遠くて近い現実
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 バラティエの厨房の奥にある休憩用の一室に、ゾロは座っていた。
 賄いとして用意されたご飯を先に1人でもらい、忙しく働いている人々を見ながら、ゆっくりと食べる。
 以前はガツガツと呑み込むのが早いか噛むのが早いか、といった感じで食べていたのだが、恐ろしい勢いでゼフとサンジに粛正されてからは、きちんと噛んで食べるようにしていた。
 そのせいかどうか知らないが、最近は以前は起こっていた目眩に似たものがなくなってきている。
 実はここの所、時々喉の調子がおかしくなったりはしていたのだが、風邪でもないようだしと放っていた。そろそろ寒くなってくる時期だが、体調は悪くないのだから、喉だけなら心配する必要もないだろう。
 あの事件からは一年が経とうとしているというのに、未だに二週に一度は病院に行かなくてはならない。どうしても治らないようなおかしい時には、そこで聞けばいいだけの話だ。
「どうだ、ゾロ! 今日の賄いは俺が作ったんだぜ! 美味いだろう!」
 気を抜くと、難しい顔をしてしまいそうになっていた所に声をかけられ、慌てて顔を上げる。
 むくつけき男がねじり鉢巻きで、ぬっと扉から顔を出していた。
 ゾロは見上げんぱかりの大男に、にっと笑うと頷いた。
「おう、美味ぇ。あったけぇ飯ってのはいいな」 
 がはははは、と笑って同じように指を立てる男はこの厨房でも古株に位置するパティという人物だ。
 食べ終えた皿を差し出すと、パティはそれを引き取りゾロの頭をぐちゃぐちゃにかき回した。
 反射的に嫌そうな顔をしたのだろう、嬉しそうな顔をしてパティは汚れた皿を抱えて戻っていった。本当にここの連中は自分が嫌がることをするのが好きだ。というよりも、反応するのが嬉しいのかもしれない。
 なんとなく苦笑しつつ、ゾロは手元に残ったお茶をゆっくりと煽った。
 結局自分は、そういう行為をされるだけの子供なんだとしみじみと思う。それが良いとか悪いとかではない。それが現実なのだ。
 ついため息をついて、さらに苦笑を深くする。ため息をついてしまうのには、もう一つ原因があるからだ。
 今日の賄いは肉料理だった。料理名なんてまるで知らないので、それがどんな料理かは分からなかったが、今まで食べてきたものに比べたら、本当に美味しいと思う。
 なのに…今日は魚だろうと思っていた気分は、なんとなくすっきりしない。
 贅沢になったんだなぁ、とゾロは気分に負けてまた大きくため息をついた。こんなのは良くないような気がする。
 ゼフ達の元に引き取られてからは半年たらず。とにかく飯に関しては遠慮するなと言われて、二人が食に関する仕事をしていると知って思い切り納得したが、甘えすぎているのに、さっき気付いた。
 この世に当たり前というものは、ない。皆それぞれに事情があり、その当人にとっての普通があるだけなのだ。
 それがこれまでのことで理解した一番のことだったはずだ。
 物心ついた時には、父親の姿はなかった。一生懸命働く母親だけが自分の側にあるもので、しかも見ているだけで分かる程に窶れていく母親に、ゾロは必死で何かできないかと思っていた。
 自分が小学生であることが、本当に歯がゆかったものだ。
 だが、小さいからこそ、食事の量も少なくて済むし部屋だって狭くてもなんとかなった。
 小学校では、普通に話されることも、自分には当て嵌まらないことも多かった。だからどうだ、と思ったことはないが、それでも当たり前と言われる事は、自分に即さないことだけは理解していた。
「忘れてたなぁ」
 囁くように声にして、ゾロは笑った。
 母親が本格的に入院して、自分を預かると突然現れた男達は、自分を連れて行ってすぐに放り出した。その時に子供は荷物なんだと豪語した。
 それもそうだと思った。自分ではまだ何もできない、それが許されない年というのは、なんと困るのだろう。もし自分が少しでも働ければ、それがせめて許されれば、あそこまで母親は悪くならなかったかもしれないのだ。
 だがそれはどう考えても仕方ないことだった。現実自分は何もできなかったのだから。何かしようにも、全てに母親の許可がいったし、あの気丈過ぎる母親は許さなかった。
 …そんな過去を考えても仕方ない。
 だが過去があるからこそ、今を考えることには意味がある。
 自分は、ゼフ達に養ってもらっているんだった。ならば、自分はきちんと節度とかいうものを守らねばならない。以前、道場に通っていた時に、師匠に教えてもらったことだ。
 その時は難しくて意味が分からなかったが、今になってみればおぼろげにだが意味が分かる。
 サンジは親じゃない。自分の面倒を見てくれてはいるが、見なくてもいいはずなのだ。サンジも学校に通っている。その上、このレストランで働いてもいる。それだけでも随分と疲れるのではないだろうか。母親は二つ仕事を掛け持って、随分と毎日疲れた様子だった。そんな様を見せないようにはしていたけれど、そんなこと一緒に生活していれば嫌という程わかる。
 サンジだって疲れているはずなのだ。
 それなのに帰ってからは、ゾロの食事の面倒を見て、世話をしようとしている。
 それをここ半年近く、当たり前のように思って享受しまくっていた。それに、今日気付いた。
 嬉しそうに今晩は遊びに行くんだ、と言ったサンジを見て初めて気付いたなんて、本当に自分は子供なんだなと実感する。…本当に、なんで自分はそんなサンジを当たり前だと思ってしまっていたんだろう…。
 金色の髪とくるりと巻いた珍しい眉毛。くるくると自分よりよく変わる表情は、本当に見飽きずに、毎日が楽しかった。
 それを自分が独り占めして当然と思っていたなんて、なんてまあ欲張りだったのか。
「気をつけねぇとな…うん」
 疲れさせないように、自分は気をつけなければならない。
 サンジは自分のものではないのだ。
 自分のものと豪語できた母親でさえ、疲れて疲れていってしまったのだ。もっと自分は注意しなくてはならない。
 ゾロは俯いた。注意しないといけないんだ、そう自分にコンコンと言い聞かす。なんでだか鼻の奥がツンとして、泣きそうな気分になったが、それすら間違っている。泣くとかいう感情を感じる方が嘘だ。最初から、サンジは誰のものでもないのだから。
 なるだけサンジの邪魔はしないように、務めなくてはならない。
 それくらいしか、今の自分にできることはないのだから。
 ゾロはよっと座っていた椅子から飛び降りた。ここの厨房の施設は、とにかく大きい。椅子から降りるのにも、ゾロは飛び降りる形になる。
      それが現実だ。
「ジイさん! ありがとう。帰るよ」
 厨房で指示を出すゼフに向かってそう言うと、ゼフは振り返り頷いた。
 泊まってはいかないと最初に言ってあったから疑問にも思わなかったのだろう。ただ身振りで何かを示す、意味が分からずに怪訝そうにすると、パティが寄ってきて小さな包みを手渡した。
 どうやらこれを持って帰れと言うらしい。
「帰ってから喰え、おやつだ」
 そう言って胸を張るパティに、おう、と頷いて受け取る。
 もう一度ゼフにお礼代わりに手を振って、ゾロは勝手口から外に出た。
 そういえば、ゾロは初めてこのバラティエに来たときに、こんなレストランがあると初めて知って驚いた。今まで自分が立ち入ったこともない、綺麗な場所だったからだ。
 大きなビルの一階を使ったフロアは、テレビでしか見たことがないような場所だった。
 本当にこんな場所があるんだなぁ、と思わず呟いて、その時も二人から頭をやっぱりぐちゃぐちゃにされたのだった。
 要するに、そういうことなのだ。
 表に回り、綺麗な入口から上を見上げゾロはきゅっと口元を引き締めた。
 思った以上に冷たい風が躰をなでて体温を奪っていこうとする。また、冷たい季節がくるのだと、それは告げているかのようだ。
 ゾロはできるだけゆっくりとした足取りになるように、そっと足を踏み出し、今自分が戻るべき場所を目指して歩き出した。





2008.5.17




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