遠くて近い現実
[6]




 ゾロが小さい頃から通っていた剣道場に復帰したのは、中学入学と同時だった。
 体調がきちんと戻り、病院からの許可が下りた途端、道場に通ってもいいかと申し出たゾロに、ゼフもサンジも快諾した。
 それまでは、二週に一度は病院へと通わなければいけなかったのだ。あまりゾロには必要はないだろうと思われる、メンタルな部分での通院も重なっていたから余計に時間がかかった。
 それだけゾロの状況が重いものだったと判断されていたのだろう。
 その病院からと小学校と二つ卒業と同時に、中学と剣道場へと入学したようなものだから、帳尻というものは見事に合う。通う場所を鞍替えした形だったが、ゾロはそれを心待ちにしていたのだ。
 ここ暫くでは久々に本気で喜んでいるのが見ていてもわかった。
 ゾロが通う中学には剣道部がなかったので、道場に通えるのは本当に有り難かったらしい。
 できるだけ毎日通うと言ったのだが、まあ道場の都合もある。週に3日という条件でも、ゾロは本当嬉しそうだった。
 体力だけは落とさない! と自主トレだけは実は欠かしていなかったのを、サンジ達は知っていた。
 子供用の竹刀を、似合わなくなった体格になっても毎日振っていたのを見兼ねて、厨房の連中が新しい竹刀を贈ったりした時には、それこそ本当にびっくりしていた。
 絶対に強くなるからな! と約束してからは、益々自主トレを増やして周囲をヤキモキさせたりもしたものだ。
 なのに再び剣道場に入門を許されて、通うようになると分かった時、サンジもゾロも少し複雑な顔をした。
 これまで毎日のようにバラティエに帰ってきていたのが変わる、という事実が二人に奇妙な感慨をもたらしたからだ。
 だが蓋をあければ、結局遅くなってもバラティエに戻るゾロに、仕事で残っているサンジが普通に出迎えるスタイルは変わらなかった。
 だからだろうか、ほっとしたまま、日々は何事もなかったかのように過ぎていく。
 気付けば、ゾロの声は小学生の時に比べて随分と低くなり、口数も減ってきた。だからといって喋らなくなったとか言うのではない。妙な落ち着きのようなものがあらわれ、そうしてゾロはサンジといる時間に妙なけじめのようなものをつけるようになっていた。
「おい、コック」
 何故かゾロはずっとサンジを呼ぶ時には名前では呼ばず、コックと呼ぶ。
 不思議に思ってサンジが何度か尋ねたが、どうやらゾロ自身あまり意識はしていなかったらしく、美味い飯を作るからだと堂々と述べて、思わず気を良くしたサンジが許してしまって今に至っている。
「んだー…」
 テーブルの上で、今日出た学校での課題のレシピをまとめていると、ゾロは邪魔にならないようにサンジに一枚の書類を差し出した。
 サンジもこの春には、調理師の免許を取得している。そのまま進級して専門課程に上がってはいるが、バラティエでの厨房でももう少し踏み込んだ仕事を最近任されるようになり、益々忙しさを増していた。
「お前顔色悪くないか? 大丈夫かよ」
 まだ肌寒いのに、ゾロは上半身裸のままだ。相変わらず気温の変化なんぞまるで関知していない。だが良く見れば、タオルを頭にして躰のあちこちに雫を垂らしている。ということは、風呂上がりに書類を持ってそのまま来たらしい。
 何もかも大きくなっていっているというのに、まっすぐに自分を見る眼差しだけは、変わらない。
 その視線をもろに受け止めてしまって、内心思いっきり動揺した。最近、ゾロ特有のこの視線を受けると、妙に頭に血が上ってしまう。
「え? は? あ? なに? なんだ?」
「本当に大丈夫かよ…、ボケてんな」
 苦笑する姿は出会った時からすると、想像つかない姿だ。
 剣道場に通うようになって、ゾロの体格は飛躍的に分厚くなっていった。背も順調に伸びていっているのに加えて、見事に筋肉がつきだしたのだ。
 なのに見苦しいような感じがしない。
 まだ若いからというのもあるのかもしれないが、成長途中特有の、不思議なバランスがゾロを纏っているようだ。
 だが…ゾロの躰の前面には見事な傷跡がある。成長と共に消えるかと思ったが、さすがに消えることはなく、かえって引きつったような感じになってしまっていて、壮絶な痕となっていた。
 転校した小学校でも、随分と騒がれたらしいことをサンジは人づてに聞いていた。
 中学でも騒がれるだろう。ほとんどが小学校からの持ち上がりとはいえ、中学は近隣の小学校とも併設されているからだ。
 なのにゾロはそんな周囲のことなどまったく頓着せずに、堂々としているらしい。だからこそ、返ってそこまで大きなことにはなっていないようだが。
 ゾロはぼんやりと見ているサンジの視線に、自分の腹を見下ろすと、ニッと笑った。
 その自信に満ちた笑みは、酷く男臭い。
「ヤクザみてぇに笑うんじゃねぇよ」
「うっせぇ。カッコイイだろうが」
 言いながら冷蔵庫を開けると、紙パックの牛乳を取り出してそのまま口をつけた。それはゾロ専用だ。最初の頃はそんな飲み方するなと口酸っぱく言ったのだが、これだけはどうしても治らなかったので、サンジの方が妥協したのだ。
 顎をあげて、飲み干すゾロのまだ線の細さが残る首のラインが妙に目につく。
 慌てたように、でも気づかれないようにサンジはゾロから目線を逸らした。
 もうゾロの頭をわしわしと撫でるには、随分と手を高くあげなくてはならなくなった。だからそういうことも、なかなかできない。
 いつの間にか並べば視線が随分と近くなっていて、見下ろす角度も本当に変わってきている。
 それでもまだ…見下ろせる。
 それが不思議な安堵をサンジにもたらしていた。
「最近根詰めすぎてんじゃねぇか? 休みも少ないみたいだし。ちったぁ、休んだらどうだ?」
 言いながらゾロは口元をぬぐい、本当に心配そうにサンジを覗き込んだ。
「明日がその待望の休みなんだよ」
「よかったな」
 いつの頃からか、ゾロはサンジを気遣うことを覚えた。小学生の頃はゾロと二人で必ず自宅に戻って夕飯を作って食べていたのだが、それも最近はあまりしなくなっている。道場帰りだろうが、学校から直行だろうが、ゾロはバラティエに寄って皆と賄い等を食べていくからだ。時には力仕事を引き受けて、鍛錬だといいつつ荷物を運んだりまでしている。
 気を使っているのかと思いきや、どうやら本当に鍛錬しているつもりらしい。
 いや、やっぱり気を使っているのだろう。何もしない時の方が本当に手持ちぶたさな感じで困惑している感じがする。
 最初の頃はサンジが仕事を上がるのを待っていたりもしたが、それもほんの数日だった。
 すぐにゾロは自分の食事が終わったら帰るようになり。サンジが帰ってみれば、風呂も沸かしてあり必ずおかえりと声をかけてくれる。それでも遅くなって、時々耐えきれずに潰れるようにソファなんかで寝ていても、必ず毛布がかかっていたりする。
 気にかけていてくれるのだと、実感できる。
 ぼうっと見てしまう自分に気付いて、いかんと気を入れ直して差し出されたプリントを見れば、そこには保護者の氏名捺印が必要な書類だった。
「…なんだ、これ」
 よくよく見てみれば、それは近くにある新聞配達所の雇用契約に関する書類だった。
「え? なんだ? お前…バイトするつもりか?」
「おう。新聞配達なんざあんまり金にはならないかもだけどよ、朝ランニングするだけってのもどうかと思って
よ。それなら一石二鳥じゃねぇか。中学生でも問題なくできるって言われたしな」
 おれって頭いいなーと今にも言わんばかりに頷くゾロに、サンジはその場に突っ伏した。
「…極度の…方向音痴が…なにさらす…」
「アホ、ちゃんと近隣の地図とナビをもらうことになってるんだよ! …あのオッサンはおれのこと知ってるからな…」
 悔しそうに言うゾロをチラリと見上げ、サンジは吹き出した。
 そういえば、あの新聞配達所の人達には最初の頃に随分とゾロ探しを手伝ってもらった記憶がある。迷子用携帯を渡してからは、御世話になる数は激減したが…確かに、あそこならゾロを1人で地図だけで歩かせようなどという無謀なことはしないだろう。
 しないだろうが…。
「どこの世界に、新聞配達にナビゲーションもらって走るバカがいるってーんだよ!!ぎゃはははははははは!!」
 腹を抱えて笑ってしまうサンジに、うるせぇと小さく蹴りが入る。
 それをあっさりと蹴り返しで受け、サンジはさらに笑いを深めた。わかっている。これまでゾロは自分達に小遣いを要求することすらしなかった。どうしても買わなくてはならないものがあった時だけ、申告していただけだ。
 買い食いすることも寄り道することもなく、学校と家との往復だけ。日曜祭日も、サンジ達レストランのような飲食業界では稼ぎ時で休みではない。
 日曜などは家で寝ているか、鍛錬と称して素振りやなんかをしているだけ。どこかに行きたいということもないし、遊びに行こうと誘うこともない。
 友達も最初の頃は途中入学なんだからなかなかできないのかと思っていたが、どうやらそういうことでもないらしい。
 ただ付き合いが極端に少ないだけだ。
 サンジが外に遊びにいくことには、かなり賛成しているようなのに。自分が外に出ることはまるでしない。それはいけないことだと考えてる節すらある。
「明日休みなら、どっか遊びにでもいけよ。この間から、なんか可愛い子がとか騒いでたろ」
「…お前は?」
「おれは明日は学校だ。道場もあるしな。夕飯は店の方で食うから。…最近カルネが妙にパスタに凝ってるけど、なんか今一味良くねぇよな」
 いっちょ前に批評などしてみせ、笑う。
 これで…いいのだろうか?
「どうした? サインしてくれ。お前かジイさんのサインがないと、できねぇんだとよ。まったく面倒だよなぁ」
 1人でできれば、きっと何も相談せずにゾロはバイトをするのだろう。
「…お前…欲しいものとかあるのか?」
 ついそう聞いてしまえば、ゾロは不思議そうな顔をした。
「そんなもんねぇぞ? 十分足りてる」
 本当に満足そうに。ゾロは笑う。
 自分の手元にあるものだけで、全てだと言うように。
 それが本当に満足そうで、サンジは胸のどこかが痛むのに気付いた。それは小さい痛みなのに、酷く痛い。
「なのにバイトするのか?」
「おかしいか? さっきも言ったように、ただ走るだけよりいいと思ったんだけどな」
 さらりと言うゾロは本当にあまり深く考えてはいないのか、軽く首を傾げてサンジを真っ直ぐに見返してきた。
「まあ…しいていえば、強くなりてぇ。約束したからな。けどまあ、これはおれが自分でなる。」
 心配するな、と目線が伝える。
 本当にどこでこんな芸当を覚えてきたというのだ。この小僧は。
「けっ、ジジむせぇヤツ。もっとこう、溌剌としたものはねぇのか! 青少年!」
 ほんの一瞬、迷うようにゾロの目が泳いだ。だがそれは俯いたサンジには見えない。
「エロまっしぐらのお前が言ってもなぁ。見本が悪いんじゃねぇの?」
「んだとこらっ!」
 足が出るのをゾロは見事に受け止め、笑いながら頭を拭きつつテーブルから離れた。行きながら「頼むな」という言葉は忘れずに手を振る。
 だがその足をゾロは再び止めた。
「ああ、そうだ。だから別にバイト代はいらねぇから、お前にやるよ。食費とかにすればいいだろ」
「ふっざけんな!! いらねぇよ! お前はそんなこと考えなくていいんだよ!」
 ゾロは軽く肩を竦めると、今度こそひらひらと手を振って歩き出した。
 その姿を見送りサンジはどうすることもできずに、書類へと視線を落とした。
 そういえば…忙しさにかまけて、参観日はほとんどパスしていた。ゾロも強固に来るな言い張っていたのも原因だ。でも、たった一度の小学校の運動会だけは…。
 思い出せば、項垂れてしまうのを止められない。
 なんとか弁当は持っていった。けれどあの時も、お昼だけで急いで戻らねばならなかった。
 その日はバラティエに大口の貸切のパーティの予約が入っていたのだ。
 休みにしていたはずだったのだが、予定外にコックの1人が病気で倒れた為に招集されたのだ。ゼフにしてみても、苦渋の決断だったことは、端で見ていてもわかった。だが、こればかりはどうしようもない。
 慌てて弁当を届けた自分に、ゾロは事情を知って早く戻れと言って自分を追い返した。
 周りでは、色々な家族がたくさん集まって、めいめいご飯を食べているというのに。後ろ髪を引かれる自分に、ゾロは平気そうに手を振って、眠そうに1人で歩いて行っていた。場所取りすらまともにしていなかったから、食べる場所を探しに行ったのかもしれない。
 振り切るようにバラティエに戻って、速攻で仕事をこなして、飛ぶように家に戻った時にはもう夜も遅かった。
 弁当を空にして戻ったゾロは忙しいのを気にしてかバラティエには寄ってはおらず、自宅で1人風呂上がりの姿のままで大の字になって寝ていた。
 その太平楽な姿には、どこにも影が見当たらず、力が抜けたようになってサンジは暫く側に座り込んでゾロを見ていた。
 きっと疲れたのだろう。満足そうにも見える寝顔は本当に、のんきそうで。
 よかった…と、その時は安堵と共に微笑ましく思ったのだが…。
        ゾロは何が足りてるというのだろう。
 サンジは書類を眺めながら、いつまでも考え込んでしまっていた。





2008.5.31




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