いつの間にか通い慣れたドアの前で、ビビはチャイムを押し鳴らした。
ドアの奥で響いている音が外にまで漏れていたが、気にしてはいられなかった。
ついでにドアも叩いていたからか、隣の部屋のコックが顔を出したがそれにも気付かず、ビビはドアノブを回した。
「Mr,ブシドー! 開けてください!」
「わあったから、てめぇ落ち着け!!」
半分怒鳴るような声と共に、ドアが大きく内側から叩かれた。
その音に弾かれるようにドア前から一歩退いたと同時に、憮然とした表情でゾロがドアを開け放った。
「ったく、なんなんだ朝っぱらから! あー、わりぃカルネ。騒がせた」
すぐに隣から顔を出しているコックに気付いて、ゾロが罰が悪そうに頭をかく。それでビビもやっと隣人達がこちらを伺っているのに気付いた。
「あ、すみません! 早朝から…ごめんなさいっ」
ぺこぺこと今度は頭を下げるビビに、ため息をついてゾロはその腕を取った。そのまま部屋へ引っ張り込みながら、再度カルネに手を上げてみせる。
それで納得したのかどうかは分からないが、こちらを伺っていた隣人は軽く手を振ってドアを閉めていく。
人がいなくなったのを確認して、ゾロもドアを閉めた。
ビビは玄関先で半分ゾロに抱え込まれる形になったまま、それでも必死にゾロを見上げていた。いつの間にか、ゾロと並べば見上げる形になっていたことに、ふと気付かされた気分だった。
「Mr,ブシドー…」
「あー…悪かったな」
多分、ビビが来ることは半分覚悟していたのだろう。そんな様子だ。ゾロはあっさりとビビを離すと、さっさと玄関を上がっていく。慌ててビビも後をついて上がった。
家庭教師としてい潜り込んでいただけに、もうこの部屋のことは粗方熟知している。
居間では、たった今まで食事していたらしい状態がそのままに残っていた。
「…朝ご飯…」
「食べないと動けないからな」
あっさりと答える声はいつも通りのものだ。だが、ビビはゾロときちんと目を合わせるように前に回って見上げてきた。
「Mr,ブシドー、サンジさんに…」
どう言えばいいのかと言い淀んだビビに、ゾロは苦笑した。
「おう、全部話した。…それが一番いいんだと、分かったからな」
「本当に、全部を?」
ゾロは目を細めて頷いた。
「ああ。…だからもう、あんたも心配しなくていい。もう全部片づいた」
静かにゾロは言葉を落とす。
ビビはなんとも言えない表情で、ゾロを見上げたまま唇を噛みしめた。
そんな表情をさせたい為に言ったわけではなかったのだと、言いたくても言えない。
ゾロは無表情なまま、けれどどこまでも静かにその目を沈ませていた。深い視線は、それだけで雄弁に今のゾロの気持ちを語っているようだった。
いつものような、こちらの気持ちが掻きむしられるような笑みを浮かべているわけでもない。
けれど、その目だけがどこまでも強くてやるせない。
「片づいたって、そんな…」
「はっきり言わないと分からないってなぁ、ホントだな。ちゃんとあいつには分かるように言ったから、もうあんた達を煩わせることもないと思うぜ。ちょっとばかし荒れるかもしれねぇが、そこは勘弁してくれ。もうおれにはどうしようもねぇ」
半ば苦笑した風に言うゾロに、ビビははっとしたように目を見張った。
「……ごめんなさい…わたし…余計なことを…」
本当にゾロがこんな表情をするとは考えもしなかった。
「いや、助かった。かえって、良かった。おれの為にも…あいつには悪いが、多分あいつの為にもな。これであいつも分かっただろうし、おれも…踏ん切りがつく」
ただ、あまりにも混乱しているサンジと、突っ走ってしまっているように見えたゾロを、きちんと向き合わせたいと思っていただけだったのだ。
ゾロの気持ちはだいたい想像がついていた。ナミにも言われて、やっぱりそうかなと思った時には少し混乱もしたけれど、でも不思議と嫌悪感はなかった。かえって、ちょっと嬉しかったくらいだ。
だからこそ、言えばいいのにと歯がゆく思っていたことも確かだ。けしかけたのは、このままだと硬直しているサンジが可哀想だったのと、二人の間がこのまますれ違い過ぎて壊れていくのを見たくなかったからだ。
ゾロが自分の言うことを素直に聞き入れてくれたのは嬉しい。本当にちゃんと話したのだろう、サンジの様子からしても、それは簡単に予想がつく。
けれど、結果についてはどこか楽観していた。ゾロがちゃんと自分の気持ちを告げれば、それで全て上手くいくものだと。そんな風にしか、見ていなかった。
若干十五歳の少年に、告白さえさせれば全てが片づくなどと、何故思ってしまったのか。
片づき方というものがあると、何故思い至らなかったのか。間違っても、ゾロにこんな顔をさせる為に言ったわけではなかったはずなのに。
けれど、もう告げた言葉も結果も覆らない。
「…Mr,ブシドー! 偉いです!」
ぐっと拳を握りしめ、ビビはきちんとゾロを見つめ返した。
「はあ?!」
驚くゾロに、ビビは大きく深呼吸をすると、自分が震えないように気を付けながらビビは微笑んでみせた。
「ちゃんと、話したんでしょう? 全部。自分の気持ちを。伝わるように」
「ああ」
「それって凄いことよ、Mr,ブシドー。それを言えるってことが、とても凄いこと…本当にMr,ブシドーは偉い! それでもって、強いわ」
哀しいくらいに。
言葉にはならずに、ビビはゾロを見つめる。
「…ありがとよ」
どこか呆れたようにゾロは答えて、それから小さく笑った。
「ちゃんと言えてよかった。あいつに押しつけた形になっちまったが、それはもう仕方ねぇ。諦めてもらう。…あいつは?」
「サンジさんなら…、今ナミさんとおじさまが見てるわ。きっと話を聞いていると思う」
「ああ…あの二人がいるなら、大丈夫か。随分びっくりさせちまったからな。……ホントに」
大きく吐息をつき、ゾロはビビを見返した。
「おれができる事はもうこれ以上はねぇ。悪いが、おれの誕生会とやらはやっぱりナシでいってくれ。皆で集まるのに口実がいるなら、別のにしてくれ。おれはもう、さすがにこれ以上あいつの前には出ないようにする」
「それはっ!」
「おれは別に悪いことをしたとは思ってないが、あいつにとっては悪いことだらけだろう。それくらいは想像がつく。あんな風に硬直されたらな。まあ、大きく拒否されなかっただけ有り難かったけど、拒否されておくべきだったか?」
ビビは激しく首を振った。
どんな風に二人が話ししたのかは分からないが、サンジが衝撃を受けたのは確かだろう。
何故かサンジはゾロのことになると、目を逸らし続けていた。それがどんな気持ちから来るのかは理解できなかったが、逃げ続けていたものを突きつけられて、まともにすぐに受け入れられるはずもない。
どんな態度をゾロに取ったのかは分からないが、それをまともに受け取らざるを得ないのはゾロだ。
そして、これ以上ビビにはゾロにだけ負担を強いることもできなかった。
ずっとサンジが混乱しているのが可哀想だと思っていた。あんなに一生懸命なサンジのゾロに対する思いが、空回っているのも辛かった。それがどんな気持ちから来ているのかは、今となってはよく分からないが、サンジをちゃんとゾロに向かい合わせたかった。
ゾロが動けば、きっとサンジは自分を雁字搦めにしているものから目が覚めると…。
まるでゾロの気持ちはオマケ程度にしか考えていなかった気がする。
ゾロは強いから。この少年は強すぎるくらいに強いから。怪我なんて、怪我とも思ってないような人物だから。
傷つくなんて、…考えてもみなかったのではないだろうか。
ゆっくりとビビはゾロへと腕を伸ばした。
驚いたような顔をするゾロの首へと腕を回し、ゆっくりと引き寄せる。抗わない子供を、そっと胸に抱き込んだ。
「…ごめんなさい…Mr,ブシドー。あなたが本当に強いから…甘えてしまってました…」
無言の子供は優しい温もりに一瞬目を見張り、不自然な体勢のまま小さく首を振った。
「そんなことはねぇ。あんた達は本当に、あいつが好きなだけだろ」
ゾロの言葉に、ビビはゆっくりと頷いた。
「Mr,ブシドーのことも、好きです。今、もっと…本当に好きになりました」
あんまり強いから、ゾロは自分のことなど見もしない。傷ついても、どうってことないと、放っておく。そして、本当にそれでも大丈夫だと走っていくから…周りは気付かないのだ。気付けないのだ。
ゾロの血が流れていてもその程度だとしか、見えなくなる。
痛くないわけないはずなのに。それを思いやることすら、忘れてしまう。
「…それはまあ、コーザにとっとけ。おれに言うこっちゃねぇだろ」
そして誰も、ゾロ自身すらも、そこにいるゾロを思うことを忘れてしまうのだ。
くぐもった笑いを零し、ゆっくりとゾロはビビの腕から離れた。
その目がわずかに揺れて、柔らかいものを宿しているのに、ビビはほんの少しほっとした。
「おれが出来ることっつったら、後はもうあいつの前に顔を出さないことくらいしか思いつかん。…なんかあるか?」
真っ向から尋ねられて、ビビは一瞬口ごもり、小さく首を振った。
「答えを出すのは、サンジさんだわ。もうMr,ブシドーがそう決めたなら、次ぎに動くのはサンジさんでしかない。Mr,ブシドーはちゃんと、本当にちゃんと動いたもの」
毅然と言うビビに、わずかに眉尻を跳ね上げ、ゾロは感謝を示すように小さく頷いた。
そうして軽く階下を指さす。
「あいつに、ついてやってくれ。頼めた義理じゃねぇが…いくらなんでも、堪えてるはずだからな」
それはゾロ自身だろう。
そう言いたいのをぐっと我慢して、ビビはそれでも首を振った。
「あそこには、ナミさんもおじさまもいるから。それより、Mr,ブシドー、ご飯途中なんでしょう? お茶煎れますから、ほら、しっかり食べて!」
有無を言わさずにビビはゾロをテーブルに戻し、奥歯を噛みしめながら炊事場に立った。
今はゾロの傍にこそ誰かが必要なのではと、やっと本当に思えた。
ナミとゼフに促され、サンジは改めて椅子に座り直していた。
こんなこと、誰かに話すことではない。それはきちんと分かっていたが、自分の中ではもういっぱいいっぱいで、どうしようもない。情け無いと分かっていても、有無を言わさぬ態度で詰め寄ってくるナミ達の優しさに甘えることが、多分自分が今できる一番のことだと判断した。
自分一人でここまであがいて、結局何もできなかったのだ。
これはもう第三者のきちんとした意見を聞かなければ、自分では間違いを続けてしまうし、きっと目を逸らし続けてしまう。
「…どう言えばいいのか…」
「いいの、ゆっくり、本当にあったことだけを教えてくれればいいから」
優しく促すナミは、こういう時はとても上手く誘導してくれる。
大きく深呼吸をし、サンジはとつとつと、今朝目が覚めてからこれまでのことをを話した。
ゼフには二度聞く話になるのだろうが、もう構ってもいられなかった。
なるべく事実だけを淡々と、思い出せる限りのやりとりを告げた。誇張一ついれないこと、を肝に銘じてはみたが、話せば話す程サンジは真っ赤になっていった。
恥ずかしい。
口にしてみれば、客観的に状況が見えてくる。そうなると、今自分が何を語っているのかが見えて、やたらと恥ずかしさが倍増してしまって口が重くなっていってしまう。
それでも必死で、サンジは自分達の会話を一つの言葉を除いて、全てを話した。
どうしてもゾロが自分に告げたあの一言だけは、口にできなかった。思い出すだけで、ナミの目の前だというのに頭を掻きむしって突っ伏してしまって話にならない。
どんなにきちんと口にしようとしても、どうもして出来ないそれに、ナミの方が呆れて言わなくて分かると投げてくれた。
「ゾロがサンジくんのことどんな風に思っていたか、だいたい分かってたもの。視線は言葉より雄弁ってタイプだったって感じかしら」
それが本当かどうかすら、今のサンジには判断がつかない。
ゼフは黙ってサンジが話をするのを聞いているだけだ。
今朝のことだけを全部語り終えてみれば、本当にただ簡単なことだった。
「要するに、ゾロがサンジくんに告白しましたってことよね」
一言で纏めきったナミに、サンジは突っ伏して顔が上げられない。
「…間違いじゃ…」
「ないわよ、それにそんなこと言ったらゾロに失礼じゃない?」
ゼフに言われたことと寸分違わぬことを言われて、逃れようもなくサンジは唸った。
「そっか、ゾロちゃんと言ったのか…ホント、偉いというか強いというか無茶というか」
言いながらナミは苦笑して天井を見上げた。
「バカよね。真っ正直に正面から突撃かましてさ、ほんとバカ」
そうしてゆっくりとナミはサンジへと視線を下ろし、突っ伏すサンジを見つめた。サンジの金髪から覗いた耳が真っ赤になっている。首筋までもが赤いのを見れば、もうナミにしてみれば呆れるしかない。
「ゾロは答えを出してしまったから、サンジくんの所から出て行ったのね。潔すぎるわ…さすがゾロ」
感心したように言って、ナミはゼフを見た。
「おじさんは?」
「おれが口出すことじゃねぇな。勝手にすればいい」
ふん、とやはり呆れたように返すゼフを見つめ、ナミは本気で感心したように頷いた。
「ほんっとに素敵!」
さらっと言っているようで、ゼフの言葉は重い。きちんと考えた上で、ゼフが下した結論なのだと理解できるからこそ、ナミはしみじみと感心できた。
「…ねぇサンジくん、もうこれはどうしようもないんじゃない? どうしてサンジくんがかたくなにゾロのことを見ないようにするのか、わたし達には分からない。けど、後はもう答えをちゃんと出す所に来ているんだと思うわ」
「答え…?」
それはさっきゼフにも言い渡された言葉だ。
「そう、きちんと告白したことには答えなくちゃいけない。まあ、もっともゾロは自分で答えを用意しているようだけども…」
「でもナミさん! おれは男で、あいつも男なんだぜ!? か、考えるまでもねぇだろう!? なんでそうなるんだ? なんでそうなってくるんだ!? おれが間違ったのか? あいつをあんな風に考えさせて…男に告白なんて、あいつが…あいつは…!」
大きく机を叩くサンジは突っ伏したまま、顔を上げようともしない。
その手に手を重ねて、ナミはキツイ目でサンジを睨み付けた。
「それ、ゾロが違うって出て行き際に言ったんでしょ。自分が変なんだろって、ゾロが言ったってサンジくんが言ったのよ」
無言になったサンジは、ゆっくりと顔を上げた。
どんなに情け無い顔をしているだろうと、心のどこかで思いながらも、それを消すことはできなかった。
「ナミさん…」
サンジの手をポンポンとあやすように叩き、ナミは苦笑した。
「男だから何だって言うのよ。今時、私だって海外に言ってた間、女の子に告白されたことだってあったわよ。まあ、私ほど魅力的な女の子なら当然でしょうけど」
胸を張るナミは可愛らしい。
けれど、サンジは首を振るしかできない。
「サンジくんは男同士って考えたこともなかったのよね。そりゃそうよねぇ、サンジくん私達のこと大好きだもんね。まさか男が男になんて他の人だったら、目にすら入れないでしょうしねぇ」
当然だ。差別と言われたら甘んじて受け止めるが、男同士なんて頭のおかしいヤツが勘違いしているものとしか、思ってなかった。というよりも、考えたことすらなかったくらい有り得ない、自分から一番遠いものだった。
もしそんなことを言って来る男がいたら、問答無用で蹴り沈めている自信がある。
そうぼそぼそと答えたサンジに、ナミはわざとらしくゆっくり瞬いて頷いてみせた。
「そうよね、それでこそサンジくんよね。…なのに、じゃあなんでゾロにはそうしないの?」
サンジは硬直して、目を見開いた。
そんなこと、言われるまで考えてもみなかった。
「気持ち悪いでしょ? だってゾロは男の子よ? それも今までサンジくんがちゃんと心を砕いて育ててきた子よ? おかしいでしょ? 変じゃない。あいつ変態だってことでしょ? こんな気持ち悪いこと、他にないってくらいじゃない?」
「………」
「あいつサンジくんのこと裏切ってたってことでしょう?」
「ナミさん!!」
きつく睨み付けてくるサンジをナミはしっかりと見据えた。
「違う?」
サンジは答える術を見つけられなかった。
2012.11.24
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