遠くて近い現実
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「ありがとうございました」
 正座のまま礼儀正しく、ゾロはコウシロウへと深く頭を下げた。
 横にいたゼフが、どこか面白そうにそんなゾロを見ている。振り返ったゾロに、ゼフは預かっていた茶封筒を差し出した。うん、とどこかふっきれたように、ゾロはその封筒を受け取った。
「…いいんですね」
「はい」
 深く潔い返事に迷いはない。
 ゾロは机の上に茶封筒を滑らし、コウシロウへと差し出す。
 昔ながらの日本間だからか、大きな窓からそそとした風が流れてきていた。梅雨明けしたばかりで、随分と今日は蒸し暑いのだが、入ってくる風は妙に涼しげに思えた。
 ゼフはあぐらをかいた姿のまま、ゾロをもう一度見てからコウシロウへと視線を定めた。
「いつも本当お世話になりっぱなしで、ご挨拶もろくにせず失礼しておりました。この度はまた、本当に色々とお手をわずらわせてしまいまして」
 頭を下げるゼフに、慌てたようにコウシロウが腰を浮かした。
「いえいえ、お礼を言いたいのは私の方です。ゾロくんを、本当にありがとうございます。おかげで、貴重な弟子を育てることができました。それにその言葉は過分にすぎます。ゾロくんが今あるのは、ゼフさんのおかげですよ」
 穏やかに語るコウシロウの言葉に、ゾロも大きく頷く。
 そのゾロの頭を小突くように大きな手で頭をなで回し、ゼフは嫌そうに顔を背けるゾロに笑った。
「小生意気な息子です。バカな子ですが、どうぞこれからもよろしくお願いいたします」
 はっとゼフを見たゾロのことなど、まったく眼中にないかのように、ゼフはコウシロウへと視線を戻している。
「それは私の方の言葉ですな。本当に、こちらこそこれからもよろしくお願いいたします。なんといっても、うちの娘共々、寂れた流派を支えてくれる大切な人材ですから。ゾロくん、よろしく頼むよ」
 少し慌てたようにゾロはコウシロウへと目線を戻すと、「はい」と大きく返事をかえした。
「とはいえ、気負う必要は何もありません。自分の進むべき道をしっかりと見定めていってください。もっと…そうですね、私くらいの年になった時に、そんな時期もあったな、とこの道場のことを思い出してもらえればそれでいいんです。きみは、自分が思うように走っていくといい」
 どこまで分かっているのか、ゾロは頷く。それをしっかりと見つめ、ニコリとコウシロウは微笑んだ。
「ゾロくんはまっすぐなよい子ですから、心配はあまりしていませんが。とにかく、これは預かりましょう。きちんと、あの方に届けます」
 ギリっときつく唇を引き締め、ゾロはそれこそ土下座に近い勢いで頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
 頷く大人達は顔を見合わせ、頭を上げないゾロをどこか寂しそうに見つめていたのだが、ゾロがそれに気付くことは最後までなかった。

 学校から直行でコウシロウの道場へ行ったからか、少し時間が遅くなってしまっていた。
 心づくしの昼食を是非にと言われてゼフと二人してごちそうになり、そのままゼフは帰ったのたが、来たからにはと少し道場で汗を流していたら思った以上に時間を喰ってしまったのだ。自業自得とはいえ、時計を見て慌てた。
 一応ゼフがサンジには昼食は道場で食べると連絡を入れてくれてはいた。ナミの誕生会準備で忙しくしていたサンジには、その方が有り難かったかもしれない。
 そう思い至って、慌てて走る速度をあげる。
 ナミの誕生会とやらは夕方から、と言われていたが、どうせもっと早くに皆集まって前祝いのように騒ぐに決まっている。
 今までの集まりで学習しているだけに、ゾロは制服のまま半ば走るように家路を急いでいた。
 まだ二時を過ぎたばかりとはいえ、油断はならない。しかも何の手伝いもしていないとなると、ナミ達に絡まれることは必須。既に遅い気はしたが、それでも走って帰らなければそれはそれで恐ろしく非難されそうな気がする。
 別に非難されるだけなら、へとも思わない。だが、最近サンジの様子が少しおかしいことが妙に気にかかってた。
 走りながらも、苦い思いに口元が歪みそうになる。やっぱりあれは失敗だった。
 サンジに関することには、本当にいつも失敗ばかりしている。しかも治せない。後になって、失敗したと思うことばかりだ。
 今日のことをサンジに言うのではなかった。言うつもりのないものを、何故あの時口にしてしまったのか。本当に思い返せば、自分で自分に腹が立つ。
 きっと、サンジにいらぬ心配をかけた。気にする必要はないのに、サンジはとてもゾロのことを気遣ってくれている。嫌われているとは思ってはいないが、足手まといだというのは、認識している。
 預かった子供にも、友達連中にも、ゾロが考えも及ばない程の細やかな気配りを見せるのにはいつも驚かされる。
 仕事柄なのかもしれないと、実はバラティエの面々を見ていて思うことも多々あったのだが、やはりあれはサンジの性格もあるのだろう。
 居心地がいい。何から何まで、本当に見ていてくれて、不満を感じることがない。
 サンジの元にこなければ、きっとこんな満足感を得ることなんてなかったのだろう。そう考えれば、自分を探し出してくれたゼフにも、深く感謝を覚える。
 師匠の家で、すんなりと息子と言われて、本気で驚いた。そんな風に思ってくれていたのかと、初めて知った。
 驚いた次ぎに感じたのは、自分でも信じられないくらいの嬉しさだった。自分のことを、そんな風に思ってくれる人がいたのかと、本当に嬉しかったのだ。
 それでストンと気分が落ち着いた。今まで意識したことすらなかったどこかが、ほっと息をついたようでもあった。
 それが分かったのだろう、昼食の準備でコウシロウが席を外した時、ゼフに蹴りをくらった。今頃気付いたのかバカが、と怒られて、それがさらに嬉しく感じて。正直何がこんなに嬉しいのか分からずに、けれど、何故か泣きそうな気分になってしまって参った。
 ほっとしたら妙にお腹が空いたのだが、昼ご飯は普段通りにしか食べられなかった。
 あの場にサンジが作った料理があれば。
 きっとゾロはむさぼるようにルフィにだって負けないくらいに食べただろう。そんなことを、師匠宅の手料理を食べながら、何故かずっと考えていた。
 なんとなくそんなことを考えていた照れくささもあったし、本当にこれからもっともっと強くならなくては! と意識も新たにしたからこそ、躰を動かしてきたのだ。
 通い慣れた道だから、もう迷うことはない。そんな自宅への道にも、今日はどこか照れくさい気分になる。
 帰ればサンジがいるし、きっと皆もいるはずだ。今日はサンジが崇拝しているナミの誕生日なのだから、きっと上機嫌で浮かれ騒ぐ姿が見られるのだろう。
 何故か息が苦しくなったが、構わずに走る。
 もう少しだけ、待ってもらうつもりだった。もうちょっとくらいなら、きっとサンジも待つくらいはできるだろう。
 そう長くは待たせない。待たせてはいけない。
 それはサンジの自由を恐ろしく縛って、きっと彼の大切な時間を奪うものでしかない。サンジが心から安らげて、楽しく、皆とバカ騒ぎをしながら。
 好きなことに没頭していってくれれば。
 それはもの凄く、嬉しいことのはずだ。
 …息が詰まりそうなのは、走っているから。呼吸配分もできなくなるくらい、急いで走っているからだ。修行が足りない。本当に足りていない。まだまだな己の甘さに、自己嫌悪に陥りそうだ。
 そんな自分に、きちんと喝を入れていかなければ、きっともっとサンジの足手まといになっていく。彼の大切なものを奪っていくハメになる。
 もう、沢山もらった。ゼフにも今日もらった。
「ありがてぇ。強く、なる」
 だから大丈夫だ。
 目的の我が家に向けてラストスパートで走り込み、ゾロは玄関に激突する勢いで、ドアを叩いた。


 鍵はかかっていなかったらしい。
 はーい、という軽やかな声がして自宅のドアが開いたら、そこにはビビが立っていた。
「お帰りなさい、Mrブシドー。遅かったですね」
「ビビ…ナミは?」
 乱れた呼吸を無理矢理呑み込み、今一番の懸念を口にすると、ビビはにっこりと微笑んだ。
「セーフ。まだ来てないから、大丈夫」
 間に合った、と本気で全身から力が抜ける。思い切り躰を折るように息をつくと、くすくすとビビは笑ってゾロを促した。
「凄い汗。そんなに走ってこなくても、まだもう少し大丈夫だったのに。…でも帰ってきてくれて、よかった」
 最後の方の呟きは小さすぎて、ゾロには聞こえなかった。わずかに聞き返す素振りを見せたゾロに、ビビはなんでもないのと笑って中に入るように促す。
 一歩入れば、雑多な料理の匂いが充満していた。部屋からはウソップ達の声も聞こえて、賑やかだ。
 それに思わず、ゾロが笑う。今までいた所がいかに静かな所だったのか、ふとそんなことに気が付いた。
「学校だったんでしょう? それから道場に?」
「ああ、用事があって。爺さんも挨拶したいって言うから、一緒に寄った」
 なんでもないことのように言いながら、あっさりと靴を脱ぎ捨てる。笑ったビビが投げ出された靴を並べようとするのを手で止めて、足先で横にずらして邪魔にならないように避けておく。
 三和土から上がると、奥から怒号のようなサンジのウソップを叱る声が響いてきた。賑やかというより、やかましい。それがまたなんとなく嬉しく感じて、ゾロは口元をほころばせた。
 汗だらけになったシャツのボタンを外しながら、ゾロはまず台所の方へと顔を出す。
 後ろから着いてきていたビビが、するりとゾロの横を抜けて、サンジの方へと足を進めるのを見つつ、声をかけた。
「遅くなって悪い。ただいま」
 律儀に挨拶だけは忘れない。ぴくりとサンジの背が揺れた。けれどサンジが振り返るより早く、リビングの方から声がかかった。
「おっす、ゾロ。邪魔してるぞー」
 見ればリビングはあちこちを色とりどりの布やリボンで飾り付けられ、普段の雰囲気とはまったく違う部屋に変身している。
 オレンジを基調としたそれらは妙にスタイリッシュに纏められていて、ゾロは目を丸くした。
「すげーな。どこの部屋かと思った」
 思わずそう口にすれば、エヘンとウソップが胸をはった。
「ま、このくらいおれ様の手にかかれば当然よ。ナミのイメージを混ぜてみたんだ、どうだ!」
「ああ、言われてみたら確かに。なんとなくナミっぽい」
 全体的には明るくて、なのに芯の通った雰囲気。そして茶目っ気なのか、ところどころにあざとい金色が混じり、妙にナミを連想させる。
 布を飾っただけなのに、見事な表現力だった。色の具合も絡んでいるのだろうが、ゆったりとした部分や、ピンと皺一つなく張った部分が元々の壁を覆い隠し、よくよく見ればいたる所に、小さな物があしらわれている。
 ここがいつも生活しているリビングだと言われても、本当かと疑いたくなるくらいだ。
 しげしげと部屋を感心したように見回していると、背後からタオルが飛んできて頭にかかった。
「くせぇ! 汗だくじゃねぇか! 風呂いけ風呂!」
 振り返ればいつの間に背後にきたのか、サンジが嫌そうに眉根を寄せてこちらを睨んでいる。
 自分を見下ろせば、制服のシャツは汗で濡れて見事に躰に張り付いている。言われてみれば、汗まみれだったのだ。
 急いで頭から被ったタオルで汗をぬぐい、ゾロは軽く礼を言うと風呂場へと直行した。
 何故かその後ろをサンジがついてくる。どうしたのかと不思議に思いつつ、肩越しに振り返ってみれば、憮然とした様子のままコップを差し出した。
 早くも水滴の浮き出した大きなコップには、なみなみと冷たそうな水が注がれている。
「ありがてぇ!」
 本気で喉が渇いていた。差し出すそれを受け取り、美味しそうに喉を鳴らして呑んでいく。
 黙ってそれをサンジは見ていた。
 ゾロが本当に美味そうに勢い良く呑む姿は、屈託がない。小さな頃と、何も変わらないというのに。
「…どうした? なんかあったか?」
 ひょい、とゾロが顔を近づけてサンジを覗き込む。
 いきなりのドアップに、本気で驚いた。「うわっっ!」と反射的に声をあげて、仰け反り狭い廊下の壁に思い切り後頭部を打ち付ける。どこか呆れたようにそれを見ていたゾロが、蹲ったサンジに大丈夫かと声をかけていると、顔を出したコーザが笑って顔を出した。
「すげー音がしたな。サンジ、ビビが呼んでる。本気で間に合わなくなるらしいぞ」
 唸りながら立ち上がったサンジは、ちらりとコーザを見て頷いた。そうして、どこか巻いた眉尻を器用に下げ、うかがうようにゾロを見る。
 どことなくらしくないサンジに首を傾げながらも、ゾロはコップを返し、再度サンジを見つめた。
「大丈夫かよ」
「おう」
 目を落とすように視線を外し、サンジはそれこそ体中から力が抜けていくかのような長い長い吐息をついた。
「…とにかく、お前はさっさとその薄汚れた身体を洗ってさっぱりしてこい」
 何かを言い淀み、サンジはうん、と一つ頷いてから顔を上げた。しっかりとゾロを見据え、きちんと視界に納めてから踵をかえす。
 何かを押し込めたように戻っていく後ろ姿を、ゾロはしばし見つめ。
 小さく苦笑した。
 だいたい何を聞きたいのかは、分かっている。きちんと話はしようと思っているが、さすがにこの場で言うわけにもいかない。
 後は成り行き次第だろうか。
 よし、と頷き、ゾロは自分も急いで風呂場へと飛び込んだ。








2011.7.3

ナミ誕からナミ誕話に入るって…タイミングばっちりかも



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