ほとんど食べ尽くした皿の上に落とされた箸が一膳。何も残さない皿は、いつも通りのゾロの食事風景を思い出させた。
食べたいものは、ちゃんと言うようにと躾けたから言う。
片づけろと言ったからする。自分を気遣ってか、色々と家のことも苦手そうなのに覚えようとしていたのも知っている。
怪我をして入院していた病院から退院した後、道場に行きたいといったのは、あれはワガママというより当然の要求だろう。なにせ出会った時には剣道を続ける為のことを口にしていたくらいだ。
他に、何かあいつは言ったことがあるだろうか?
いくら考えても思い出せない。
長期の休みにどこに行きたいと言ったこともない。興味のあることが異様に限定されているからか、ゾロの行動は驚くほど画一的だ。
ずずっと食後のお茶をすすりながら、ゾロはどこか楽しそうに厨房の方へと視線を飛ばしていた。
あちらからは賑やかな声が響いてきていて、活気に溢れているのが丸わかりだ。
「祭りみてぇだよな。ここは、毎日よ」
笑いながら言う言葉に、サンジが含み笑う。
「祭りというか戦場っていうか。賑やかなのは確かだな」
だよな、とにっかり笑うゾロは屈託がない。珍しく制服姿のゾロは、シャツと制服の黒のズボンといつか見たバラティエのフロア用の姿を思い出させる。そろそろ衣替えのはずなんだけどな、と言いつつも持ち歩いている学ランの上着は横の椅子に掛け置かれている。
そんなゾロの姿を目の当たりにすると、なんとなく顔に血がのぼりそうになるのは何故なのか。赤くなってしまう顔を隠すように、サンジは忙しなく手元で遊んでいた煙草を銜えて火をつけた。
成長する姿というのは、それを通り越したものには、半ば憧憬と観察と…一抹の恥ずかしさがあるものらしい。
そんな風に自分で自分を分析しつつ、盛大に煙草をふかしてみせる。
ゾロがバラティエで食事をする時間は、基本サンジは休憩を取る。とはいっても、ご飯を作って持っていっての流れでそうしているのだから、あまり長い時間ではない。サンジが運べない時には、厨房スタッフや時にはゼフが運ぶ時もあり、そういう時にもそれぞれが時間を取っている気がする。
結局誰かが食事をしている時に、一人で食べることを良としない料理人達の気持ちがそうさせているのだろう。
なんとなくそっぽ向いて、煙草の煙を横に流しているとゾロが不思議そうに覗き込んできた。
「どうした? なんかあったのか?」
とうとう6月も半ばに入っていた。ゾロの遠征も最近は随分となりを潜め、普通に日々学校と道場に通うのみ。
代わり映えのしないゾロの日常が完全に戻ったように見えて、しかし、なんとなく腑に落ちないままサンジはここまで来てしまっていた。
4月にウソップから話を聞いて、色々と考えることがあったのに、それを何も口にも実践にも出せないままここまできたからかもしれない。あれから何くれとなくゾロを構おうとしたのだが、まったく上手くいかなかったせいかもしれない。
構おうとすればする程、ゾロはするりとかわしてすぐに「自分のことを優先しろよ」と言ってくる。そのせいで喧嘩になった数の方が多いくらいだ。
ゾロはますます一人で動くようになっていっている気がする。
ワガママを聞くなど、夢のまた夢なのかもしれない。そう思えるくらいだ。
日1日と、ゾロの行動は一匹狼っぽくなっていっていた。先月のゴールデンウィークなどは典型的だった。
バラティエはゴールデンウィークの忙しさは、クリスマスまではいかないという現実があった。知る人ぞ知るといった雰囲気のバラティエは、観光客向けではないからだろう。
オフィス街は空っぽになるし、商業施設に人は取られる。様々な要因から結局いつもより、割合ゆっくりとした雰囲気のなかでの営業となるのが常だ。ほどほどの人達が丁度良くやってきてくれるゴールデンウィークは、料理に打ち込める時間も増えて、かえって料理人達には好評の時期でもあった。
だから休みを取ろうと思ったら、取れないことはない。
良いチャンスだとばかりに、休みをとって二人でゆっくりしようかと考えていたのに。ゾロはあっさりとゴールデンウィークを剣道場で過ごしてしまった。
後から聞けば、ゴールデンウィーク中コウシロウ一家が旅行に行く間の留守番を、アルバイト代わりに引き受けていたらしい。
道場も勝手に使っていいからと言われて、自主練習に篭もっていたのだ。
おかげでルフィの誕生会もゾロは夜から顔を出す状況で、盛大に皆から文句を言われまくっていた。
「…ゴールデンウィークも終わって、今年はもう目玉の長期休暇もない…6月は割合暇な時期だしなぁ」
まっすぐに見つめてくるゾロの視線は、いつでも力強い。目力と昨今よく使われる言葉があるが、それはこういう目のことを言うのだろうとサンジは思い浮かべていた。
「なんだ、休みの算段かよ。そういや、ゴールデンウィークにはルフィの誕生日で騒いだなぁ。あいつらしい誕生会だったよな」
とにかくいつも以上に食べまくったあの日のことを思い出したのか、どこか遠い目でほとほと感心したように呟く。
「面白かったけど、暫く肉はいらねぇと本気で思ったのは初めてだったぜ。しっかし、ほんと毎月じゃねぇか? 誕生会。まさか今月もあるとかいわねぇよな」
和らいだ目線をサンジに戻し、ゾロはニッと笑ってみせる。
何故か、サンジはその笑顔に見とれそうになっているのに気付いて、慌てて咳払いで誤魔化した。
「んんっん! あー…三月からの三ヶ月はな。誕生月間なんだよ、昔から。けど、ひとまずこれで小休止だ。今月はねぇ」
「そうか。…そういや、お前とウソップが年でいえば一つ違いになるって知って、驚いた」
学年で動いているから違和感は感じないが、実は三月生まれのサンジと四月一日生まれのウソップでは、ほぼ一つ違いになる。
「おれも事実を知った時には驚いた。あいつが一つ上って、なんの冗談だかな。いや、年齢ってのは底がしれねぇ」
「なんだそりゃ」
「人間性や性格と年齢ってのは釣りあわねぇもんだという、典型的な事例だって話だ」
「ますますわからん」
「マリモちゃんにはむずかちくてわかりまてんかー?」
「んだと!? このぐる眉!」
ひとしきりにらみ合っていると、通りすがりの他のコックから「モノ壊すなよー」というチャチャが入って、二人してそっぽ向く。
そのまま暫く、そっぽ向いたままだったが、ぽつりとサンジが口を開いた。
「週末」
「あ?」
「いや、だからよ。ゴールデンウィークはダメだったし、週末なら普通にお前も学校は休みだろ? おれも休み溜まってるからなぁ。…どっか行くか? 一泊くらいなら、なんとかなるぜ」
どこか驚いたようにゾロはサンジへと顔を向けた。
そっぽ向いたままのサンジをマジマジと見つめ、不意にその視線をきつくすると、慌てたように額に手を当てる。
声もなくその手に仰向かされて半ば仰け反ったサンジは、嫌に真剣な顔をして自分を見るゾロに目をむいた。
「…熱はないみたいだな」
「おまっ、しっつれいな奴だな! なんだそれは!」
ゾロの手を振り払い、怒り心頭で睨み上げればゾロは真面目な顔でサンジを見ていた。
「いや、珍しい事言い出したから、なんか頭でも痛いのかと思って」
「………そこで大まじめに言われると、非常に腹が立つんだが?」
軽く足を開く。途端にゾロが半歩身を引いた。
「真面目にもなるだろう。今まで休みがとれれば、ナンパか料理の研究かあいつらと遊ぶかだったのに。どうした風の吹き回しだ」
風切り音と同時に、すらりとしたサンジの片足がほんの一瞬前までゾロのいた場所を垂直に跳ね上げた。
反射的に避けたゾロが軽く吐息をはく。
「あっぶね!」
「それが休みにどこかに連れて行ってやろうとする親心に対する言葉か!」
「いや、親心て…」
どこか呆然とした顔で反復したゾロに、サンジの背後から爆笑が響いた。
「チビナスが面白いことほざくもんだ」
もう条件反射で「チビナス言うな!」と叫ぶ姿はお約束に近い。
声の方に目をやれば、そこにはゼフが今だ笑いをこらえきれずに立っていた。
「んだよ、なんかあったか?」
むっとした様を隠すことなく、しかし厨房で何か問題でもあったかと顎をしゃくって示すサンジに、ゼフはふふんと鼻でせせら笑って一言で断じた。
「バカめ」
それでおれがいる厨房で何かあるわけがあるか、という非難と、その言動こそがバカなんだという意味と、他にこんな所で遊んでる奴が何を言うか、等々様々な意味を示していた。ある意味見事な表現だ。
大筋そんなことだろうということをくみ取ったゾロが密かに感心したのと真逆に、完璧にそれを悟ったサンジが逆上するのは当然といったところか。
いきりたって反論しようとしたサンジの機先を封じるように、ゼフは持っていた何かを投げて寄こした。
思わず受け取ったサンジがあからさまに目を白黒させている。
ゼフはそれを仕方なさそうに見やり、ため息をついた。
「さっきあの小娘が来て、それを置いていった。お前の忘れ物だとよ部屋に落ちてたから持ってきたくれたらしいぞ。わざわざ」
いくらになるんだろうな、と一瞬で考えてうんざりしたゾロとは対照的に、慌ててサンジは手元のものに目をやった。
小さな紙包みに包まれたそれはとても軽い。
「部屋に忘れ物って……あ? ナミさん!? ジジイてめ、ナミさんを小娘とか適当に呼びやがって…ってナミさん! あなたのサンジはまだここにっ!」
「せわしねぇな! ちったあ落ち着けねぇのか、テメェは!」
ダンっと蹴りで床を慣らしたゼフに、サンジのみならず何故かゾロまで姿勢を正した。
どうしてか、これには逆らってはならない気がして反応してしまうのだ。
「あの小娘は用事があるとかいって、それ置いたらさっさと退散した」
「くうっ…そんなつれないナミさんも素敵だ…」
見事な負け惜しみ。つい手元のものを握りつぶしそうになって、サンジは慌てて手を開いた。
どこにも握りしめた折り目をつけなかったことを確認して、いそいそと包みを開く。
ゼフとゾロが見ている前で、サンジの手に現れたのは、とてもシンプルな赤を基調としたネクタイだった。
確かにそれは、サンジの物だ。時折そのネクタイを締めている姿を二人は何度も見たことがある。
「また大層なものを忘れたきたな」
ため息混じりに呆れた声を出したゼフに、不思議そうに答えたのはゾロだった。
「ネクタイだと大層なもんなのか?」
その問いに、ゼフは軽く肩を竦めただけだったが、サンジがふふんと偉そうに胸を張った。無意味に小馬鹿にしたように首を振ってもみせる。
「おっこちゃまには、わっかんねぇだろうなぁ。ネクタイは男のステイタス、脱ぎ捨てるのは……っとホントおこちゃまには早ぇって」
むっとしたように押し黙ったゾロを無視して、サンジは困惑したようにネクタイを見つつ首を傾げた。
「けどよぉ…これ、いつ忘れたっけかな?………あっ!!」
暫く考え込み、不意に大きな声を出して頷いた。
「そうかそうか。そういや、誕生会終わった後の週末、お礼がてら遊びに来いって誘われてそのまま泊まったことがあった! あの時か!」
「…泊まった? ああ、あったな、そういえぱ。酔ったから帰れないって電話してきたことが」
「あったのか?」
何気なくゼフが聞けば、ゾロは頷いた。
「先月だけどな…。そうか、泊まったのってナミの所だったのか」
「あああ、っんなんって優しいんだー! ナッミさんっ!」
ゾロの言葉など聞かずに、ネクタイを持ってくるくると器用に踊るサンジは幸せそうだ。
その様子を見ながら、ゾロの表情が徐々に固くなっていく。
何事かを必死で考えているようで、少し眉根を寄せてサンジとネクタイを見比べる。
いかにも頭を抱えてそうな、そんな混乱した様子が見ているだけで珍しく手に取るように分かった。
ゼフは静かにそんな二人の様子を見続けた。
その視線を感じたのだろう、混乱した様子のまま、ふと、顔を上げたゾロの目がゼフを捕らえた。一瞬、何かにすがるような、そんなどこか頼りない色がいつもはまっすぐな目に浮かぶ。が、次の瞬間にはハッとしたように目線が焦点を結び、すぐにそれは消え失せた。
同時に、じっと自分を見るゼフの視線から逃れるよう、わずかにサンジへと視線を流し。
ゾロは小さく小さく、吐息をついた。
それは、そうと思って見ていないと分からないくらい幽かな、囁きにも似た吐息の付き方だった。
もしかしたら、本当に囁いていたのかもしれない。確かめようもない、それほどわずかな動きだった。
じっと、ゾロはサンジを見ている。
だが、それはいつものような力強い視線ではなかった。ただ、そっと。そこにゾロがいることすら気付かせないように慎重な、そんな風にも思える視線。
腕を組んだままに、二人の様子を見ていたゼフが苦々しく、床を蹴った。
「いい加減にしねぇか! 二人とも!」
ピタリと動きを止めたサンジの不満そうな反撃を無視し、ゼフはゾロを見た。
どこかぎこちなくゼフを見たゾロは、けれど、いつもと変わらないまっすぐな視線だった。
思わずゼフの舌打ちが漏れる。
「お前は…」
言いたいことは山程あった。けれど、それ以上は言葉にならず、ゼフは嘆息した。
「……言いたいことがあれば、おれの所にこい、小僧」
「言いたい…こと?」
困惑したように繰り返したゾロに、サンジがわずかに驚いたように見返す。いつもなら、あっさりとこういう質問には否定を返すのがゾロだ。聞きかえすようなことさえ、あまりしたことがないというのに。
「ヶッ、ゾロは言いたいことがあれば、こっちに言うさ…なあ」
半ば強がりだと自分でも分かっていたが、言わずにはいられずに口にすれば、二つの視線が飛んできた。
圧力すら感じられるその視線に、たじろぎつつも睨み返せば、ゼフはやれやれと首を振り、ゾロは随分たってから苦笑を返した。
それは何故か、やっと笑ったような、そんな笑みだった気がしたが、それこそ気のせいだったのだろう。
ゼフへと目線を戻したゾロは、いつもと変わりない様子ではっきりと心遣いに礼を述べていた。どのアタリがゾロへの心遣いというのか、わずかにイライラとそんなことにほぞを噛んでしまっている自分が、妙に理不尽な気がしてならない。
そんなサンジにどこか挑むよう、ゾロが振り返った。
「なぁ」
突然の問いかけに、思わずサンジとゼフの動きが止まる。
いつもならこういうぎこちない状態の時には、敏感に察して動くのがゾロだ。けれど今はそれすら感じる余裕もないのか、ゾロは突進するようにサンジへと向き直った。
「来月最初の週末。つきあってくれねぇか?」
「は?」
反射的に、サンジの目がカレンダーの方へと泳ぐ。
七月最初の週末は、三日四日で土日となっていた。
「あ、ダメだ」
これもまた反射的に声が出た。
「ダメか?」
「あ、うん。三日はナミさんの誕生日だから、絶対皆で集まってパーティだぜ。今度はお前もちゃんと出ろよ、この前の時もかなりブーイングだったんだぜ」
「……直接そのブーイングは受けた」
そうだったな、と思い出して笑いながらゾロを見たサンジは、笑顔を凍らせた。
真っ直ぐに自分を見るゾロは、無表情だった。
欠片も感情の浮かばない、まるで作り物のお面のような。いつもの何を考えているのか分からないような表情でもない。あれはあれで、何がしかのゾロの強固な意志を秘めた顔だったのだと、今の表情を見れば理解できる。
静かな視線も、空恐ろしい程にサンジを縫い止めた。ゾロの形の人形がそこにあれば、きっとこんな感じなのだろう。
本当に、ゾロの中のゾロを作る何かが抜け落ちた。
そんな気さえして、思わずサンジの躰は退きそうになった。けれど、それをしなかったのは、目の前にいるのがゾロだったからだ。
ゾロはゆっくりと人形のような姿のまま、頷いた。
「わかった。それならしょうがねぇ」
声まで平坦な。なんの感情も浮かばない響き。
「あ、でもよ、二日の夜とか、あ、三日の朝とかでもよければ、少しくらいはなんとかなると思うぜ。…早朝…は店とかあいてねぇか…、どんな用事なんだよできるだけ 」
「いい。そんな時間じゃ無理だ。気にするな…単なるワガママだ」
慌てて言い募ったサンジを遮り、ゾロは大きく息を吐いた。
そうして、ようやく能面のような顔を剥ぎ取り、表情を見せた。
自嘲に酷く近い、苦笑を。けれど、それでも雰囲気は一変した。それまでの緊張に満ちた空気は霧散し、ぎこちないながらも普段を思い起こさせる空気に。
ほっとしたと同時に、サンジの耳に厨房からの賑やかな声が届いた。
その音はずっと届いていたはずなのに、いつからかまったく耳に入っていなかった。どんな緊張の仕方だとゼフを見れば、ゼフは恐ろしく険しい視線でゾロを見ていた。
ゾロは何事もなかったかのように、躾けられた通りに皿を重ねサンジへとそれを差し出した。
「ごちそうさん。帰るぜ」
皿を受け取ったサンジに言いながら、上着を手に取る。
「小僧」
呼び止めたのはゼフだった。
「おう」
「……三日はおれがいく」
愕然と顔を向けたサンジと対照的に、ゾロは首を傾げた。
「店は?」
「人手はある」
ゾロは苦笑した。
「心配させて悪かった。大丈夫だ。元々一人で行くつもりだったんだ。心配いらねぇ」
「二度も言わせるな。おれが行く」
しっかりと断言する声に、ゾロは姿勢を正し微かに頭を垂れた。
「お願いします」
蚊帳の外だ。サンジははっきりとそれを感じ取った。今までの漠然としたものではない。これは確実に二人の間では通じる何かがある。
そして、多分、最初で最後のゾロからの誘いをサンジは自分が蹴ったことに気付いた。
いや。本当に最初なのだろうか? もしかしたら、自分は今までゾロからの気付かない誘いを、こうやって蹴っていっていたのではないか。
「……おい…なんの話なんだよ、それは!」
叫ぶように二人の間に割って入ったサンジに、ゾロは笑った。あっさりとした、なんのてらいもない笑いだった。
「終わったら話す」
そうして、ゾロは今度こそサンジとゼフの横を通り抜け、バラティエを後にしたのだった。
2010.12.6
てへ、シュラバラバンバ。←微妙に古い
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