遠くて近い現実
[29]





 夜中の台所から、恐ろしく腹に響く良い匂いが充満している。
 耳に心地よい炒め物の音がさらに食欲を刺激してきて、ぐったりとテーブルに突っ伏していたゾロが片手を挙げた。
「…わりぃ…おれにもくれ…」
「アホ、もとよりそのつもりで用意してるに決まってっだろう」
 あっさりとサンジが返すと、すかさず
「えー!? おれのじゃないのかよっ!!」
 と不満たらたらな声が上がったが、サンジの一睨みで目線を外した。
 何故か今、ルフィは細目のロープで縛り上げられ、椅子に強制的に座らせられている。この家にそんなものがあったことにも驚いたが、実は小さな頃から食い意地の汚いルフィから食材を守る為に、用意されていたものらしい。
 つまり、何度もこんなことがあったということか。
 実際に使われていたということの方に驚きを感じるが、さもありなんと思わせるのもどういうことだろう。
 サンジが家に戻ったのを出迎えたゾロは、ルフィに巻き付かれ、さらにかじり付かれていた。
 どうやら腹を空かせてサンジ宅に来たはいいが、サンジはいない。何か食べる物をとねだるルフィに最初は用意されていたおやつなどを出したらしいのだが、本格的に腹を空かせていたルフィにそれは焼け石に水。
 食べ物を漁るルフィを止めようとして、そのまま長い長いプロレスもどきの大喧嘩なのかじゃれ合いなのか…をしていたというワケだ。いったい何時間やっていたのか感覚すら怪しい。
 柄にもなく疲労困憊してしまったのは、ルフィと真っ向勝負をしたからだろう。
 実は仲間内ではルフィの底なしの体力は当然の認識だったので、かえって誰もそれをゾロには教えなかったのだ。ゾロの認識不足は仕方ない。
 さすがはルフィ、あなどれねぇ。
 しみじみそう実感する。結局自ら体験して、その事実を知るハメになったが、それはそれで面白かったので良し。
 そう思っている横でルフィが上機嫌なのは、気に入った人間が自分と真正面からぶつかっても倒れない体力の持ち主だと知って、嬉しい上に暴れまくってすっきりもしたからなのだが、さすがにそこまではゾロには判らない。
 料理が出てくることに喜んでいるのだろうと、ちらっとゾロがルフィを見れば、ルフィはにししと笑ってゾロの視線を受け止めた。
 思わず、ゾロも笑ってようやく顔を上げた。
 ゾロがそんな目にあっているなどとは、きっと想像すらしなかったのだろう。サンジはドアを開けたままの姿で一瞬動きを止めて呆然とし、はっと気付いて思い切りルフィを蹴り飛ばした。そうして倒れたルフィをゾロに押さえつけさせて、急いで取ってきた紐で縛り付けて今に至る。
 そんな状態でも腹減った腹減った腹減りすぎた! というルフィの攻撃は凄まじく、結局折れたサンジが台所に立って夜食を作っているのだから大概サンジもルフィには甘い。
 いつでもどこでも腹減った攻撃はサンジには大有効だということなのだろう。
 そういえば、ルフィを縛り付けて改めて冷蔵庫を見たサンジは、やや感心したようにゾロを褒めた。
 どうやら中身が食い尽くされていなかったことに、感銘を受けたらしい。そんなことで感心するとは、やはりルフィの日頃の行いの凄さなのだろうか。
 台所に立ったらいつもの様にどこか楽しげに作業をするサンジを視界に収め、なんとなくホッとした。
 変な話だが、ルフィがいてくれてよかったのかもしれない。
 まだもう少し、ゾロは自分が混乱していることを自覚していた。サンジを見て、余計うろたえていることに気付いたのだから、情け無い。それ程、昼間の出来事は強烈だったのだ。
 ショックだったとしか言いようがない。一瞬目が本気でくらんで、立っているのか座っているのか、そんなことも判らなくなったくらいだ。
 サンジがナミと付き合っている。
 一晩泊まって来るくらいなんだから、きっとそうなのだろう。
 それがここまで自分を打ちのめすとは、正直思ってもみなかったゾロだった。
 判っていたつもりだった。理解もしていたつもりだった。自分の気持ちだって、判っていて、それでいいと理解していたはずだった。
 サンジはナミが大好きだ。ナミだってサンジを大切にしている。
 知っていたのに、決定的な事実を目の前にしたら、やっぱりショックだったとは、いかに自分が甘いのか。
 覚悟している、なんて格好良く言ってみても、結局はなんの覚悟もなかったということだろう。
 苦笑すら出ない。当然のことを目の前にして、身動きが取れないくらい困惑している自分はどこまでバカなのだろうか。
 大切な人が幸せでいるのなら、喜んでやってもいいはずなのに。
 それくらいもできないとは、なんと自分は小さいのか。
 子供子供と言われても、反論すらできやしない。
 溜息をつきたくなったが、それもどうかとぐっと押しとどめ、背後を見る。
 リビングは、結構な散乱ぶりだった。ずっとルフィと二人で暴れていたのだから当然だろう。片づけが大変だろうが、まあ仕方ない。なんだかんだいって、ルフィと暴れるのは楽しかった。
 もやもやしていた気分を一気に吹き飛ばしてくれたし、躰を動かしていたら時間を忘れていた。
 さすがにここまで長時間暴れるとは、思ってもみなかったけれども。
 ついさっきまでのことを思い出せば、それだけで頑なになる口元が緩む。
 今までだって、時々サンジと暴れることもあった。が、その時よりも加減も容赦もなかったのは本当だ。それがかえって楽しかったのだから、ぐちゃぐちゃになった部屋を自分が片づけるのは当然だろう。大きく物を壊さなかったことだけは、我ながら偉いと思える。
「よっ、と」
 小さなかけ声に視線をつい戻せば、恐ろしく手早く、料理を仕上げるサンジがいる。最後とばかりにフライパンを大きく振ると、重量のある中身が小気味良く踊る。
 鮮やかとしか言いようのない手際でサンジは焼きうどんを用意していた二つの大皿に盛った。そういえば冷凍のうどん玉が全部無事だったのは、ゾロも確認済みだった。
 とにかくまずは腹持ちのしそうなもので、ルフィを誤魔化すつもりだろう。正しい判断だ。
 箸と一緒に一皿をゾロの前に置き、それからよだれを垂らさんばかりにしているルフィを睨み、もう一皿を手に仁王立ちになる。
 まるで犬を躾けようとしている調教師のようだ。思わずそんな想像をして、ゾロは苦笑しそうになる口元を引き締めた。
「言うことがあるだろ、ルフィ」
 厳しい問いに、しかし元気よくルフィは答える。
「おう! いただきます!」
「違うわっ! ゾロにだ!」
「えー? あ、遊んでくれてありがとな! ゾロ! 食え!」
「お前がいうのかよ!」
 思わずゾロが突っ込むと、ニシシとやっぱり楽しそうにルフィが笑う。それを横目に、ゾロは呆れたように目を見開き、ふっと笑った。なんだかもう、それだけで何もかもが仕方ないかと思えるのだからルフィは凄い。
 思い出せば辛いことを、見事にルフィは忘れさせてくれる。その存在が有り難かった。楽しそうに笑いながら、ゾロは目の前の皿を引き寄せる。
 だからといって、腹が減っているのはお互い様だ。
「あ、ずるいぞゾロ! おれにもくれ!」
 あーんと大口を開けるルフィに、ゾロは軽く腕を回して皿を遠ざけた。
「これはおれのだ、お前はお前の分を食べろよ」
 大口を開けて、わざとルフィの前で焼きうどんを食べてみせる。さっきのじゃれ合いの続きみたいなものだ。
 えーっ! と喚くルフィにさらに楽しそうに笑い、ゾロはサンジを見た。その目が、もう許してやってやれと、語らずとも告げている。
 ぎりっとサンジが苦い顔を見せた。甘いと思われたのかもしれない。まあ当然だろう、そこからは背後の散らかり放題の部屋も丸見えだ。
 けれど、それとは別に少し顔色が悪い気もして、なんとなくゾロはルフィを見るふりでサンジを見た。どこか苛ついたように、サンジはきつい眼差しでルフィを見ている。
 あんまりそんな表情で仲間を見ていた記憶がない。少しいぶかしげに思ったが、どうしてもルフィがちょっかいを出してくるので、きちんと見ることができない。
「くれ〜。おれにも一口〜」
 ルフィは椅子の上でドカドカと躰を跳ねさせ、とうとう飛び跳ねるようにゾロの傍に寄るとその躰に倒れてわざともたれかかってきた。
 顎でゾロの肩に顔をひっかけ、精一杯首を伸ばそうとぐりぐりと頭でゾロの頬を押しまくる。
 うおっ、と声を上げてゾロはずり下がりそうになったルフィを支え、肩からぶら下がるルフィを器用に遠ざけようとして躰をひねった。
「どんだけ食う気だ!」
 べったりとくっつくルフィに、とうとうゾロは吹き出した。いい加減にしろと言いながら、大笑いしながら皿を両手で持って遠ざけようとしている。
 振り落とせば一発なのに、それをしようともしない。いつの間にか、またじゃれ合うように二人で躰を押し合いへし合い、料理を廻って暴れだそうとしている。
 サンジとでさえ、こんな風にまとわりくようなじゃれ合いをした記憶はない。それがやっぱり楽しい。
「…あー、もうなんでもいい、ゾロの取るな! そらよ。食え食え」
 そうやってじゃれていると、どこか投げやりな妙に長いため息をついて、サンジがルフィの方に皿を置く。
 そうしてルフィの躰を無理矢理ゾロから引き離し、再びテーブルの前に強制的に座らせた。往生際悪く椅子の上でガタガタと躰を揺らすルフィの頭を軽くはたいて、ロープの結び目を解く。
 ほどけたと見えた瞬間、ルフィは速攻皿にかじりついた。
「お前皿は食べるなよ」
 思わずまたしても溜息まじりに呟けば、
「ふふへんふぁ」
 意味不明の返事がそれでも律儀に返ってくる。
「何言ってるのかわかんね」
 酷く面白そうにそれを見ていたゾロは、また笑った。こっちも食べているはずだが、ゾロは口に物を入れていてもやけに明瞭に喋る。
 変な所で器用な奴だと思いながら、サンジはまたシンクに向かった。どうせルフィには箸休めにもならない代物だ。早く次ぎを作ってやらなくては、また暴れ出す。
「……ルフィ、お前それ喰ったら戻れよ、一品でいいだろ」
 振り返ったサンジに気付かず、ゾロは食べるのを休み片肘をついてルフィを見た。
「んぐぅうっ!? まだ全然足りねぇぞ?」
「あほ、どんだけ喰う気だ。冷蔵庫の中のものは粗方食べたろ。それにもういい時間だしな、こいつだって今やっと帰ってきたんだぜ? さっさと寝かせてやれよ」
 さっきから、溜息が重い。ゾロはちらりとサンジへ視線を流し、青ざめた顔色にやっぱりと頷いた。
 遠い昔、あんな顔色でいた人は疲れていた。それだけは知っている。
「お、そうか。わりぃ、サンジ。…でもまだ腹減っ…」
 ほとんど一息に食べてしまう勢いの皿に、ゾロは自分の皿を寄せた。
「あー、おれの食え、もう食い尽くせ」
「おう! ありがとな」
 にっこり笑ってルフィはゾロの皿のものもあっさり引き寄せる。一皿二人前以上あったはずだが、それでもルフィには物足りないのかもしれない。
 わかっていても、それくらいしかゾロには出来ることはなかった。
 自分が料理することができれば、疲れて帰ってきたサンジを休ませることもできただろうが、こればかりは何を言っても仕方ない。
 出来ないものは出来ない。
 結局、とゾロはサンジを今度は真っ直ぐに見た。
 どんなに自分がショックを受けていようとも、それは自分だけのことなのだ。それに気を取られて、大事な人がまた疲れて倒れるようなことがあったら、今度こそゾロは万死に値する。
 そんなことだけは、例え何があっても絶対にさせたくはない。そこまで弱くはありたくない。
 ふと、ゾロは唐突に理解した。
 結局全部、自分の為なのだ。…なんてワガママなガキか。
 例えそれが事実だとしても、とにかくサンジだけは疲れさせたくはない。それだけは絶対だ。
 ふと、サンジと目が合った。
 大丈夫なのかと、じっと見ると、一瞬視線が揺れた。そうして、どこか痛い物を見るようにわずかにその片目が、見開かれる。
 サンジの躰がぶるりと震えたのが分かった。小刻みな震えは、今までサンジからは見たこともないものだ。
「…大丈夫か? お前、今にも倒れそうだぞ?」
 慌てて立ち上がると、ガタンと椅子が立てる音が響いた。サンジが慌てて首を振ったが、それが嘘なのは見ていれば分かる。傍に寄ろうとしたゾロから、サンジが目を逸らした。
 胸元を忙しなく探り、煙草を引っ張り出すと急いで口に入れる。後はライターを取り出すと火をつけ、大きく吸い込む。
 ふうぅ、と大きく煙りを吐き出し、サンジは目を伏せたまま怠そうに囁いた。
「あー、なんもねぇよ。ヤニ切れだ。気にすんな」
 片眉をひょいと跳ね上げ、ゾロは少しだけサンジを深い目の色で見つめた。どこかいぶかしむようにも見つつも、頷くしかできない。本人がそう言うなら、そうなのかもしれない。けれど、鵜呑みにしていいものか。そういえば、サンジの顔はわずかに赤味を帯びている気がする。
 咄嗟に傍に寄って手を伸ばそうかとして、けれどゾロはまったく動けなかった。
 昼間は何気なく額に手を当てることもできたのに、今はしてよいものか分からない。いや、何よりも熱を測るなら、きちんと方法があったはずだ。
 くるりと踵を返して散らかったリビングへ行き、大急ぎで体温計を探してみる。幸い、リビングの棚の中は無事で、いつもの場所にそれはあった。
「熱計ってみろよ。お前顔赤いぞ? 風邪とか引いたんじゃねぇか?」
 一瞬間が空き、サンジは、え? と掌で己の頬を触った。そういえば、なんとなく顔がほてっているような感じがしないでもない。
「今フライパン煽ったからだよ! 多分! 大丈夫だって、気にするな!」
 何故か慌てて言うサンジに、ゾロは不思議そうに首を傾げた。本人の言うことを、やっぱり素直に聞いてこの場はいいのだろうか、と疑問に感じてさらにサンジを観察するように見てしまう。
 無言で見られると、そっちの方が恥ずかしいのかもしれない。サンジは、さらに顔を赤くして、ゾロから目線を外すと盛大に煙草をふかした。
 …本当に大丈夫なのだろうか。けれど、そうやって見ているのもなんとなく、罪悪感のようなものが湧いてしまう。己がいやしいことを自覚してしまうからかもしれない。
 ゾロは奇妙に静かな様子で一つ頷き、テーブルの端に体温計を置いた。このままここにいて、サンジの邪魔をする方が悪い気がする。
 黙ってリビングの方へ行けば、何故かルフィが皿を抱えてゾロについて来た。倒れていたソファを起こして元の位置に戻したゾロが座れば、そのゾロにもたれ掛かるようにしてソファに乗り上げ、また食べ始める。
「なんでお前までこっち来るんだよ、あっちで食べろよ」
「いいじゃねーか。お前あったかいんだよなぁ」
「体温高いらしいからな。けど今日は結構蒸し暑いだろ。くっつくと熱くねぇか?」
「まあな、けどこっちがいい」
 断言したルフィは、もたれたまま上目使いにゾロを見て、全開で笑った。
 ルフィの温もりが、躰をほっくりと包み込む気がして、ゾロはほうっと息をついた。どうしてだろう、ルフィの温もりが、妙に嬉しい。暑いはずなのに、温かい。
「…そうかよ」
 反射的にゾロもルフィにもたれ掛かった、ルフィもまた体重をかけてきて、上手くバランスが取れる。
 何故かそのまま、暫くじっとしている二人を、どこか呆然と台所のサンジが見入っていた。








2011.5.3
<改訂>2011.5.5

短くてすみません。予定していた所の半分しか書き切れてない…次回は長めに早めに上げます。
誤字脱字文章直しをいたしました。読みづらくてごめんなさいですー。少しはマシになったはず。



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