言う。それにゾロが片眉を上げて、睨み付ける。が、まったくそれには頓着せず、サンジはナミの隣に立ち、胸元から煙管を取り出した。
「そうは言うけど…」
言い淀むナミは、サンジとゾロを交互に見比べた。何故こうもサンジが自信満々なのかがそもそも分からない。
ゾロに至っては、何を考えているのか、本当に任せても大丈夫なのか。まったく判断する材料すらないときている。
暫く見つめ、ナミは両手を上げた。もう降参だ。分からないことを考えていても、結果なんて出てこない。
「なんかもう、よく分からないけど! とにかくあんたは引き受けたのよね!」
ナミは手元のお猪口の中身を一気に飲み干し、ぷはっと息を吐いた。
ゾロは突然生きの良い飲みっぷりを披露するナミを面白そうに見ながら、こともなげに頷く。
「なら、任せるからね! ちゃーんとコニスを助けてやってよ? でないと、もううちに出入り禁止なんだから!」
「………」
無言のゾロに、サンジの方がちらりと酒を呑む僧を見やる。
「あと! どのくらい時間かかるの? あんまりかかるようなら、コニス達の衣食住のアテを探してやらないと…」
「三日」
「は?」
とこれはナミとサンジの声がハモった。
ゾロは升から口を離し、面倒そうにもう一度告げた。
「三日だ。ちんたら時間かけてられるか。あの娘にもそう言ったから、世話の方はお前らがなんとかしろ」
最後の一滴まで飲み干し、ゾロはふらりと立ち上がった。
あれだけ呑んだというのに、まったく素面のように躰が揺らぐこと一つない。
「じゃあな」
それだけ言って傘をかぶり、壁にかけていた袋を手にとり背負う。そのまま外に出て行くゾロを見送り、ナミは呆然と呟いた。
「本気で食い逃げたわね…いや、お代はもらうからいいけど。それより、三日で片付けるってこと? あいつホントにお祓いとか出来るわけ?」
それには答えず、どこか呆然としたようにサンジはゾロが出て行った戸を見つめていた。
そうして、一つコクリと喉を鳴らし、大きく息を吐いた。
「…ナミさん、おれも三日休みもらって…いいかな?」
驚いて振り返ったナミに、サンジはやっと何かを思い出したように焦ってナミを見た。
「あ、ここの板場には、ジジイの所から別なの寄こさせるし! そっちの方は問題ないようにするからそこは心配しねぇで…」
「………サンジくん?」
不思議そうに問いかけるナミに、サンジは困ったようにヘラリと笑って、そうして外を見たのだった。
月夜だった。
行灯の明かりもいらない。まだいびつながら、ぽっかりと空に浮かんだ光源は、しらじらと辺りを蒼く染め上げていた。
一見とてもよく見えるのに、じっと目を凝らせば見えない。
そんな月夜の闇は、むやみに蒼い。
そよ風が躰を撫で去るのを心地よくさえ感じながらも、足下から這い上がる冷気には閉口する。
一頃の凍えんばかりの寒さはさったとはいえ、まだ夜には火鉢が必要なくらいには肌寒い。
既に木戸は閉まっている時間だった。時折ぎょっとしたように夜番の者と出くわしたが、一度も声をかけられることもなく、ゾロはずっと道を歩いていた。
もう随分と歩いた気がするが、竹林など影も形も出てこない。
はて? と首を傾げつつ、また多分こっちだろうとアタリを付けて角を曲がったら、大きなため息が聞こえてきた。
「やっばりな…」
声は聞き覚えがある。嫌という程。
傘を軽く持ち上げ、月明かりに声の方を透かして見れば、もう閉まった木戸の脇に立つ細い人影があった。
ぽっと小さな赤い火種が一瞬だけ見え、ついで細い紫煙が立ち上る。ゆうるりと煙管の先を回し、ポンと手を打ち合わせる要領で火を落としたサンジは、草鞋で火を消し去ると木戸から背を離した。
それからやれやれと大きく腕を回しながら、佇むゾロの方へと足を進める。
「…どんだけここまで来るのに時間かかってるんだよ、おりゃ一回コニスちゃん宅まで行って確認しちまったじゃねぇか」
何も言わずに目を眇めたゾロは、木戸の奥を見た。
確かに一本道の奥へと続く道は、人家があるようには見えない。どうやらここが、コニスの言う竹林への入り口の通りらしい。
「何しにきた」
「お前の案内」
「いらん」
即答したゾロに、サンジはニッと口の端を上げた。笑ったというには、どこか挑戦的な表情だ。
「お前の許可なんか取るつもりもねぇ。黙ってついてこい。でないといつまでたっても、竹林にさえ辿りつけねぇぞ」
言葉通りゾロのことなど本当はどうでもいいらしい。くるりと背を向けたサンジは、木戸を簡単に開けるとさっさと外に出て行ってしまう。
本来らな、あっさり開くような木戸ではない。木戸番に交渉でもして、鍵を開けてもらっているのかもしれない。
だとしたらさっさと自分も通り過ぎるほうが得策だ。
何が目的なのか知らないが、確かにこのままだと朝になってもコニスの家に辿り着けそうもない。
ゾロはサンジを見習って、さっさと木戸をくぐることにして、あっさりと辻の外へと身を翻した。
木戸をくぐると少し先でサンジが足を止めてこちらを見ていた。どうやら本気で案内をするつもりらしい。
歩き出したゾロの歩幅を計りつつ、サンジも歩き出す。人家が少なくなっていく道は、木々が密集する場所へと続き、地面に月の木陰を濃く埋め込んでいる。
暗くなっていく一方の道に、しかし二人の足取りはまったく変わることなく、進んでいく。
どのくらい歩いていただろう、ふと響いている足音が変わってきた。
一際強い風が吹き、大きく周囲の空気かがしなる。
ざわりと空間自体が唸りを上げた。影が大きく揺れ動き、ついで何かの音が静かに響いてくる。
視界が変化したのを感じて、サンジは足を止めた。ゾロも動きを止めて空を仰いでいる。
雪だ。
一瞬サンジはそう思った。そうして、目を細める。思わず声が漏れた。
「…ああ…」
呻きに近いそれは、感嘆も含んでいた。
「…雪かと思った…」
そう思うのも無理はない。
生い茂る葉の隙間から漏れる月光を反射して、白いものが無数に舞い落ちている。
細長い白いもの。さらさらさらと耳を打つ静かな葉ずれの囁き。
「竹の秋だ」
不意に明確なゾロの声が響き、サンジの背がゾクリと震えた。
思わずゾロを振り返ったサンジをゾロは空から視線を戻し、見据えた。
「年中葉を絶やさない竹は、今時分に白くなって葉を落とすからな」
「竹の秋…風雅な言葉を知ってるじゃねぇか。似合わねぇ」
掠れたような声で、それでも悪態をつく板前にゾロは何も言わず、周囲を見回した。
「ここがあの小娘の?」
「小娘言うな! そう、ここら辺りから一帯がコニスちゃんの竹林さ」
ゾロはふん、と軽く頷き、さっさと歩き出す。真っ先に歩き出そうとして、道ではない部分に足を入れようとする。
「ちょっ、待てよ! どこ行くんだ! なんかあんのかそっちに! 意味があるのかそっちに!」
「あ? こっちじゃねえのか?」
「……どこまで方向音痴なんだ…坊主…。コニスちゃん家に行くなら、こっちだアホめ」
「んだと!?」
今までの静けさが嘘のように怒鳴りあいながら、進み出した二人の間をまったく頓着せず、白い落ち葉の間を進み出した。
意外に早く、コニスの家は現れた。
一応竹林の入り口にこぢんまりと建ち、立ち入る人を見ているのだろう。
竹林とはいいながら、歩いてきた範囲は平地だったが、コニスの家の背後は山手だ。ゆるやかな勾配の向こうから先は、山肌を縫うように竹林が広がっているのだという。
真っ暗なだけに何も見えないのだが、サンジはそう説明してコニスの家の玄関の戸板を開けた。
当然のように家の中に入ろうとするのを肩を掴んで止め、ゾロはサンジへと一歩踏み出す。軽く仰け反った板前を、ゾロはきつい目線で見下ろした。
「なんでお前はここにいる」
サンジはゾロの手を肩の一回しで振り払い、襟元を正すと妙に静かにゾロをみやった。
「お前が何をするのか、見る為さ。ここにいるのは三日なんだろ? なら、その間の食に関してはおれが全面に見てやるよ。けど…お前が何かする時はついて行かせろ。邪魔はしねぇ」
「いるだけで邪魔だ」
「それはねえだろう。おれが居ようと居まいと、お前には関係ないんじゃねぇのか? それともおれ一人がいるくらいで、何もできないとか言うんじゃねえだろうな?」
思い切り挑発して、サンジはゾロを睨みつける。
それは、既にここにいることを決定事項としている覚悟のようにも思えて、ゾロは目を細めた。
「お前…何を知ってる?」
ゾロの言葉に、サンジが一瞬身震いした。それは触れ合う程近くにいるからこそ分かった程度の、本当に微かな震えだった。だが、それで確信した。
この板前は何かを知っているからこそ、ここに来たのだ。
「…おれもそれを知りたい。それを知る為に、おれもここに来ることにしたんだ。見させてもらう、お前がなんと言おうと、おれはここにいてお前が何をするのか見届ける」
ザッと風が吹き抜けた。
一瞬強く吹き荒れたそれに、しなった竹が月明かりを弾く。蒼い光に、板前の金色の髪が一際白く光りを弾き、肌を蒼く染め上げた。
決意を込めた男のしなやかな姿が、一瞬のうちにゾロの脳裏に刻み込まれる。
そういえば、ゾロはこの男のことをよく知らない。麦わらの親分が親しく通っている店の板前で、美味い飯を作り、乱暴で足癖が悪く、女性にとことんだらしない、煙草狂いの男。
だが、時折この男は不思議な表情で自分を見ている時があった。それを問うても、きちんとした答えが返ったことはなかったが。
「おれに、それは必要なことなんだよ。だから黙っておれを傍に置いとけ」
ふてぶてしく、しかしこちらに食い込むかのように言い募る板前をしばし見つめ、ゾロは視線を外した。
「邪魔はするな」
「…ああ」
「なら、好きにしろ」
「………ああ」
諦めたようにも思えるその声の響きを残し、サンジはあっさりと家に入っていく。
今は誰もいないコニスの家は、ただただ夜と山の気配に包まれて、一際静かに二人の男を迎え入れた。
まるっと切ってしまう予定の場面でした。せっかくなので詳しく書いてみました。ら、中編になりました…orz
(2012.3.10)
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