遠くて近い現実
[27]





 どうやって仕事をこなしたのか、記憶はない。
 ただミスをせずに今日の仕事が終わったのは、半分奇跡に近い。そのくらいサンジは自分が動揺していたことを自覚していた。
 いつも通りだったから誰も声をかけなかったのか、それともあまりにも変だったからそっとしてくてれいたのか。
 とにかくなんの問題もなく、片付けまで終えたと同時に飛び出してここまできた。
 だが、いつもよりも重く大きく見える扉を前にして、サンジはいきなり動きを止めた。
 開けて何を言おうとしているのだろうか。いや、そもそも…ここを開けて自分は何を問いただそうとしているのだろう。
 扉の向こうにはゼフがいる。
 きっとゼフは自分を待っている。それは確信だった。考えてみれば、いつだってゼフは自分が困惑したり悩んだり迷ったりしている時には、自分から口を挟むことはせずにサンジがやってくるのを待っていた。
 迷いを打ち明けてくればそうとは到底思えないながらも、結局は助言をしてくれて。相談しなければ、どう解決するかを見守っていた。
 今なら分かる。
 それは多分大人の対応、と人が呼ぶものだろう。けれど、それをするには、する方にも強さや忍耐がいる。それに気付いたのも、随分と後になってからだったのを、何故かここにきてふと思い出した。
 ドアはいつでも自分を待っていてくれる。
 それが実はサンジの根底に、大きな安定として居座り、自分を形作る一つになっていた。
 もやもやとした不満なのか不安なのか、それとも焦りなのか。今一自分でも受け入れかねない程に大きな何かに急かされてここまできたが、では、ここを開けて自分はどうしたいというのだろうか。
 文句を言う。
 ……何に対してだ?
 何を隠してるのかを聞き出す。
 ……後で話をするとゾロが自分から言っていたのに?
 そもそも、いつから自分をそっちのけで、二人の間に通じる話が進んでいたのかを問い詰める。
 ……問い詰めて、だからどうしようと言うのか。
 ぐるぐると思考は堂々巡りを果たし、まったく先に進まない。
 自分が何をどう思っているのか、それすら考えが纏まらない。けれど、今、この苛立ちにも似たことを放り出して、憂さ晴らしに出るのだけは嫌だった。
 憂さ晴らしなんかしても、この問題は解決しない。それどころか、多分自分はもっと深みに嵌って恐ろしい決定的な間違いをしでかしそうだ。
 多分、これまでと同じように。
 いつの間にかドアにもたれ掛かるように、サンジは額を押し付けていた。冷たい無機質な固さが妙に冷静に自分の思考を浮かび上がらせる。
 ずっと、目を逸らせてきた何かがある。
 分かっているのに、それが何なのか、分からない。そう、要は自分が分からないのだ。
 いったい、何がこんなに自分を打ちのめしているのだろう。
 ゾロが自分に黙ってゼフとだけ通じる何かを進めていたから?
 ゾロが自分に秘密を作っていたから?
 ゾロのワガママに気付かなかったから?
 ゾロが     遠く感じたから?
 何故ゾロが遠く感じたからといって、自分がこうまで動揺するのだ。
 そこまで考えて、けれど、と目を閉じる。
 こんなに近くにいるのに、ゾロを遠く感じることは今までも沢山あった。
 その度に、確かに自分は寂しく感じていたし、絶対にもっと懐かせてやるといったような気合いを込めていたりもしていた。
 一見それは功を奏していたし、それでわかり合えたりもしていたはずだ。
 では、どこでそれを間違ったのだろう。正確に言えば、どこで掛け違えた。
 ふとサンジは目を見開いた。
 そんな疑問を自分はもうここ数年、何度も何度も繰り返していたはずだ。
「あ?」
 なのに、1度も。これまでまったく、それを正す答えを導いたことがない。
「え?」
 何故だ。
 何故自分は、こうまでゾロとの答えを出さずに誤魔化すようにしてここまで来てしまったのか。
 一番初めはいつだったか。もう思い出すのすら遠いのに、それはわずか四年前でしかない。口にすれば、たったそれだけの。片手で数えられるくらいの年数しかゾロとは一緒にいない。
 なのに何故こうも、あのいくつも年下の子供のことが頭から離れないのか。
 また散逸しようとする思考を、無理矢理本題へと持っていく。
 いつだ、いつ、自分は最初にゾロに戸惑いを持った。
 一緒に生活し始めて、最初の頃の距離感を計っている時ではない。ゾロが実は恐ろしい方向音痴だということに気付いた時でもない、あれはただ面白かっただけだ。
 そうではなくて……。
 いきなり真っ赤なイメージが脳裏を舞った。
 小さな躰から、思いもかけない赤が散り、それなのに異様に満足気なまるで猛獣の子供が楽しくて楽しくてたまらない、といった風に口元を引き上げて笑う顔が浮かび上がる。
 してやったり、と今にも飛び跳ねそうなくせに、その嗤いは獰猛にすぎた。なのに酷く満足そうで。
 とにかく目が離せなかった。
『選べるなら、選ぶぜ』
 そう高らかに満足そうに言った声は、今のゾロの声とは違う、もっと甲高かった。
『ははっ! すっとした!』
 あんな楽しそうな声は、忘れられない。
 子供特有のものではなかった。あれはもう、そんな代物ではない。あれこそが、きっとゾロの本質で、自分はそれに……。
       それに何だというのだろう。
 分からない。
 何がって自分がまったく分からない。あの出来事は本当に自分に大きな楔を入れたんだなと、それは理解できる。
 だが、それが今にどう繋がっているというのか。
 そもそもそこから自分は何かを間違っていたのか? あんなチビすけ相手に、一体何を間違うというのか。
「うおぉおおおおおおっ!」
 頭を抱えて蹲ってしまったサンジは、さらにその場に転がりそうになるのを必死で押さえつけた。
 違う、そんなことを考えているのではなくて。そもそもゾロが自分に黙って、何かを進めているということが問題のはずで。
 いや、だからそれはもっと前に問題があるんじゃないかということで…。
 堂々巡りとはこのことだ。
 いや、逃げているわけではなく!
 頭を上げようと息を呑んだ瞬間、思い切り開かれた扉に躰ごと打ちのめされ、本当にゴロゴロと転がされた。
「…いい加減にしやがれ、チビナス!」
 大きく息を吸って、したたかに打ちのめされた躰から衝撃を逃がすようにゆっくりと吐き出す。そうして、自分に一つ気合いを入れてサンジは顔を上げた。
「ジジィ!」
「いつまで経っても入ってこようともせず、かと思えば人の部屋の前で呻きまくって、何がしてぇんだテメェは…」
 一言もないとはこのことだ。
 無言で睨み付けるサンジを小馬鹿にしたように見下ろし、ゼフは大きくふんぞり返って腕を組んだ。
「で、どうするんだ? 入るのか? 入らねぇのか?」
 視線で部屋の中を指し示すゼフに、サンジは口をつぐんだ。そこからもう試されている気がする。
「入るのはいいが、今日はちゃんと帰るぜ」
 ようようそう言うと、当たり前だとゼフが鼻で笑う。
「お前を泊める部屋はここにはねぇよ。特に今夜はな」
 一つはクリアしたらしい。とサンジはほっと息をついた。そうだ、今日はきちんと帰らなくてはならない。あのゾロがいる家に。
 ゆっくりと立ち上がり、躰をはたくとゼフがじっと自分を見ていることに気付いた。まるで観察するような視線は、仕事中に向けられるものとも違い、不思議な感じがする。
 そういえば遠い昔、時折そんな視線を受けた記憶があったが、あれはいつぐらいの時だったろう。
 多分、学生の時だったような気がする。
「んだよ」
「テメェ、今身長はどのくらいだ?」
「は? あー…一七七だけどよ」
 それが何だと返せば、軽く肩を竦めて答えない。なんだよとムキになれば、またすかされそうで黙ってサンジは口をつぐんだ。
「お前に余裕がねぇのは、ようっく分かった。なんでそこまでお前が余裕がねぇのか、それは分からないがな」
「は?」
 思わず目をむいたサンジを無視し、ゼフは扉に寄りかかるようにしてサンジをねめつけた。
「おれの方がお前に聞きたいことが山とあるんだ、答えろ、チビナス」
 有無を言わせないそれに、サンジの目も険悪に細まる。
「おれだって聞きたいことが山とあるんだよ!」
「ふん、おれがそれに答えると思うか? あの小僧が言わないことを、おれから言うつもりはねぇぞ」
 分かっていただけにぐっと詰まったサンジを睨み下ろし、ゼフは溜息をついた。
「そこまで甘えるな」
「んだと!?」
「あれは甘えねぇ。腹が立つくらいにな。…いや、もしかしたら、それこそが甘えなのかもしれねぇが…」
 お前に分かるわけがない。そう言いたげに、重くゼフは盛大なため息をついた。
「…んだよ、それは…」
「本当に分からないのか? だとしたら、お前はバカだぞ。いや、バカというより、あの小僧よりガキだとしか言えなくなる」
 黙り込んで睨み付けるサンジを見ながらも、ゼフはどこか遠くを見るような顔つきをみせた。
「あの小僧が来てから、何年だ?」
「四年だ。出逢った時を入れたら五年」
 先程まで考えていたことだからこそ、スラスラと答えられた。
 薄汚い大人達の前に座っていた小さな躰は、背筋を伸ばしどこまでも凜としていた。そんなの幻想だと言われるかもしれないが、確かにあの場でゾロ一人が、しっかりと存在していたのは本当のことだ。
「そうしたらこの四年の間、あの小僧をお前はずっと面倒を見てきたことになる。前にも同じことを聞いた覚えがあるんだがな。お前はあいつをどう思ってるんだ?」
「はあ!?」
「あの小僧をどうしたいと思ってる?」
「あああ!? なんの話だそりゃ!?」
 大声に耳を背け、目を眇めながらゼフはやれやれと大げさに息を吐く。
「言ったな、おれは前にも同じ質問をお前にしたぞ。あの時、お前は何も答えられなかった。でも、あいつの為ならなんでもしてやると、大見得切って叫びやがったよな。覚えているか?」
 覚えていた。忘れるわけがない。
 頷きながら、けれどサンジはいつからかそれを忘れようとしていた気がするのに気付いた。
 あの時の憤りのまま、外に飛び出してウソップと久しぶりに呑みに行き、そこで昔の仲間と再会し始めた。それは暫く忘れていた楽しい時間の連続で、ゾロも巻き込んで、もっともっと世界を広げてきたはずだ。
 だからもう大丈夫だと、ゾロは一人ではなく、もう哀しくもなく、皆と一緒で…だからもう大丈夫なんだと。
 そう…。
「それであれからお前は何をした?」
 何をしたのだろうか?
「あいつが何を考えてるか、知ろうとしたか?」
 はっとしたように目を見開いたサンジに、ゼフはいっそ優しいと思える程の眼差しで首を振ってみせた。
「あいつはな、おれには何も言ってきてねぇ」
 声にならずに、けれど呆けたような表情でサンジは疑問を現した。
「じゃあ今日のはなんだと言いたいんだろうがな、あれはおれがあちこちに手回しして、聞き出してきたことの一つだ。もう一つはな、あいつは中学生だってことだ」
 呆然と聞くサンジに、ゼフは躰を起こした。そうしてあらぬ方向を見た。きっとゾロが今いるであろう家の方を。
「中学生には、保護者への説明会やらなんやらあるからな、それに行くことでおれが知っていたことに過ぎない。それすら、あいつは申し訳なさそうだったな、仕事あるのにすまんとか言ったから、蹴り飛ばした」
 それはさぞかし強烈な蹴りだったことだろう。
 サンジにするように、ゾロはゼフにも同じ気遣いをしていたというのだろうか。それはあまりにも他人行儀にすぎる。
 自分の思考に、ギクリとサンジは硬直した。
 そうだ、他人行儀にすぎるのだ。
 そんなサンジに気付いたのか、ゼフはどこか哀しげな影を見せて頷いた。
「四年たっても、あいつは一人でしかいられねぇのかと、悔しかったがな」
 ビシリと何がが心の中にヒビを入れたのを感じた。
「どうしてああも頑なに一人なのか。だからこそ、あいつはガキなんだとわかっちゃいても、な。あの頑固者を変えるのは至難の技なんだろうが。それにしても、あいつの目の行き先は狭すぎる。こうと思ったらそれ一筋のバカだ。しかも意志強固ときた日には、救えねぇ」
 傍には自分達がいたというのに。ここ一年近くは、ウソップやルフィ達とも知り合って、もっと楽しくバカ騒ぎをしたりもしていたというのに。
「…お前はどうしたい。どうする? それが答えられるようになってから、おれの所には来い。それまでは、お前はここの出入りは禁止だ」
 ギリっと口の端を噛みしめ、サンジはゼフを睨み付けた。
「もとよりそのつもりだ、この腐れジジイ! あいつは一人じゃねぇんだ!」
 それだけは確かなのだ。
 ただ、それを本人が知らないだけで。こうまでサンジがゾロのことを思っていることを、きっとゾロは気付いていない。
 目を背けてはいられない。何故だか分からないが、焦るようにサンジは言い聞かせた。
 自分からもゾロからも、これからは目を背けずに向かい合わなくては、間に合わなくなる気がする。


 急いで踵を返したサンジは、見送るゼフを背後に走り出した。
 走りながら、急いで取り出した携帯で、慣れた番号を押す。もう遅いが、この電話なら直通のはずだ。
 今一番聞かなくてはならない答えを、多分、一番最初に教えてくれたのはきっと彼女だ。
 数回のコールに涼やかな声が響いたのに、サンジは踊る心臓を押さえつけて慎重に話だした。
「あ、ビビちゃん! ごめん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど!」
 そんなサンジの受話器越し、電話の奥の声が一瞬驚いたように止まった。
 





2011.01.15

新年1発目がグルグルサンジですみません…orz



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