遠くて近い現実
[5]




 バラティエで渡した夜食代わりのおやつが入っていたタッパーが、空になってシンクに置かれている。
 今日は特に忙しい日だったから、あまりゾロに構ってやれなくて、夕飯もバラティエに来させて食べさせることになった。本人はまるでとんちゃくしてはいなかったが、なんとなく自分で自分が許せずに、帰ってから食べろと用意したものを渡したのだ。
 どうやら、きちんと言われた通りに食べたらしい。
 サンジはどこかゆっくりと、奥の部屋へと目線を流す。日付が変わろうかという時間だ、勿論ゾロの姿はどこにもない。
 いるというなら、一番奥の部屋の布団の中だろう。
 ぶるりと震えがきて、サンジは思わず両腕を掌でさすった。
 ただ立っているだけでも、足元から寒さが登ってくる。家は外よりもかなり温かくされていたが、その温もりが少し遠い。それは、温めていたものを消してからある程度の時間がたっている証拠だろう。
 サンジは音を立てないように、リビングのソファへと行くと躰を投げ出すように座り込んだ。
 今日はもう本当に随分と忙しかった。
 時期的なものもある。今、街は素晴らしく綺麗なイルミネーションに溢れ、寒い時期は人が肌寄せ合って歩くのに格好の言い訳とチャンスを与えている。
 自分はといえば、女の子と楽しくする間もなく、昼間は学校帰ってからはバラティエ。もの悲しい気分にならないと言えば嘘になるが、今のこの状態は満足できる代物だった。肉体的には疲れてはいたが、とにかく充実しているのだ。
 正直楽しい。これこそが自分が求めてきたものだという実感がある。
 ふう…と満ち足りたため息をついて、ソファに沈み込むと、もう動きたくなくなった。シャワーはもう店の方でゼフの部屋のを拝借して入ってきた。戻ってから入ると、音が煩くてゾロが起きるかもしれないからだ。…本当はそんな気を使わなくても、一度眠ったゾロはなかなか起きないことは知っている。知っているが、万が一ということもある。
 なんとなく、サンジは指折り数えて日付を確認した。
 最近、ゾロの様子が変わった気がする。
 いつからか…と思い出せば、はっきりと意識できる日がある。
 あの秋口に合コンに行った時からだ。あの日から、ゾロの雰囲気そのものが変わった気がする。
 あの日は本当に、久しぶりに大騒ぎをしてきた。思った以上に可愛い女の子達が沢山いて、そりゃもう天にも昇る気分でサンジははしゃぎ回った。
 まだまだ遊ぼうと誘われて、喜びいさんで誘いに乗ろうと思ったのに。
 思っていたのに。
 本当に誘われたら、あっさりと振り切って帰ってきてしまった。
 ちょっとトイレにと皆から離れた時に、何を思ったのかついGPSでゾロの位置確認をしてしまったのだ。てっきりゾロはバラティエにいるものだと思っていた。多分あの様子なら泊まってくるかもしれないと思っていたし、その最終確認のつもりだった。
 なのに携帯が示したゾロの場所は自宅で。
 その自宅にいるという印を見た瞬間、サンジはいてもたってもいられずに帰ろうと思ってしまったのだ。
 あの家に、ゾロが1人でいるのだと思ったら…どうしても帰りたくなったのだ。
 きっとゾロはいつものあの真っ直ぐな姿で、1人でいるのだ。誰の手も必要ないと言う様子で、1人で家にいて、1人で風呂に入って、1人でテレビを見て、…1人で寝るのだ。
 きっと今までがそうであったように。
 たまらない。
 それがどんなことか、多分ゾロはまるで気付いていない。それが当たり前だったからだ。
 自分と一緒にいるようになってそろそろ10ヶ月以上が経とうとしている。
 当初自分と一緒になった頃のゾロは本当にとまどっていた。とにかく慣れていなかったのだ。それがいつの間にか、もの凄く自然に自分と一緒にいるようになった。ともすれば、二人で昔からずっと一緒に暮らしていたかのような、そんな錯覚すら持ちそうなくらいだったのだ。
 そんな変化が、サンジは楽しくてたまらなかった。
 なのに…。最近のゾロはなんだか変だ。
 変なのに、それが何故なのかが分からない。もどかしい程に、正体が掴めない。
 あの日、バラティエに行くといった時のゾロの顔が、妙にサンジの脳裏に居座っている。まるで何かを悟ったかのような、どこか呆然としたかのような、奇妙に静かな表情。
 あれはなんだったのだろう。
 考えているうちに、瞼が重くなっていく。あ、やばい、と思ったが、もう躰が動かない。随分と寒くなってきているし、このままだと風邪を引いてしまうかもしれない。料理人としてそういう自己管理がなっていないということは、致命傷だ。
 最も、実はサンジは風邪を引いたことなど一度もないのだが。
 自分の頑丈さは自覚している。だからこそ、ちょっとした油断をするようではいけないのだ。
 だがもう…躰が動かない。うーうー、と唸ってみたが、それが最後の抵抗だった。
 すとんと瞼が落ち、サンジの意識は綺麗に落ちた。

 目が覚めたら、重ねられた毛布の中に蹲っていた。
 場所は勿論昨夜意識がなくなったソファだ。ぬくぬくとしていると思ったら、寝ている間にゾロが気付いて毛布を掛けてくれていたらしい。
 ということは、夜中にゾロが自分を見つけてくれたということだ。
 一度寝たらなかなか起きないくせに…と思いつつ、思わず顔がにやける。にやけてはっとした。
「やべっ! 何時だ!?」
 慌てて起き出して時計を見れば、キッチンの方に真っ直ぐな背中があった。
 …あれ?とそのキッチンに立つ少年の姿に違和感を覚える。
 そこにいるのはゾロだ。なのに…なんだろう、本当にゾロなのかと一瞬疑ってしまった。
「お、わりぃ! 寝過ごしたか!?」
 声をかければ、振り返る。緑の短髪は、いつも通りのゾロだ。
「おう、いや、大丈夫だぞ」
 掠れた声に、自分で驚いたのか、んんっと喉を鳴らしゾロは苦笑した。その声の掠れ具合に、サンジの方が驚いた。
「な、おま、風邪でも引いたのかよ? 具合は? 気分悪いとか…」
「大丈夫だって。風邪じゃねぇから心配すんな」
 急いでゾロの側に寄って熱を測ろうとした手を、やんわりとゾロが留める。
 あれ?とサンジはまたしても違和感に眉根を寄せた。
 なんだろう、やっぱりなんか違う。ゾロの雰囲気だけではない、何かが本当に物理的に違う気がする。
 サンジはマジマジとゾロを見つめ、上から下まで見回した。
 そうして、ポン!と思わず手を打ち鳴らした。
「お前、背のびたろ!」
 何を今更…というように、ゾロは苦笑した。
 ここの所、ゾロはめざましいくらいに背が伸びている。おかげで実は関節がギシギシいっているのだが、そんなこと、サンジが知らないのは当然だ。
 とはいえ、それでも同学年の中ではまだ中間より前くらいだ。今までがチビすぎたのかもしれない。
 小学生とはいえ、大きいヤツは大人と同じくらいの背のヤツだっているのだ。それに比べたらまだまだだが、それでもここ暫くで随分と大きくなっているのは確かだ。
 なので実は問題が結構あって、困っている最中だった。あと少しで卒業だというのに、靴も服も小さくなってしまって、上履きとかに不自由しているのだ。
 学校の備品については、先生に相談して、他の子のお下がりなどをわけてもらっていた。もうすぐ卒業なのに、新しいのを買うのもなぁ…と正直に言えば、先生もそりゃそうだと納得して、お古をわけてくれた。なにせ学校には、新しい落とし物とか実は、色々と勿体ないものが沢山あったりするのだ。
 そういうのはみっともない、という人物もいるのは知っているが、ゾロはまったく頓着してないので、それで十分だった。
 ただ服に関してだけはどうしようもないので、それだけはめざとく気付いたゼフに相談して、新しいのを揃えてもらっていた。
 サンジが気付かないのは当然だ。
 なにせサンジの忙しさは、並じゃない。しかも、ゾロが気付かせないようにここのところ、気をつかっている。
 なのにゼフにばれたのは、これはもう経験の差としか言いようがなかった。どうやらサンジを育てた経験から、ゾロの成長をきちんと計っていたらしい。予測がつけられたのも、大きい。こればかりはゾロにも隠しようがなかった。
「…お前…いつの間に…」
「まあ成長期ってヤツなんじゃねぇのかな。まだクラスじゃ小さい方だけどな」
 掠れながらそう言うゾロは、なんとなく困った様子だ。考えてみれば、当然だった。ゾロは小学六年にしては、発育不良を言い渡されたくらい小さかったのだ。
 それが、ここにきて、栄養状態も生活も安定して落ち着いてきた。あの事件からも一年が過ぎようとしている。
 多分、もうそろそろ、病院からも通院卒業が言い渡されるのではないかと…そういえば思っている所だった。
 そんな状態で、成長しない方がおかしい。
 サンジはゾロを呆然と眺め、はっとした。成長…とくれば…
「お前もしかして、声変わりか!?」
 ゾロは困惑したように頷いた。
「医者もそう言ってた。ここ暫くずっとなんかおかしかったんだよなぁ。通院のついでに、聞いてみたらそう言ってたから、風邪じゃねぇ…暫く声がでにくくなるかもだけど、こういうの何回かあるんだろ? ま、気にせずにいくから心配すんな」
 掠れ声が苦笑を伴ってそう告げる。
 本当に、安心させようとしているらしい。
 まただ。サンジはそっと眉根を寄せた。ついこの間まであった、どこか無邪気ですらあった雰囲気がなくなっている。だが、それが完全にないかと言われれば、そうでもない…ような気がする。
 険しい顔をするサンジに何を感じたのか、ゾロはそっとサンジの腕をなだめるように叩く。
 その手が、前にみた時より大きくなっていることを、サンジはぼんやりと実感して、困惑するのを止めることが
できなかった。





2008.5.22




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