遠くて近い現実
[3 7]






 ゼフは言い合いが続いている間も、その後も一言も口を開かなかった。
 ただゾロが足をわずかに庇うようにして自室に戻り、大きめのボストンバック一つに学校の鞄類等を持ち出してくると、一瞬わずかに目を見開いただけだった。
 外まで運ぼうとしたそれを、何故かルフィが真っ先に横取りし、玄関へと運んでゆく。
 どうやら外にはバラティエのコックがいたらしく、元気なルフィとのやりとりが聞こえてきた。
 サンジは硬直したまま、ソファの上から動かない。というより、動けないのだ。

 最初はどうしてそうなる、とゾロを引き留めようと確かにした。
 だが、不思議なくらい、サンジの言葉はゾロには届かなかった。
 何を言っても、ゾロはそれをサンジが無理をして言っているのだと、そう受け取ってしまうのだ。
 とうとう最後にはゾロを蹴り飛ばし、彼はずっとそっぽを向いて硬直している。それしか、もう動きようがなかった。
 諦めたくはない。なのに、どうすればいいのか分からない。
 早くどうにかしなければ、と気ばかり焦るのに、それを正すことができない。
 結局すれ違いばかりの言い合いをしている最中に、ルフィの
「まあ、なんだ。ゾロ、出ていくなら、手伝うぞ」
 その一言でゾロが頷き、そのままゾロは荷物を纏めてしまったというわけだ。
 ルフィの言葉にサンジが反発しなかったわけではない。けれど、咄嗟に蹴り飛ばそうとしたのを止めたのは、ビビだった。
「サンジさん、今は…少し様子を見た方がいいです。ゾロくんの為にも、何より、サンジさんの為に」
 まさかそんな風に言われるとは思ってもみず、結局サンジは何もできずに今に至るというわけだ。

 ゾロの準備は本当に短時間だった。荷物も異様に少ない。本当にこれだけか? とコーザとウソップが目をむいたくらいだ。
「荷物本当にあれだけか?」
「おう、靴があと一足あるだけだ」
 まとめれば、両手に抱えられる程度しか持ち物がないというのも珍しい。それでもゾロは自分の部屋を最後に見て回り、洗面所から歯ブラシを一つ持ってきた。
 それで本当に最後だったらしい。
 ゾロはうん、と頷き、ぎこちない動きでサンジの方へと歩いてきた。
 きちんとサンジの前に膝をつき、ソファに座っているサンジを見上げてくる。
「…今まで世話になった。いや、これからだってここにいないだけで、爺さん所とかバラティエとかで世話になるんだろうけどよ…それでも、おれは本当に嬉しかったんだ。今まで」
 ゾロの顔を見ることができない。
 今見なくてどうする、とは思うのだが、納得ができないのだ。何故こんな風になるのか、と。
 しかも何を言っても、ゾロはサンジの言葉を理解しない、してくれない。だから余計に、話す言葉を見つけられずにサンジは唇を噛んだ。
 まさかこの年で、こんな風に歯がみすることがあるとは想像すらしたことがなかった。
「今度は……」
 言いかけて、ゾロは苦笑した。余計なことか、と態度が言っている。静かに傍に来たナミとビビを見上げ、ゾロは頷いた。
「後は頼む」
「ずるいわね、あんたって。私との約束も破ろうとするし」
 わざとらしく憤慨した様子で腕を組んでみせれば、心外だと言わんばかりにゾロは目をむいた。
「おれがいつ約束破った」
「あら、覚えてないの? やだやだ、あてにしすぎたかなぁ、もう」
 やはりわざとらしくも頭を振ってみせるナミにゾロは少し考える素振りを見せたが、すぐに諦めたらしい。最後にもう一度だけサンジを見つめ、立ち上がった。わずかにサンジの肩が揺れたが、それでもサンジはゾロを見ようとはしない。
 微かによろめいたゾロにビビが手を伸ばして支える。それを留めようとしたゾロの反対側を今度はナミが支えた。
「Mr,ブシドー。無理はダメ」
「無茶もダメよ」
 言いながらナミがゾロの耳許に小さく囁いた。
「約束破ったんだから、言うこと聞く! サンジくんの傍にいてね、って、言ったでしょ」
 苦笑まじりの言葉に、ああ、とゾロは納得した。ナミが帰ってきて暫くした時のことだとよく覚えている。なにせ二人でバラティエで食事をしたのは印象的だったのだ。だからこそ、ゾロはナミへとしっかりと目を向けた。
「おれは返事してねぇぞ、それ。おれより、お前達がいるからな。…だからこそ、後を…」
 頼むと再度小さく頭を下げるゾロに、ナミは落胆を隠さずに軽く肩を竦めた。
「それが勝手って言ってるの。それに、私達ではダメかもよ」
「そんなわけねぇだろ、子供の世話より余程マシだ」
 囁き声がはっきりと告げる。ナミは苦笑を深くして微かに前に向き直った。何を言っても今は無駄だと、そう断じたようだ。
 ナミ達の動きにつられるように歩こうとして、ゾロは頑なにこちらを見ないサンジに再度目をやった。だが、こちらも何かを断ち切るように、二人に促されるままゆっくりと歩き出す。
 ゼフの前に来た時だけ、ゾロは足を止めた。
 こちらをじっと見つめるゼフに、ゾロは真っ直ぐ視線を返し、頭を下げた。
「突然言い出してすまん。…世話になります」
 その頭を軽くこづき、ゼフは大きくため息をついた。
「…今更だ、大馬鹿者どもめ」
 微かに笑ったゾロにゼフが顎で玄関へと示す。それに従おうとしたゾロの横で、ビビが微かに腕を引いて立ち止まらせた。
「ゼフのおじさま。お願いがあるんです」
 唐突に言い出したビビに、ゼフの方が微かに眉尻を跳ね上げた。
 無言の促しに、ビビがにっこりと笑う。
「Mr,ブシドーの家庭教師を私とウソップさんでやりたいと思うんです。おじさまの所に通ってもいいですか?」
「家庭教師?」
 驚いて振りむいたゾロを横に、ビビは胸を張って微笑んでいる。聞き慣れない言葉に耳を疑ったゼフは、ちらりとサンジを見ると鷹揚に腕を組んで、面白そうにビビを見下ろした。
「また、こんな小僧にどうしてだ。こいつは昨日、進学先も決めてきたぞ」
「あら、だからといって、成績が良いにこしたことはないでしょう? さっきMr,ブシドーも言ってたけれど、成績は相手先に提出されるってことみたいだし、何しろすぐ期末試験っていうし。この際徹底的に成績もあげていれば、高校でも肩身の狭い思いをすることもないでしょう? 多分形だけかもしれないけども、試験はあるんじゃない? 前に友達が推薦で受かった時も、試験だけは受けさせられたって聞いたことがあるの」
 後半はゾロに向かって言えば、恐ろしく不承不承ゾロが頷いていた。
「私達なら余計な費用はいらないし、丁度いいわ。こちらが押しかけで家庭教師する形になるけど…いけませんか?」
 小首を傾げて問いかけるビビは、見た目は相手の反応を不安気に見ている素振りだ。だが、その目がいたずらっぼく輝いて、この提案をゼフが呑まないはずはない、と断言しているようでもある。
「……好きにしろ。ただ来たなら飯は食っていけ」
 実質家庭教師代を食事で賄うということだ。
 どこか面白そうに言うゼフに、ビビがこれでもかと輝くような笑みを登らせた。
「ありがとう、おじさま! そんなわけだから、よろしくね、Mr,ブシドー。あ、ウソップさんと日取りを決めなきゃ。後で何日くらい勉強に充てられるか教えてくださいね、ね、Mr,ブシドー!」
「拒否権ナシか」
 嬉しそうなビビと対照的にげんなりと呟いたゾロに、ナミが笑いながら肩を押した。
「当然でしょう。感謝されこそすれ、拒否するなんて贅沢は許されないわよ。勉強はやった程。やってて損はないんだから、ありがたく受け取っておきなさいよ」
 言いながらも、ちらりとゾロを除いた三人の目がサンジに向く。
 三人の声はきちんとサンジに届いていたのだろう、その証拠にサンジはこちらに背を向けている。天の邪鬼が今は幅を利かせているらしい。
 再度のゼフの促しに従い、今度こそゾロ達は歩きだす。
 暫く彼らが玄関に到達するまでを見つめ、それからおもむろにゼフはサンジの前に歩いた。
 そっぽ向くサンジを見下ろし、盛大にため息をついてみせる。先程のゾロの時より長く、かえって嫌みなくらいの代物だった。
「あいつはおれが預かる。前から言っているように、お前はおれの部屋は出入り禁止だ。それは解かねぇから、お前が何をしたいのか、どうしたいのか、きちんと形にしてから直接あの坊主に当たれ」
 びくりと躰を揺らしたサンジは、しかし振り返ることはしなかった。
 今の自分が何を言っても、何をしても、何一つ通じない。これをひっくり返すには、と散々考えているのにだ。
 動こうとしても、何故か全員が邪魔をする。どうしてゾロを自分から離そうとするのか、どうしてゾロを自分の下に置いておいてはいけないのか。
 ルフィが率先してゾロを促したことも、サンジにはショックだった。
 引き留めても、誰もそれを良しとしない。そんな時は、自分が何かを間違っているのだ。いや、何か足りていないのだ。
 そういうことだけは、これまでの皆との付き合いでちゃんと気付いている。問題は、何故それが今なのか、だ。
「お前らは、少し離れた方がいいんだろう。じゃあな」
 痛い所をきっちり突いて、ゼフが歩いて戻っていく。反射的に振り返ったけれど、その背に言う言葉すら思いつかない。
 ちくしょうっ。
 毒づく言葉すら声にならず、サンジは煙草を取り出し、火を付けると盛大に紫煙を吐き出した。
 止められないなら、他にどうすればいいか考えなければ。
「………ゾロ…」
 小さくやっと声になったそれは、たった今、自分の前からいなくなった子供の名前だった。
 

 玄関で賑やかな声が響き、暫くして大きくドアが開く音がした。
 ドカドカと足音が続き、ゾロを抜いた全員がリビングへと引き返してくる。
 サンジは台所でお湯を沸かしている所だった。
「はー、まったく、とんでもない誕生会だったわー。ハプニングばっかりで、絶対忘れられないこと請け合い」
 しみじみと首を振るナミに、ビビが困惑したようにまあまあ、となだめてくる。黙ってお湯が沸くのを見ていたサンジは、ゆっくりと戻ってきた全員を見回した。
「…悪かったな、妙なことに巻き込んで」
 気怠げにくゆらせた煙草の先を揺らし、サンジは苦さを隠しきれない様子でそう謝った。
 だが、あっけらかんと笑ったのはルフィだ。
「まあ、しょうがねぇ。今はあれが一番いいんだ。あいつが選んだことだしな! 大丈夫、ゾロはちゃんと戻ってくるから…何年たってもな」
 いつもの眩しいばかりの笑顔だが、言うことは辛辣だ。
 サンジは黙ってお茶の支度をしていく、そういえば最初にコーヒーを飲んだはずなのに、まったく記憶から削除されていた。
 既に前に出されていたカップ類は綺麗に洗われ、洗い物の籠に綺麗に伏せて並べられている。
「ね、サンジくん。気付いてた?」
 小さく茶器が奏でる音をなんとなく全員が黙って聞いていた。その静けさを破って、ナミはテーブルの椅子に座ると両肘をつくと形の良い顎を掌に乗せた。
 なんと返していいのか分からなかったサンジをしっとりと見つめ、ナミは指でゾロの部屋を指さした。
「私ね、さっきゾロの部屋見てみたのよ。…不覚にも驚いちゃったわ」
 ゆっくりと沸いたお湯をまずポットに注ぎ入れ、残り湯を人数分のカップに注いで温めていくサンジがちらりと視線をナミの指先の方へと流した。
「後でちゃんと見てみるといいわ。それより…サンジくんって、ゾロの部屋に入ったことあるの?」
 あまりの質問に、は? とサンジは不思議そうにナミへと視線を戻した。
 無意識なのか手元に用意していた砂時計をきちんとひっくり返す。さらさらと流れ落ちる砂時計の砂の色は、鮮やかな緑だ。
「部屋くらい、何度も見たりしてたよ。あいつ散らかさないし、掃除も自分でしてたから、そんなに頻繁に見てたわけじゃないけど」
「ホントに? サンジくんのことだから、お互いのプライバシーとかなんとかいって、ゾロの部屋行くの遠慮したりなんてしてなかった?」
 それはしていた。
 思わず言葉に詰まったサンジの様子で答えを知ったのだろう、ナミはやっぱりね、と呟いて吐息をついた。
「それがどうかしたんですか? ナミさん」
 ナミの隣にコーザに促されて座ったビビは、どこか真剣にナミへと向き合った。残りの面々も銘々に残り二つの椅子に座り、立っているのはサンジとコーザのみとなった。
「さっきコーザもウソップもゾロの部屋見てたでしょう? 何か思わなかった?」
 ああ? と二人がつられたようにゾロの部屋の方へ顔を向けた。ふと、コーザが何かを思いついたらしく、早足でゾロの部屋へと行くとドアを開ける音がした。
 暫くそのまま静寂が流れ、サンジは紅茶のカップの湯を捨てていく。
 淀みない手つきなのに、何故か危なっかしく見えるのは、サンジの動揺の現れだろう。
「…おれはさ、ちょっと驚いたというか…なんからしいと思ったというか…」
 一人うんうんと考え込んでいたウソップが、サンジをチラチラと見つつ、遠慮がちに口を開く。
 ジロリと睨んできたサンジに、ひぇえええ、と大げさに脅えてみせながらも言葉は止めない。
「だってよ! あいつの部屋なんも変わってねぇんだもん!」
「はあ? なんだよそれ」
 呆れたようにサンジが問えば、戻ってきたコーザも大真面目に同意を示した。
「ああ、変わってない。確かにゾロが使っていた机はこざっぱりしてたけどな。後は何も変わってない」
 砂時計が砂を流し終わり、紅茶を注いでいたサンジの手がピタリと止まった。
 それが何を意味しているのか分からなかったが、不吉な程に重い何かが胸に湧き上がったのは確かだ。
 立ち上がったビビがそっとサンジの手からポットを取り、綺麗な仕草で注ぎ入れることを変わってくれる。
「見てくるといいですよ、サンジさん。Mr,ブシドーの部屋。…ううん、私も一緒に見ます」
 勝手に注がれた紅茶を取り、おのおので飲み始めたのを確認して、どこか呆然としているサンジを促し、ビビはゾロの部屋へと向かった。
 いつもは軽快に歩くサンジの足取りが、今までみたこともない程に重い。
 心配そうにそれを見ながら、ビビはそれでもゾロの部屋へと行き、今はもう主がいなくなった部屋の扉を開いた。
「…ああ…」
 思わず声が出る。
 サンジはその声にのろのろと顔を上げて部屋を見回し、首を傾げた。
 いったい何にビビ達が声をあげたりしたのか、分からなかったからだ。
「え? 何? ビビちゃん?」
 ビビは口元を片手で押さえたまま、サンジを上目づかいに見上げた。
 その目が本当に分からないのかと問うている。
 もう一度部屋を見回してみた。
 ベットに机、そして箪笥。それらは備え付けかと思うくらいに部屋になじんだもので、サンジがこの部屋にいる時から使っていたものだ。
 ゾロの荷物は既に大半があのろくでもない親族もどきに処分されていたし、ゾロ自身の荷物は入院中の一連の騒動の間にうやむやになってしまっていた。ゾロに言わせると持ってこようと思うものすらなかったらしい。
 結果、ゾロは着の身着のままでこの家に来たようなものだったから、家具の類はサンジが使っていたものをスライドさせただけですんだのだ。
 昨日までゾロが使っていたベットも、そのままだ。ふと、昨夜ゾロは寝たのだろうか? という疑問が浮かんだが、聞くこともできないので、多分皆と同じように雑魚寝したのだろうと思うことにした。全員にタオルケットが掛けられていたから、最後まで起きていたことだけは確かだろうが。
 ぼんやりと考えごとをしていたサンジに、ビビがじれったそうに腕を引いた。
「サンジさん! 呆けてる場合じゃないです! 分からないんですか?」
「あ、ああ、そうだった。…って、だから何が?」
 カーテンもいつものまま、何も変わってなどいない。これで何を分かれというのか。
「んもう! なんでこんな時だけ鈍いフリするんですか。いつもなら、真っ先に気付きそうなものなのに。ほら、この部屋。何も変わってないじゃないですか」
 ほんのわずか驚いたようにぽかんとした表情を見せたサンジは、本当に何を言われたのか分かっていないらしい。
 ビビはわざと両手を腰にあて、言い聞かせるように続けた。
「私、去年この部屋に泊めてもらいましたけど、あの頃ともなんにも変わってないんです。もっと言えば、そのずっと前から一緒なんですこの部屋。そりゃ…確かに机の回りは荷物無くなってるけど…それだけ。本当に、それだけ」
「うん…それが…?」
「ほんっと、なんでゾロのことになるとそう盲目になるのかしらね、サンジくんって。わざとかなって、最初は思ってたんだけど、違うのよね」
 呆れたように言いながら、ナミがサンジを押しのけてずかずかと部屋に入っていく。
「ちょっ、ナミさんっ」
 すぐにそれを止めようとして、立ち止まったナミが振り返るのに硬直する。
「なあに?」
 ナミの意思の強い瞳が、何かを問うて来ている。
「………」
 何故止めようとしたのか。
 ここは、ゾロの部屋だ。何故か強く、そう思う。
 その部屋に他人が勝手に入るというのが妙に腹立たしく、許せないような感情が湧くのだ。
「この部屋、サンジくんが使ってた時のままね…懐かしい。さすがにゾロがいる時には、この部屋には足踏み入れなかったもん。少しゾロ臭い気はするけど。まあ当然かな。…けど、こんな風なら、遠慮せずに入ればよかったわぁ」
 ナミはベットに腰掛けると、綺麗な長い足を組んだ。
「絶対ゾロは拒まなかったのにね。…私、この家に留学から戻ってすぐに寄った時、すごく不思議な感じがしたの。それが何でなのか、ずっと分からなくて、ことある事に考えていたのよね。なんだかものすっごく気になって」
 ナミは何故か哀れむような目でサンジを見つめる。
「あれがなんだったのか。この家のリビングをウソップが飾ってくれてやっと分かった。昨日言ったでしょ? 誕生日終わった話をするって。簡単なことよ     この家にゾロのものって、ないのね」
「え?」
 わけが分からない。何をいわんとしているのか、さっぱり理解できずに、サンジはその場で困惑の表情を浮かべて軽くパニックになっている。
「リビングにあるものも、私の記憶にあるものばかり。台所にはもしかしたらゾロの茶碗とか箸とかコップとかあるのかもだけど…あるの?」
「あるさ! あいつが使ってるのはあいつ専用だし、箸とかはちゃんとおれが用意…」
 したのはいつだ。確かにゾロが初めて家に来た時には、色々と用意した。子供用の茶碗やら箸やら、日常に使うものはあれこれと用意した記憶がある。だが、あれは小学校の頃のものだ。
 もう大きくなっていったのに合わせて、ゾロがそれらを使うことはなくなったし、何個かは喧嘩して割ったりしたこともあった。
 それに中学に入ってからこっち、ゾロは朝食以外はほとんどバラティエで食べることになっていたし、その朝食は勿論きっちり食べさせていたが、食器の類は元々あるものを使用していた。
 それで何の文句も言わなかったし、そもそも、そんなものにどちらもあまり拘る性格ではなかった。
「まあね、そんなのは確かにあるもので十分だからいいんだけど。けど、それにしても何年も暮らしていたって割に、ゾロのものがないのよね、この家。だから、私拍子抜けしたんだわ、一番最初にきた時。変わってるって思ってたから余計。そしたら何も変わってないんだもん、もの凄く懐かしくってほっとしたの。ああ、ここは全然変わらないんだわぁ…って。あの頃のままなんだわぁって」
 ナミは小さく口元を引き上げてみせた。自分に対して苦笑しているような表情だった。
「そんなわけないのにね。ゼフさんの気配みたいなものは確かになくなってたけど、そこにあんなに個性ばっちりの男の子の気配がないなんてどういうことなのか、まるっきり理解一つしてなかったわ、私。そうね、私も無神経だったのかも。だってここは私達の場所だと思ってたんだもん。ゾロにだって、サンジくんは私達の為にゾロを引き取ったんだって、そんなこと話したこともあったのよ…さっき、ちょっとグサリときたわ、ゾロのくせにあれはないわよねぇ…」
 ナミは部屋をもう一度見回し、呆れたように肩を竦めてみせた。
「バッカみたい。このままサンジくんがここに入れば、ここサンジくんの部屋になるとでも思ったのかしら? サンジくんこんな殺風景な部屋でなんかなかったし、もっとセンスのいい持ちものでちゃんと生活してたのにね。あいつは知らないのね…サンジくんがどんな風に今までここで暮らしてたか。知ろうともしなかったのかしら? それとも、知ることはできないと割り切ってたのかしら? 知っても…どうにもならないと思ってたのか…? どっちだと思う?」
 こちらを見つめてくるナミに、サンジは言葉が出ない。
 どっちだったのだろうか。
 そんな問いにすら、サンジは答えられない。
 でもゾロならば、きっと知ることができないし、知っても過去はどうにもならないと思っていたのではないのかと、そんな考えが過ぎる。
 あの子供は酷く現実主義な所があった。こうなったことはこうなったことでしかない、と見ている目だった。それにどうこうという理屈を付けることも、実はあまりしていなかったような気がする。
 あったこと、それだけが事実であり、他の余計なことは、ただの予測でしかない、そう知っていたのではないだろうか。
「私も、前にこの部屋に泊めてもらった時、ちょっと驚いた記憶があります。その時は、まだMr,ブシドーの剣道の道具が机とかに立てかけてあったりしたから、ああ、こんな感じなんだな、って自分を納得させたんです。…でも、やっぱり昔のサンジさんがいた頃の面影だけがしっかりある部屋って、おかしかったんだわ。あんなに存在感あるのに、なんでああも気配を殺すのが上手いのかしら? やっぱりMr,ブシドーだから?」
 小首を傾げたビビは入口から入らず、困ったように頬に手を当てている。
「…宿題もらったようなものね、サンジくん。ゾロはさっき、多分全部話したんだと思う。あんなに沢山必死に話してるの見たの初めてだしね。後は     
 すっと、ナミはサンジを指差した。細く綺麗な指は、どこまでもサンジの胸を貫きそうだった。
「サンジくんがどうしたいのか。それにかかってると思う。見ないフリとか、見たくないものから目を逸らしてたら、サンジくんゾロ本当にいなくなっちゃうわよ。あの子覚悟だけはいつも半端ないみたいだし。…ルフィがあれほど懐いているしねぇ…なまじっかな根性でもないんでしょ」
「サンジさん、私達も協力します。Mr,ブシドーの様子とかはちゃんと確認しますし、本当はどうしたいのか、ちゃんと考えていきましょうよ」
 ぎこちなく振り返ったサンジの青ざめて硬直した顔を溶かすよう、ビビが毅然とした微笑みを浮かべてくれる。それは救いの手を差し伸べているようにも、サンジには見えた。







2011.10.04




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