遠くて近い現実
[9]




 ゾロが進級した。
 進級できる頭があったんだな、と真顔で成績表を広げたら、酷く嫌そうな顔をしたのがここ最近一番の笑い話だった。


 ふうっと長く紫煙を吐き出し、サンジは手にしたタバコを口元に再度運ぶ。
 休憩中の一服は何者にも代え難い至福の時間を与えてくれるアイテムだ。
 赤点ばかりかと思っていたゾロは、意外なことにそう悪い成績を持って帰ることもなく。
 順位としては中間地点をキープしている。上にも下にもいかないところが、実に微妙だったが、そんなものかもしれないと納得できる所に落ちている所が憎い。
 サンジは再度口に持って行ったタバコをくわえ、ぼんやりと晴れ渡った空を見上げた。
 良い天気だった。青い空は少し霞みがかっているが、春を抜けて初夏を迎えようとしていることを、鮮明にしている。
 バラティエの勝手口から続く外の戸口が、サンジの休憩場所だ。
 大きな樽が壁際にいくつか並んでいるので、その一つに腰を下ろし壁に背を預ければ丁度良い安らぎの場所になる。
 そうしてぼんやりとビルの間からの細い空を眺めるのが、サンジの休憩時の日課になっていた。雨の日は樽に座ることはできないから、勝手口の軒先から雨が落ちる空を見上げる。
 なんとなく、それがサンジのスタイルになってしまっていた。
 室内は禁煙の為に外に出ないとタバコも吸えない。だから当然の選択だったのだが、空を眺めるのは結構楽しくて、この時間もサンジにはなくてはならなくなっている。
 とある年齢からいきがって始めたタバコは、いつしかサンジにはなくてはならないものになっていて。料理人には向いていないとゼフに嫌みったらしく言われながらもやめられずにここまできた。
 室外機の音が煩い。機械が吐き出す生ぬるさを伴った風が、随分外れた位置にいるはずのサンジの金色の髪を揺らしていく。
 室内にはもうクーラーがかかっているのだ。
 本当に時間だけは容赦なく過ぎていくものだと、サンジは嘆息した。
 ゾロが進級する少し前に、サンジも専門学校を卒業した。
 こちらは見事な成績だったことは言うまでもない。
 ぺーバーテストもだが、実技の素晴らしさは卒業式典で賞をもらった程だ。勿論ゾロに大いばりで見せまくったのは、これはもう当然だろう。
 面倒そうにしながらも、ゾロは言葉少なに祝いの言葉をくれたので、サンジ自身はとても満足したのを覚えている。
 卒業式にはゼフが出た。ゾロは学校もあり、卒業式には来なかったのだが、考え見れば当然だろう。まさか、中学生が専門学生の卒業式に来るわけがない。だが…何故かそれを、ゾロはどこか悔しがっていたようで、実は密かに悔しく思っていたサンジを慰めた。
 式には参加できなかったゾロだが、式後にバラティエの面々が行ってくれた卒業パーティには、道場の稽古日を変更して参加してくれた。
 その時に、誕生日のプレゼントと卒業祝いだと懐中時計をプレゼントしてくれたのだ。
 アンティーク風に作られたそれは、秒針でタイムを計ったりもできる優れもので。金色の鎖が長くついた小型の時計は、妙にしっくりとサンジの掌に納まった。
 一見して、それなりの品だということは分かる。
 元々どうせ持つなら良い品を、長く、というのがサンジ自身のポリシーでもあった。それにとても添う代物だ。
 だがゾロが新聞配達でもらったバイト料でまかなうには、かなり高価だとも言える。
 やはり、ゾロはバイト料はほとんど使っていないのだと実感する。別に使うことを推奨しているつもりはないのだが、中学生にしては、質素倹約過ぎるのではないだろうか。
 自分自身の為に、使おうとはまるでしない所を含めて。
 それでも、ぶっきらぼうに渡してくれたプレゼントは、ゾロが一生懸命探してきてくれたモノだと一目見ただけで分かった。だいたいこういうモノを探しだすのは、大の苦手のはずだ。しかも一朝一夕に見つかるようなモノでもない。とすれば、このプレゼントにゾロはどれだけ時間をかけたのだろう。
 学校と道場通いだけで、1日を潰しているような少年が。
 その時間を思えばこそ、サンジは素直に受け取ったのだ。
「ありがとよ、お前にしては、気が利いてる」
「おう」
 嬉しげに礼を言ったサンジに、ゾロはぶっきらぼうにそう言っただけで、他には何も言わなかった。どうやら、礼を言って受け取ってもらえただけで十分だったらしい。
 ゾロには満足そうな雰囲気があった。
 それを感じ取れる自分に、サンジの方こそ満足だったりしたのだが。まあそこはそれ。
 本当なら、ゾロを抱えて振り回してやりたい衝動にかられたりしたのだが、それはぐっと堪えて我慢した。泣きたくなるようなこの感情を、なだめるにはそれくらいしたって足りないと思ったのだ。
 その時のことを思い出しては、ふと口元が綻ぶ。
 そういえば…とブレゼントという流れで思い出すことがある。
 ゾロが初めてバイト料が入った時に、ゼフに贈った小さなプレゼントだ。
 何を贈ったのかとゾロに聞いても全く教えなかったので、後からゼフから聞き出せば、髭用の櫛だったらしい。その時は大爆笑してしまい、ゼフから特大の蹴りを受けたというオチ的記憶がある。
 その後、何を考えてあんなものを贈るのかと盛大に首を傾げたのだが、ある意味ゾロらしい実用品ということだったのかもしれない。
 ゼフはそれを大切に使って、今日も髭を編み込んでいるのだろう。そう思えば今でも笑いがこみ上げてくるのだが、悟られたらまたしても蹴られるので、根性で思い出さないようにしている。けどなんとなく、その二人のありようは、微笑ましくていいんじゃないかとも思っているサンジだ。
 まあ、これを思い出すとさらに芋づる式にその後、残りのバイト料を自分に預ける預けないで大喧嘩したのも思い出すのだが…。
 それも、もうよしとして。
 ズボンのポケットに仕舞われた懐中時計をそっと取り出して掌に包み、サンジは微笑みを深くした。そっと蓋を開けてみれば、細い針がまだ休憩時間があることを告げている。
 今は朝から晩まで、バラティエの厨房で働いているサンジだ。時間など本当はどうでもいい。だが、これがあれば、サンジはゾロが帰ってくる時間を知ることができる。
 ゾロと一緒にいるべき時間を教えてくれるのだ。それはとても大切なことだとサンジは思う。
 特に、今は…。
 サンジは微かに眉根を寄せ、瞳を曇らせた。
 最近、ゾロは益々自分によそよそしくなった気がする。いや、よそよそしくなったというのは違うのかもしれない。
 ただ、酷く遠慮している…そう、そんな気がするのだ。
 思い出そうとしても、いつからかなどは分からない。ただ、それをはっきり自覚したのは、サンジの誕生日だ。卒業式の翌日だったその日、ありがたいことに、仕事は休みのシフトになっていた。
 サンジ自身は普通に仕事に入るつもりだったのだが、皆の好意なのだろう。休みにしてくれていたのだ。
 前日にもらった時計のお礼も兼ねて、二人で夕飯でも…と腕によりをかけようと、どこかウキウキと考えていたのに、その日は突然押しかけてきた友人達に連れ出されてしまった。
 友人を家に呼んだことなど、実はサンジには一度もなかった。家を知ってる者もいたのたが、だからといって家に来ることを許しはしなかったのだ。
 考えてみれば、ゾロも家に誰かを呼んだことはない。
 この家にいるのは、サンジとゾロと、たまにゼフが戻って来るだけだ。
 ゾロはどうだか知らないが、サンジ的にはゾロがいる家に、他の者を入れるのはなんだか違う気がしていたからだ。友人達に会うならば、学校やバラティエで十分だと思っていた。だが、その日、サンジの友人達が来るのを承知したのはその当の本人、ゾロだったらしい。
 なんでもあの展示会の時に、ゾロはサンジの学友から頼まれていたらしい。
 せっかくの二十歳という誕生日だから皆で祝いたい、という申し出にゾロは頷いたのだと言う。
 良い子だな! と酔っぱらって言ってきた友人に、サンジは小さな蹴りをお見舞いした。なんだか無性に腹が立ったのを覚えている。
 その時に理解した。
 だから、ゾロは前日のパーティでブレゼントを渡したのだ。
 自分が意識したりしないように、卒業祝いだ…とわざわざ言い添えて。
 誕生日のプレゼントを。
 自分がその日に祝うことができないと承知していたから。
 後でその時のことを参加してくれていたビビから聞いた。ゾロは詰め寄られた自分達の学友相手に、本当に静かに頷いたらしい。
『喜ぶだろうから、連れ出してやってくれ。せっかくの記念の誕生日だしな。家にいると気が抜けねぇはずだから』
 そう言って、微かに笑ったのだそうだ。
 その時の顔が、なんだか印象に残って…と、ビビは少し複雑そうに微笑んだ。
 確かに、誕生日は本当に楽しかった。皆で大騒ぎをして、就職が決まったもの達とも最後のお別れをして。可愛い女の子達から、たくさんのプレゼントをもらって。電話番号やメアドなんかも聞いたりした。
 そりゃもう天国だった。
 …ゾロが1人で家にいると思わなければ。
 ビビから話を聞いた後では、なおさらだ。
「…進歩ねぇ…」
 前にも同じことがあった。確か、ゾロを引き取って初めて行った合コンの時だ。
 あの時もそうだったが、どうして自分は、ゾロが1人でいることが嫌いなのだろう。
 どうしてここまで、気になるのだろう。
 考えればすぐさま思い出すのは、あの初めてであった時の、小さな小さな後ろ姿だ。
 多分…あれがゾロなんだと思う。凛として、強く真っ直ぐで。なのに酷く、孤独で。すり込まれたといってもいい。あの時のことを思い出せば、駆け寄りたくなる衝動が今でも躰を貫く。
 1人なんじゃねぇんだ、と言って、抱き寄せたくなる。
 だからこそ、一緒にいてやって。バカやって楽しく、暮らしていけたら…そう思っていたのに。ここにきて、なんだか思っていた方向と違う方向に走っているのを確信している自分がいる。
 一緒にいるはずなのに、ゾロはますます1人になっていっているような  そんな気がする。
 何故なのかは分からない。どれだけ一緒にいようとしても、ゾロが遠い。近くに…ならない。
 一緒に暮らしだした頃はそんなことはなかったはずだ。いったいいつからなのだろうか? 何が積み重なって、こうなっていったのだろうか?
 自分は何かを間違ったのか? ならば、どこで?
 小さく思い出すことはいくつもある。だが、いったい…そのどれが、ゾロを変えていったのだろう?
 ゾロが自分を大切にしてくれているのは、不思議に感じ取れる。それどころか、何かあったら真っ先にゾロは自分を手助けに来てくれるだろうという絶大な自信すらある。あの出会いの時のように。ためらいもなく、ゾロは自分の前に飛び出していくだろう。
 勿論自分だって、ゾロがもし大変な場面になったら、意地でも飛び出していく。それは絶対だ。
 なのに…。
 サンジは深々と吸い込んだタバコを、空に筋をつけようとするように吐き出した。
 自分には、ゾロが何かあった時に駆けつけられる自信がない。
 ゾロが何かあった時に、それを知ることができるのか。それからして、今は自信が持てないのだ。

     差し出がましいとは思うんです。でも、サンジさん。多分、あの子なにか考え違いをしているような気がします。
 ああいう言い方したら、ダメなんだと思うんです。
 上手くいえませんが…誤解してます。きっと。何かを。だから、サンジさん、ちゃんと話してあげてください。
 バラティエの為ではなくて、あの子の為にサンジさんは話しているってことを。

 展示会の時に、そう告げたビビの言葉が脳裏を過ぎる。
 鋭い所のあるビビは、ゾロと出会ったその少しの間に、ゾロの人となりを見抜いたのかもしれない。
 妙に心配そうに教えてくれた事に、その時は礼を言ってやり過ごしたのだが…。もっと詳しく聞いておくべきだったのかもしれない。
 思い出せばあの後、サンジが饗して教えた食事のマナーを学ぶゾロは、ひたむきというか一生懸命だった。
 慣れないものに仏頂面をしながらも、教えることはきちんと覚えようとしていた。
 こいつはこいつなりに、必死に自分の言うことを理解してくれているのだと、とても満足していたのに。あれも、ビビが言うように、誤解していたのだろうか。
 話をしたい。
 ゾロと。
 毎日一緒にいるのに、最近、二人でゆっくりできる時間が少ない。ほとんどないに等しい。
 学生でなくなるだけで、自分自身はなんら変わらないと思っていたのに、本格的に仕事をしだした途端、色々なものが変わっていくことに気付いた。
 その変化と厳しさと楽しさについていくのが必死で、サンジにも余裕がない。
 そしてゾロはそれに気付いているのだ。
 だから…。
「おい、サンジ! お前夕方からの予約のメニューの変更聞いてるか?」
 勝手口から顔を出したパティに、サンジは「ああ?」と不機嫌に返事を返す。
「聞いてねぇぞ、おい。仕込み終わってるっつーのに! 変更?」
「なんでも1人に食物アレルギーあるんだとよ。さっき連絡入った」
「そりゃダメだ。急がねぇとな。時間かかるもんだったら、組み直しだろう」
 言いながら、懐中時計を開いて時間を確認し、サンジはそれをポケットに戻す。
 パティの後を追いながら、サンジはタバコをもみ消して携帯灰皿に終い、樽から飛び降りた。
 話を…しなくては。
 そう思いつつ、今はと無理矢理サンジは目の前の仕事へと頭を切り換えるべく、一つ大きく息をついた。







2008.7.12





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