遠くて近い現実
[28]





「…うん…え? ああ…そうかな…そういや、そんなこともあったっけ」
 ぼそぼそと話ながら、サンジはいつの間にか生ぬるくなっていた風を感じながら、ブロック塀に寄りかかったまま空を仰いだ。
 もう何十分もこうして呟くように声を出しては、向かいの家の灯りや空を見上げている。
 夜の住宅街の片隅に立ちつくしていても、まったく寒さを感じない。それよりも、風がなければ蒸し暑いと思っていたかもしれない。6月も後半、季節は夏へと移行していこうとしていたのだろう。
 どうりで、空がどこか赤黒い。湿気と大気の熱が空までもを淀ませるのだ。
 自宅までは、あと数百メートル。その距離を今は帰れずにいる。
 電話の奥の声は、心配そうな色を滲ませながらも優しく滑らかな声で話しかけてきていた。
 最初は。
 そう思いながら、サンジは溜息を押し殺す。
 勢いこんで電話をしてみたものの、何をどう問えば聞きたい質問になるのかさえ分からなかった。
 教えて欲しいことがあると言いながら、いいあぐねていた自分に懇切丁寧に筋道を聞いてきたのは、電話の主ビビの方だ。
 順を追って話をしていくついでに、なんだかいらないことまで話してしまった気もしたが、それには目をつぶることにする。このもやもやの一端だけでも、きちんと形をつけなければゾロとどう顔を合わせればいいかも分からない。
 けれど、ビビからの問いや返される答えは、一つ一つがサンジには苦く痛い思いしか湧き上がらせなかった。
『…サンジさんにとって、Mrブシドーってどういう存在なんです?』
 一番最初に問われたのは、それだ。
 答えられずにいたら、ビビはすぐに何故そんな電話をしてきたのか、とそちらの方に話をもっていってくれた。
 正直に、きっと一番最初にゾロのことを教えてくれたのは君だから、と答えれば、ビビにも思い当たることがあったようで、それからはすんなりと話が進んでいった。
『前にも言ったと思うんですけど、サンジさん。Mrブシドーは何か勘違いをしているような気がするんです』
 その言葉は確かに何度も聞いた記憶がある。
 理由を話しして一周して、やっと本題に入ったと感じて、サンジは少し身じろいだ。
『分からないフリをしているんじゃないかって、ナミさんは前に言っていたことがあるんですけど…もしかしてサンジさん、自分で自分に理解できないフリをし続けているんじゃないですか?』
 そんなつもりは毛頭ない。ただ、自分はゾロを…。
 何も言葉が浮かばない。それに自分でショックを受けている。どうしてこうも、自分はゾロのことを考えると混乱してまうのだろう。何かから、必死で目を背けているように。
 そのくせ、そのままではたまらない気分になるのは…何故なのか。
 やはり疑問だけが、サンジを埋め尽くして思考が追いつかない。
『覚えてますか? 私が一番最初にMrブシドーと会ったのは、卒展の時だったんですよ。あのとき、初めてMrブシドーを見て、びっくりしたんです』
「…そう? あいつ無愛想だしなぁ、ビビちゃんがびっくりするのも当然かも」
『いいえ、そういうのではなくて…雰囲気がある子だなぁ、とは確かに思ったんですけど。Mrブシドーってもの凄く真っ直ぐこちらを見てくるでしょう? 怖いと思う前に、なんだか凄いなって驚いたんです』
「凄い?」
『ええ、だって、人の目をまるで切り込むみたいに見つめてきて逸らそうともしないんですもの。それって相手にとても強い印象を与えるけれども、自分にも取り込む形になるでしょう。だから強い子なんだなぁ、ってそう思ったんです。それに、サンジさんがMrブシドーを蹴ってるの、見てしまってたし。妙に納得というか、やっぱり驚いて』
 笑い声が幽かに言葉に混じる。その時を思い出してみれば、サンジも苦笑しかでない。
 たった二年ほど前のことだというのに、妙に遠い気がする。
『あの時、サンジさんMrブシドーにコースマナーを教えてたじゃないですか』
「…ああ…あの時だっけ、たたき込んだの」
『Mrブシドーは一生懸命覚えようとしてたでしょう? この間ナミさんが言ってましたけど、とても綺麗に今は食事するみたいですね』
 それは昨年ナミと二人で食事をした時のことだろう。自然と口元が綻んで、サンジは電話越しだというのに頷いた。
『でも、あの時、きっとMrブシドーはサンジさんの為に食事をマスターしたんだと思います』
 咄嗟に声が出なかった。
 沈黙を何ととったのか、ビビも少しだけ間を明け、そっと囁くように告げた。
『あの時、サンジさんがどう言ったのかは正確には覚えていないんですけど、サンジさんがMrブシドーの為に言っていたってことは、私にはきちんと分かったんです。だから、サンジさんが本当にMrブシドーのことを大切に育ててるんだなぁって、そう思ったんですけど…多分、あの時、Mrブシドーはそうは受け取ってはいなかったような気がするんです。……ああ、なんて…なんて言ったかしら…ええっと…』
「…それ…どういう…」
 掠れた声に自分で驚いた。ビビは少し沈黙し、いたわるような声で続けた。
『Mrブシドーはきっと、真っ直ぐ過ぎるんでしょうね。人の言葉に裏があるとか、事情があるとか、そんなことはきっとまったく目に入らないんじゃないかな。時々そんな風に感じることが何度かあったんです。でも、サンジさん、照れ屋さんだから…』
 いや、照れ屋さんって。
 いつもなら「そんな風に思ってもらえて幸せだーっ♪」と踊り出しそうになるのに、今は声一つ出てくれようとしない。
 それよりも思い返しもできない過去の自分に蹴りをおくりたくなった。自分はあの時何を言ったのだ。
『Mrブシドーは、もうちょっとお勉強が必要ですよね。隠れた言葉ってあるってこととか、人には建前とか、正論だけが全てではないってこととか。どういう人かっていう見極めが甘いというか。まあ、まだ…中学生ですもんね。あの頃の私達だって、そういえばMrブシドーみたいだった気もします』
 そうだっただろうか。あの頃は…料理をしていたことか、ひたすら皆と一緒にいたことしか記憶がない。
 鬱屈していた記憶は料理に関することが大半で、無理も無茶もなんでもやっていた。ゼフに言われたことは反抗し、格好悪いことは嫌いで、こっそり煙草の味なんぞを覚えようとしたのもあの頃だ。
『Mrブシドーのことを思ってサンジさんが言った言葉は、本当にきちんと正しくサンジさんが思ってるように伝わってたのかしら? そう思ったことが何度かあって。多分、その一番最初が、卒展の時だったんです』
 出会ってすぐの時に、ビビにはゾロのその様子が分かったというのだろうか。
 胸にチリっと湧いたのは、痛いようなどこか怒りに近いような奇妙なうずきだった。だが、それに構う暇もなく、サンジはビビの声に耳をそばだてた。
 聞きたくはない、けれど、今ビビの言葉を聞かなかったら、本当に取り返しが……つかない。きっと。
『サンジさんがどう言ったかは、やっぱり思い出せないんですけど。あの時サンジさん、バラティエが家でコースもまともに食べられないって恥…みたいなこと言ったと思うんです』
 記憶はないが、言うだろうし、それは常々思っていたことだ。あいつが実家がバラティエですと告げて、マナーが悪くて他人からバカにされるのは勘弁ならない。バラティエが実家になったことは成り行きかもしれないが、そのせいでゾロが後ろ指さされるようなことがあるのは、絶対にダメだと思っていたのだ。
『多分、Mrブシドーはその言葉を、そのまま受け取ったんだと思ったんです。あの時』
「え? そのまま? だったら…」
 咄嗟にそう答えて、サンジは眉間に皺を寄せた。
『バラティエの恥になるから、マナーを覚えなくてはならないって。そう思ったんじゃないかって。そう勘違いしたんじゃないか…あの時、私そう思ったんです。うん、あの時は言葉にならなかったんですけど。そういうことだったんだわ』
 妙に納得したように言うビビとは対照的に、サンジは固まった。
 どういうことだ。何故そんな風に受け取ることになる? そんな意味で言った記憶はそれこそ欠片どころか、万に一つもないと断言できるというのに。
 なんとなく息苦しく感じたら、いつの間にか息をするのも忘れていたらしい。
 慌てて大きく息を吸い、無意味に辺りを見回す。誰も通らない道の片隅で、サンジは立っているのがやっとな気がして、壁に背を預けたままずるずると座り込んだ。そのまま呆然と空を見上げた。赤黒い空は、今の自分の気持ちのようだ。なにかドロドロと渦巻いて、なのにしっかりと封をしている。
 必死に遠くなっている記憶をかき集めてみようとしたが、いたずらに空転して何も思い浮かばない。そんな風に指摘されてしまえば、今まで言ったこと全て、何が通じて何が通じていなかったのか、分からなくなる。
『…大丈夫ですか? サンジさん? サンジさん?!』
「大丈夫だよ…ビビちゃん。なんかこう…ショックでさ」
『…サンジさんは、一度も、そんな風に感じたことはなかったんですか? Mrブシドーが勘違いしているような…そんな感じを』
「おれは………」
 食い違ってると、何度も思った。何かが間違ったまま進んでいるような、そんな気がしていた。
 あれがそうだったのだろうか? 
「なんか、食い違ってるような気がしたりは…したことあって…でもさ、ゾロはゾロのままで…別にどうってことないって感じでいて」
『Mrブシドーにとって、サンジさんってどんな存在なんでしょう。凄く大切な人なんだってことは分かるんです。だって、もの凄くサンジさんのこと見てるでしょう? 邪魔しないように、サンジさんが好きなことできるように』
 それは分かる。それだけははっきりと自覚している。ゾロはまるで…壊れる物を見ているかのように、自分を見ている。自分のことなどどうでもいい、それよりも自分の傍にいる者のことをずっと心配するように見ている気がしてならない。
 初めて、そのことに気付いた。
 ついでに、いかに自分がゾロを見ていなかったかということにもだ。
 あまりのことに愕然としすぎて、真っ白になった気がする。いったい自分は、今までゾロの何を見ていたのだろう。
 飯を食わせるだけでいいわけじゃないんだ、とゼフが何度も言っていた言葉が脳裏をぐるぐると回る。
 けれど、ではどうしろというのだろう。どうすれば良かったというのか。
 ゾロは…ただゾロでしかないというのに。
『ごめんなさい、私勝手なこと言ってますよね。私は直接Mrブシドーと一緒に暮らしているわけではないし、一番近くにいるのはサンジさんだもの。本当はそうじゃないことも、サンジさんにしか分からないことも沢山あるはずだっていうのに』
 力なく、サンジは首を振った。
「いや、そうじゃないよビビちゃん。お願いしたのはおれだし。…もの凄く参考になった…でもこう…今は…ごめん、おれの方がなんか…」
『ううん、それは当然だわ。そうだ、私だけじゃなくて、皆の意見もちゃんと聞いておいた方がいいと思う。ナミさんもウソップさんも、皆それぞれにMrブシドーと話したりもしてるし。それに心配もきっとしてる』
 心配させることが、サンジとゾロにあったということだろう。
『ちゃんと話しましょう? 顔を見て、それまでに私ももっと色々と思い出したり考えを纏めたりしておくし。大丈夫よ、サンジさん。Mrブシドーはサンジさんのこと、凄く大切にしてるもの。サンジさんが困るようなことなんて、絶対しないと…思うは…多分…』
 何故か最後だけは尻つぼみになったが、サンジは気付かない。
「…そう…だね。どうせまた近く皆で集まるし…その頃には、ゾロの奇行の意味も分かるはずだしな…」
『今は考えても無駄よ、きちんとMrブシドーが話をするって言ってるんだし。それからでないと、きっと進みようもないんじゃないかしら。だから! サンジさんは、今日は元気に! 早く家に帰ってあげて!』
「はい!」
 思わずそう答えて、背筋を伸ばす。
 明るい笑い声が耳許でさざめいて、それだけで落ち込んでいた気分が浮上するような気がした。
『そこ外でしょう? 季節外れに体調を崩すといけないし、Mrブシドーも心配するわ。もう…随分遅くなっちゃったし』
 慌てて時計を見れば、既に1時間近くがたっている。
「あああ、ごめん、ビビちゃんに余計な夜更かしさせてしまって!」
『何言ってるんですか、サンジさんってば。このくらいいつもじゃない』
 朗らかな声は、本当に慰めるようにサンジを癒す。気を使って、わざとそうしているのかもしれないと思えば、申し訳なくなってしまう。
 大きく深呼吸をして、サンジは一息に立ち上がった。
 なんだか今日はずっと座り込んでいたような、そんな気分だ。
「…もう戻るよ。家はすぐそこなんだ。ありがとうビビちゃん。本当に…凄く参考になった。悪いけど、またよろしくね」
 昔からの幼なじみ達には、こうやって素直に言葉にも気持ちを告げることもできるというのに。
『ええ、サンジさん、気に病んじゃ駄目ですよ。まだ何一つ確かな答えなんて出てないんだから』
「そうだね…うん、そうだ」
『今日はもう帰って、ゆっくり休んでくださいね。…おやすみなさい』
 優しい言葉だ。なんだか泣きそうになりながら、サンジも追随した。
「ああ…おやすみ…ビビちゃん」
 ゆっくりと立ち上がり、通話を切る。電池の残量はもう一つ程しか残っておらず、何故だかぼんやりと液晶の光が消えるまで携帯を見続けた。
 痛い。
 ゾロはいったい、自分と一緒に暮らしだしてから何を考えていたのだろうか。
 言いたい放題言っていた記憶がある、ゾロだって言いたい放題言っていたような気がしていた。喧嘩だって随分したし、その分仲直りだってしていた。
 でも、ゾロは本当に全て言いたい放題に言っていたのだろうか?
 学校のことも、道場のことも、あまりゾロは話をしない。そういえば、学校でどんな友達がいるのか、どんな授業をしていて、どんな風に遊んでいたのか…それも聞いたことがない。
 話をしている時間は確かに自分達にはなかった、とそうゼフにも告げたし、今でもそう思っている。けれど、本当にそうだっただろうか。バラティエでご飯を食べている時など、こちらから話を向ければ、ゾロは話をしたのではないか? いつもいつも、自分ばかりが話ししていたような気がして、サンジは俯いていくのを止められない。
 鉛でも詰まっているかのような重い足取りで、一歩一歩と自宅に向かって歩いてく。
 ゆっくりと歩いても、進んでいればいずれは家へと辿り着く。
 玄関にはいつものように灯りがともっていた。
 どこか温かいオレンジの光。そこにはゾロがいる。
 再度大きく息を繰り返し、両頬を力一杯叩いて気合いを入れた。ゾロに心配をかけることは、今更だができない。
 どうせもう寝ている時間だろうが、もし起きていたら顔をきちんと合わせることになる。そんな時、暗い表情など見せたら、また余計にややこしいことになりそうだ。
 心配かけるようなことになど、絶対にさせたくはない。
 ゾロはそんなことをせず、好きなことに邁進して行けばいいのだ。その為に自分は、いつでも手助けもなんでもするのだから。あいつの為なら、なんだってしてやりたい。
 ゼフにいつか叫んだ言葉は、そのままサンジの真実だ。
 それだけは…本当に混乱する思考の中で、唯一はっきりとしていることだった。
 ポケットから鍵を取り出し、施錠を外すとそっといつもの通りにドアを開ける。
「たでーま」
 告げたと同時だった。
「遅ぇっっ!!」
 悲鳴のような声が響き、驚いたサンジが顔を上げれば、廊下の先から腰に腕を巻き付けられ、太ももにかじりつかれた姿でルフィを引きずったゾロが疲労困憊といった様子でぶっ倒れたところだった。







2011.2.28

混乱に拍車。あとは私の意地で2月中の更新…。



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