遠くて近い現実
[3 5]






 リズミカルな音楽が跳ねあがっている。
 軽快なリズムは聞き覚えのあるもので、最近よく聞くソウルキングとかいう骨格標本みたいなCGでしかメディアに出ていないアーティストのものだ。
 どこで聞いたかな? と考えようとしてはっと飛び起きた。
「携帯っ!」
 音を探して辺りを見回せば、寝ている面々が蠢いているのが見えて、さらに慌てた。
 急いで出所を探せば、ダイニングのテーブルの上。一足飛びに飛びつき、開いてみると、発信元は新聞販売所だった。
 反射的に通話を押しながら時計を見れば、時刻はそろそろ六時半を指そうとしいてるところだ。
「……はい」
 掠れた声をそれでも精一杯潜めつつ応答すれば、受話器の奥から安堵に似た声が響いた。
『あぁ、よかった! サンジくん、久しぶり。朝も早くから悪いね。グランドライン新聞販売所のクーですが』
 名乗られて、鳥に似た主人を顔が脳裏に浮かんだ。小さい頃から自分達も世話になった、町内の人だ。
「ああ、どうも、久しぶりです。いつもゾロがお世話になってます」
 打ってかわって愛想良く返事をしながらも、声が邪魔にならないようにとそっと自分の部屋へと歩いていく。こんな時間に販売所から電話がきたことなど一度もない。妙な不安が過ぎって自然と、しかめっつらになっていくのを止められない。
『すみません、ゾロ君なんですが』
 やっぱり、と思ったと同時に一気に目が覚めた。
「あ、はい。ゾロがどうかしましたか?」
 思わず声が大きくなって、急いで部屋へと飛び込んだ。
『…ああ、まだ着いてないのかな。』
「は? あの」
『ああ、いや、今日ゾロ君配達中に怪我をしたんだよ。なんでもわざと煽った車に撥ねられそうになった犬を助けたらしくて』
「怪我?!」
 思わず怒鳴ったサンジに、電話の相手は酷く恐縮そうにすみません、と謝った。
『ゾロ君が車に撥ねられたりとか、そういうワケではないから、それは確かだから落ち着いてサンジ君。ただ、犬を助けた拍子に、近くにあったゴミ置き場のような所に突っ込んだらしくてねぇ。ふくらはぎの下の辺り…両足だよ、足首近くを切ってしまっててこっち大騒ぎ』
「そ…それでゾロは?!」
『病院に連れていったよ。近くの総合病院、ほら呉羽さん所。あそこに電話したら即みるから連れてきな、って言うから。付き添った家内からも、大丈夫だし今さっき処置終わったからって連絡あったからもう戻ったかと思って。結構縫ったみたいなこと言ってたのが心配で、おせっかいかと思ったけど電話してみたんだよ』
 縫う程の傷というのに、サンジは硬直して声が出ない。嫌な汗がにじみ出るのを感じずにはいられなかった。
『…ゾロ君ねぇ、足切ったのにもうちょっと配達残ってるからって、全部終わらせた上に犬抱えて血まみれで戻ってきたんだよ。もう、こっちがびっくりしたわ』
 少し興奮気味に告げる言葉にはっとして、サンジは電話口にもかかわらず、頭を下げた。
「お…お騒がせして、すみません」
『いやいや、大げさにしすぎだとゾロ君にも言われたんだけど、驚くよ、あれは。実際歩いて帰ってきたくらいなんだから大丈夫なのは分かるんだけど…』
 言い淀む言葉に、本当は歩けないくらいの代物だったのではと不安が勝る。
「ほんっと、ご迷惑かけまして! 帰ったら連絡させますから」
『いいよ、いいよ。それよりゆっくり休ませてやって。配達中の事故ということで、きちんと保険も出るしね。ゾロ君には安心するように言っといて。暫く休みでいいからって。あと、車はそのまま走り去ったらしいんで、警察に言おうかとも思ったんだけど。交通事故とも少し違う感じだし、ことが犬だけに取り合ってももらえない可能性も高いんで。怪我の具合を見て、ゲンさんにでも相談してみることにするから』
 この近くの交番の主の名前に、サンジは本気で頭を抱えそうになった。
「っ…重ね重ね、ありがとうございます。ゲンさんには、おれからも連絡してみますから」
 それには豪快に笑った相手は、けれどすぐに改まったように声を潜めた。
『まあ、そっちは心配しないでいいよ。仕事中のことだしこっちがするから。…けどねぇ、根性のある子だとは思ってたけど、本当に…肝が据わってるというかなんというか。足切っても仕事こなして、こっちはとても助かったけどね、遅配の苦情一つこないし。けどさすがにねぇ…。ゾロ君らしいといえばらしいのかもしれないけど。でもサンジ君、ゾロ君何か…あったの?』
 心配が声に滲み込んだ言葉に、サンジはきつく眉根を寄せた。
「…何かって…」
『ああ、余計な世話ならいいんだけど。いや、今日こっちに来た時、裸足だったりもしたんでねぇ。シャツも汚れてたとかいって、びしょ濡れだったし…なんだか様子もちょっと…妙に落ち込んでいたようでね。どうしたのかと心配していた矢先だったもんだから』
「裸足?」
『本人は今日は寝過ごしそうになってて、慌てて家飛び出してきた勢いで靴履き忘れたとか言ってたけど…』
 そんなバカな言い訳、と言いたくても確かにそれもありそうだと思える所がゾロで。
 唸ったサンジに、電話の向こうもそう言いたかったのだろう、小さく同意らしいため息が聞こえた。
『とにかく、ゾロ君には、早く怪我を治すように言っておいて。正直、ゾロ君が抜けるとこちらも痛いんだよ。今三人分くらいの配達件数をゾロ君引き受けてくれてるし』
「は? そんなに? あいつそんな件数引き受けてたんですか?」
『あれ? 聞いてない? 去年の年末前くらいに、配達人がバタバタ辞めていってね。次ぎの人が見つからなかったりで、ゾロ君がそれならと次ぎが見つかるまでって引き受けてくれてたんだよ。まあ次ぎが見つかっても、なんだかんだとあって引き受けてくれててね。だからもう半年以上か、それを毎日走ってこなしてたんだから本当に凄い胆力というか体力だよ。さすがコウシロウさん所の秘蔵っ子。ありゃ真似できんわ。勿論、ナビは持参だけどね。お金もいるからって言ってたけど、目標にしてた金額なんかとうに貯まってんじゃないかね』
 笑いながら言われる言葉に、サンジはいちいち殴られるような気がした。
 どういうことだ。自分が知らない所で、ゾロはいったい何をしようとしていたのだ。
 ぐるぐるとしていると、玄関の方でなにやら音がするのが分かった。
「あ、戻ってきたみたいです。本当にお世話になりました。またこちらからも連絡しますので。はい。それでは」
 丁寧に言って携帯を切りつつ、もうなりふり構わず玄関へと走った。
 その音に何人かが目を覚ましたようだったが、知ったことではない。
 ドアノブが動く音を無視して、鍵を開けると外で一歩引いたような音が聞こえた。
「ゾロ!?」
「うおっ、あぶね!」
 上半身は裸のまま、ズボンを膝上までまくりあげた姿が、思い切り仰け反っていた。
「あれま、大丈夫かい。あんまり無茶せんと! 安静って言われたでしょうが!」
 道路の方から慌てたような声が割り込んできたので、慌ててそちらを見れば、車から降りてきたらしい中年の女性が焦った様子で走り寄ってきた。そのまま呆然としているサンジを見つけると、「ほら、手を貸して!」と叱られる。
 急いでゾロを支えようと手をだせば、やんわりとその手を止められた。
「大丈夫だ。…おばさんも、そんな心配しなくても大丈夫だから。ありがとう」
 どこか困ったように、でも照れた様子で礼を言うゾロに、半ば呆れたように女性は大きく溜息ついた。
「まったく、ゾロ君にかかると大きな怪我もその辺りのかすり傷と変わらなく思えてくるから不思議だよ。ああ、サンちゃん、久しぶり。ゾロ君こう言ってるけど、結構な怪我だからね! そこんところ、間違えないように、安静にさせといてね!」
「あ、はい。ありがとうございます。マダム」
 反射的にそう答えたサンジに、マダムと言われた女性は吹き出した。
「あんたほんっっと変わらないわねー。夜遊びするのも程ほどにしときなさいよ、ゾロ君まだ中学生……ってあんた達に言う方が間違ってるわね。ゼフさんに言っとかないとかねぇ」
 心配性のおばさんらしいセリフに、ゾロが苦笑で返した。
「爺さんには、おれからちゃんと連絡する。これはおれのヘマだったのに、クーさん達に手間かけさせて、すみませんでした。ご迷惑かけますが、よろしくお願いします」
 きちんと頭を下げるゾロに、嫌そうに女性は手を振った。
「いやだよ、この子は。こんな所はコウシロウさん仕込みなんだから。もっと素直に、甘えてくれていいの。とにかく、抜糸が済むまでは安静にしときなさいよ。んじゃ、サンちゃん、また」
 慌ただしく戻っていく女性に、サンジは駆け寄って礼を述べた。それに笑いながら手を振って、けれどゾロに分からないようにサンジへ顔を近づけると囁くように告げた。
「大切な時期なのに、怪我なんかさせるような目に合わせてごめんね。けど、ゾロ君、本当に今日は変だったのよ。ちゃんと見てあげてね。…どんなにしっかりしてるように見えても、あのくらいの年の子は注意してもしすぎじゃないんだからね」
「うん…ありがとう」
 昔から皆で自分達の面倒を見てくれていたご近所さん達には、到底かなわない。
 最後にもう一度玄関からこちらを見ているゾロに、安静よ! と怒鳴ることを忘れずに、女性はあっさりと走り去っていった。
 見送ったサンジが改めて振り返れば、ゾロは玄関に入ろうとする所だった。
 両足首の辺りに、目に眩しいような白い包帯が大きく巻かれ、一種異様な風体に思えた。当然だろう。半裸な上に、膝丈にまくりあげたズボンはボロボロだ。
 痛むことは痛むのだろう、動きがどこかぎこちない。けれど、松葉杖すらせずに普通に歩いているのだから、と一瞬考えて、先程聞いたおばさんの言葉を思い出す。
「ゾロ!」
 呼べば、ゾロは振り返った。
 どこかドアに寄りかかるような体勢に見えたのは、気のせいか。
 だがゾロは眩しいような顔つきで自分を見ると、目を細めすぐに視線を外して口元を引き上げた。苦笑に近いそれ。笑顔というには、微妙な表情だった。
「ちょっとドジった。まだまだ修行が足りねぇことばっかりだ…」
 急いで駆け寄ったサンジが躰を支えようとするのを、やはり軽く手をあげることで押しとどめ、少しだけ視線を落としてゾロは吐息を零した。
「まだ寝てるんじゃねぇかと思ってたんだけどな」
 寝ていたら黙ってゾロは部屋に戻って休むつもりだったのだろう。それが分かったから、サンジはゾロを睨み付けた。
「さっきクーさんから直接電話あったんだよ。その途中でお前が帰ってきたんだ」
「そうか…そりゃそうだな。悪い。心配かけるような真似した。クーさんにも連絡しとくよ。世話になりまくったし。…皆はまだ寝てるのか?」
 ゾロは睨み付けるサンジを見ることなく、背後の部屋の方へと顔を向ける。
 奥はまだ静かなままだ。ドタバタとサンジが動いたので多少は起きた者もいたのかもしれないが、本格的に起きるには寝た時間も酒量も限界を超えていたのだろう。
 今更とは思いつつも静かに玄関をくぐったゾロに、もし倒れてもすぐに手を出せるようサンジもすぐに後ろをついていく。
 けれど、ゾロは誰の手も借りるつもりもなさそうに、少しだけぎこちなく三和土を上がるとそっと廊下を進んでいった。
 リビングの方を見れば、どこかぼんやりとした顔をしながらもルフィを除いた全員が頭を上げてこちらを見ていた。
「ちょっと、何? どうしたの、その格好!」
 一気に覚醒したらしいナミが慌てて叫べば、ビビが駈け寄ってきておろおろとゾロを検分し始める。それを苦笑しながら押しとどめ、ゾロは軽く肩を竦めて見せた。
「ちょっとしくじっちまっただけだ。そんなに大したことはないから」
 心配するな、と態度で示す。けれど己でもこの格好はどうかと思っていたのだろう、すぐに部屋へと着替えに戻ってしまう。
 どうしようもなく、それを見送ったナミ達はゾロの後をついてくるように戻ってきたサンジを質問攻めにしていた。
 背後からその声を聞きながら、ゾロは己の部屋に入ると室内を見回した。
 つい数時間前のことが思い出されて、胸の奥が異様に痛んだ。酷い痛みだ。後悔に近い強烈なそれは、今までゾロが味わったことのないものだった。己のふがいなさもだが、こんなに苦いものなのかと、別の意味でも驚くくらいだ。
 だから受け入れる。痛くとも、それは自分が生み出したものだ。その事実だけは変わらない。
 けれど、それに浸る暇はない。
 いついかなる時も、どんな衝撃を受けても、それで動けなくなるようではそれは隙だ。負けてしまう。
 ふと一瞬、何に負けるのか、と考え苦笑した。
 きっと、それは自分にだ。そしてそこで負けたら、全てが終わるのだ。
 大きく深呼吸をして、自分をきちんと保つことを意識する。もっとサンジとしっかりと向き合えるようにしなくては、自分のことで余計な世話をかけてしまう。自分がどう思おうと、サンジには関係ないことなのだ。そこだけはわきまえなくては、サンジが悲しむ。彼に悪い所はないのだから。
 では、どうすればいいのか。
 新しいTシャツを引っ張り出すついでに、机の上の携帯を取りあげる。
 自分はまだまだ未熟でこんなにもろい。弱い。    弱いことを知った。
 ならば、自分がするべきことや出来ることはこれしかない。
 手慣れた仕草でゼフの番号を打ち出し、時計を見ながらコールを鳴らした。


 かっきり五分程して、ジャージのハーフズボンにTシャツという姿のゾロが部屋から出てきた。
 室内にはコーヒーの良い香りが漂い、サンジが全員分を煎れている姿が見えた。
 さすがに少しぎこちなく歩いてリビングの方を見れば、全員が散らかされまくった部屋で、起き出してこちらを向いている姿だったのにゾロは目をむいた。
「…んだ、起きたのかよ。寝てても良かったのに」
「当然でしょ。あんたがそんな風で帰ってきたら、心配するに決まってるじゃない」
 憮然とナミが断言すれば、ゾロはますます驚いたような表情を浮かべた。
 するとさらにナミの柳眉が逆立ち、傍にいたコーザとウソップが二人してナミを押さえにかかる。
「なんでそこで驚く!?」
 それはに賢明に答えず、ゾロはビビに手招きされてソファへと誘導された。
 ゾロがきちんとソファに落ち着いけば、すぐに全員がゾロを取り囲んだ。全身を検分し、口々に質問をぶつけてくる。
「ちょっと何したらこんな風に両足怪我するのよ」
「あー…突っ込んだ先が燃えないモノを置いてる場所だったらしくて、ガラスで切った」
「だから何で突っ込むんだよ、そんなトコ。犬庇ったって聞いたけど、ホントか?」
「おう、見たことある犬だったから、咄嗟に動いた。多分、リカの所の犬だと思うんだけど…あ、クーさんに言ったっけかな?」
 首を傾げながらも、ま、いっか、と適当に流す。多分大丈夫だろうと、妙な確信がある様子はどこかふてぶてしい。
「…足を切ったなら、熱とか出るんじゃない? 体温とか計ってみた?」
「そういや、クスリ貰ったような気がする、ような?」
「なんで疑問系なんだよ。サンジ、もらってるかー!?」
 大声で聞いたウソップに、キッチンから「うるせぇ、貰ってるよ!」とサンジからの怒声が返った。
「うへっ、おっかねぇ。あいつさっきから妙にキレてやがるよな」
「そうなのか?」
 本気で分かっていない様子のゾロに、全員から盛大なブーイングが起こった。
「当然だろうが、お前がそんな怪我して帰ってきたら怒るだろ」
 微妙な苦笑を浮かべたゾロの頭を、ピシャリとルフィが叩いた。
「違うぞ、心配しすぎてるから、サンジは怒ってるんだからな。そこを間違うなよ、ゾロ」
 軽い調子ではあったが、それに込められた言葉は異様に重くゾロに届いた。思わず真面目に見返したゾロに、ルフィはニシシと笑ってゾロの横に座るとしなだれかかってくる。
「あんたも、ゾロが怪我してるの忘れてるんじゃない!」
 これはナミから雷が落ちてルフィはゾロから引きはがされた。
「なんにしろ、怪我の程度はどのくらいなの? 松葉杖とかなくてもいいの?」
「あんなのあったら、動きづらくて仕方ねぇ。なくても歩けるから平気だ。今は麻酔が抜けてないから、ちっと動きにくいが、抜けたら平気だろ。医者は消毒に毎日来いって言ってたけどな、抜糸は十日後だってよ」
 軽くカレンダーを探して視線を彷徨わせたら、丁度こちらに来ようとしていたサンジと目があった。
 手に大きなお盆を持ち、それに揃えられたコーヒーカップが並んでおいてある。
「お待たせ、ナミさん! ビビちゃん! …あとヤローどもは勝手に取れ」
 二人の女性にだけうやうやしくコーヒーをソーサーごと優雅に手渡したサンジは、他は知らぬと床に置いておく。いつものことに、それぞれが礼を言って取っていく。そこにゾロの分はないようで、ゾロがサンジを見ると嫌そうにサンジが口元を歪めた。
「怪我したばかりのヤツに、刺激物をやれるか。お前はこっちだ」
 マグカップに真っ白の湯気の立つ飲み物を手渡され、ゾロは思わずそれを凝視した。いつもは冷たいまま、がぶ飲みしているはずの牛乳だ。
「わざわざ温めたのか?」
「ホットミルクってんだ!! 覚えておけ! このマリモ小僧!」
 まあまあ、となだめられて、サンジはふて腐れたようにその場にどかりと座った。そうして自分の方が痛そうにゾロの白い包帯が巻かれている足を見た。
「大丈夫だ」
 なんでもないことのように告げる声に、思わず「どこがだよっ!」と返してはっと顔を上げる。
 見下ろしてきていたゾロは、静かにけれど確として揺るがぬ表情で見返してきた。
「大丈夫だ。このくらいなんてことねぇ。十日もしたら元通りだ。医者もそう言ったしな」
 ゆっくりと言い聞かせるようにそう言うゾロは、そのままわずかに笑ってみせた。
 なんとなく、それがどこか痛みをこらえるように見えて、かえってサンジは眉間を寄せた。
 やはりゾロはどこかおかしい。
 しかしその疑問を口に乗せる前に、ゾロは大きく息を吐くと、どこかうんざりした様子で天井を仰いでソファにもたれかかった。
「あー、丁度いいから、暫くは勉強でもするか…足がダメでもできる体力トレーニングって何があったっけかな…」
「って言ってるそばからそれかよっ! 大人しく勉強に専念しろよ!」
「十日も動かなかったら体力落ちるからな。ダンベルくらいなら、足使わないようにしてもできるだろ。勉強はするとしても、それは欠かせねぇ」
 ぼやくゾロに、ふとコーザが小さく呟いた。
「…ってちょっと待て、丁度いいって言ったか? 何かあるのか?」
「期末テストがもうすぐだ」
 期末! とこれは全員が叫び、存在ごと忘れ去っていた遠い昔を思い出したのか、男性陣は特に呻くように顔を歪めた。
 彼らにとって、学生時代のテストとはどうやらかなり苦痛を伴う思い出らしい。
 ただ懐かしそうにしていたナミとビビが、しかめっ面をしている男達を見回しては楽しそうに笑っていた。
「懐かしい響きねぇ。にしても、あんたが真面目に勉強とか言うから、ちょっとびっくりしたじゃない。結構適当にやってそうではあるけど」
 確かにゾロは勉強も適当にやっているようで、成績はそう悪くはない。結局三年間、そのままで貫きそうだと思うとサンジはどこか苦く口元を歪めた。
「勉強っていったら、Mr.ブシドーは今年受験でしょう? 定期テストっていっても、それが一番大事な時期じゃないですか!」
「あ、そういやそうだ。ゾロ、お前受験生だったんだな。どこの高校行くかくらいは決めたのか? 前に相談あれば乗るっていってたろ?」
 既に足の怪我のことから離れ、そうウソップが詰め寄ると、ゾロはミルクをがぶりと飲み、口の回りを白くしつつあっさりと告げた。
「ああ、それなら内定まで決まったからいい。ただ、今期のテストの結果も提出しなけりゃならないからな、少しは勉強した方がいいかと思って」
「「「「「「はあっ!!?」」」」」」
 腕で口をぬぐい、ゾロは飲み干したカップを屈むようにしてお盆に乗せた。
 その腕を勢いよく掴み、どこか必死な面持ちでサンジがゾロを引っ張った。足に力が入らなかったのだろう、思わずよろけたゾロはそのままソファからずり落ち、派手にウソップとルフィを跳ね飛ばして一緒にひっくり返った。
「ってーなっ! 何しやがる、この暴力コックっ!!」
 足を打たなかったのは反射的に庇ったからだろうが、それでも勢いは怪我に響く。顔を歪めて怒鳴れば、それ以上に険しい顔を見せたサンジがゾロに覆い被さるように怒鳴った。
「聞いてねぇぞっ! なんだそれはっ!!」
 ポカンとサンジを見上げたゾロは、軽く横を向きそのままゴロリと体勢をかえた。
 サンジの腕から逃れるように、俯き気味に起きあがろうとしたが、またしても強い力で腕を引かれ倒れそうになる。
 今度はなんとか片手で上半身を支え、ゾロはゆっくりと上体を起こした。
「ゾロっ!」
「聞いてるはずねぇだろ。昨日やっと決まったんだ」
「昨日って…」
 サンジが呆然と呟き、はっと目を見開いた。
 昨日、ゼフと学校に行ったのはこれだったのか。
 悟ったと同時に全てが分かった気がした。だから、あの時、ゾロはサンジに一緒に来て欲しいと言ったのだ。自分の進路が決まるから、きちんと話を通そうとしたのだろう。
 だが自分が断ったから、ゼフが名乗り出たのだ。当然だ、こういうのは保護者が一緒に行くはずだ。なのに、ゾロはそれを一人で行くつもりだったのか。
「やっとお前に話しできる状態になったからな、ちゃんと後で話しようと思ってた。昨日はナミの誕生日だったから言いそびれたけど、それでも今日は話するつもりだった」
「おいおい、ちょっと待てよゾロ。昨日決まったって、学校に用事ってそれだったのか? にしたって、えらく早い話じゃないか。普通は早くても二学期以降だろう、特に進路なんて試験やらなんやらの願書だってもっと遅いぞ? いったいどこに行くって言うんだよ。そんな高校あるってあんまり聞いたことねぇぞ」
 言い募るウソップに、ゾロはきちんと視線を向けると頷いた。
「おう、特例だってよ。おれにこの話が来たのは去年の…いつだったかな。夏休みくらい、だったはずだ」
 のろのろと顔を上げたサンジは、しっかりとした顔つきで説明しようとするゾロを、やっとの思いで見つめているのが精一杯だった。
    




2011.8.31




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