遠くて近い現実
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 最悪、と思うことは多々あるものだ。
 だがこういうのはどういうもんだろう? と本気で首を傾げたくなる。
 夏休みというものが学生にはあって、それは確かに去年までのサンジにはあった。だが、今年からは全くなくなったので意識すらしなかったのに、ゾロにはあるのだ。
 ということは、ゾロは昼食も食べることになる。去年までは、サンジはまだバイトの身だったので、結構自由に家に戻って二人分の昼食を用意して食べたりしていたのだが、今年は無理だ。
 そうなれば、必然的にゾロはサンジがお弁当を作るか、バラティエに来るかしか選択がなくなる。買い食い、コンビニ弁当の類は厳しくサンジが禁止令を出しているので、ゾロにはそれしか選択しようがないのだ。
 道場に行く時は、時折道場の師匠宅でお昼などをもらうこともあるみたいだが、それもあまりしようとしないゾロは結局バラティエに昼も夜も通うようになる。
 そうなると、勿論昼間暇そうにしている小僧1人をこの忙しい職場の面々が黙って見逃すはずもなく。
 結局ゾロは下働きの下働きみたいな、そんなことを手伝わされ始めていた。
 わかっていることだが、厨房関係は無理だ。皿洗いくらいはできるが、なんとなくそれも見ているとハラハラする、という厨房一同の意見が一致して、今までは荷物運び等々の力仕事をさせられていたのだが。今日は本当に最悪の部類に入った。
 サンジはチラリと厨房から見える隠しガラスから店内を見た。
 そこには見慣れた緑の頭が、動いている様子が伺える。
      フロアに出されたのだ。
 どうしても今日はフロアの人数が足りなかったのだ。夏風邪を引いたバイトの女の子に、夏休みで帰省した子もいたりとヘルプ要請をしても、捕まる子も少なく。その子達でさえ用事があって、来られないと連絡が続けば無理もいえず。
 それでも、暫くは厨房のコックがまかなって出たりもしていたのだが、追いつかないことこの上なし。
 しかも、何故かこのバラティエのコックは見た目も素性も荒くれ者めいた者が多い。
 フロアに出るには物騒で客受けが良くなかったりするので、極力でないようにという暗黙の了解があったりするのだ。
 しかしそんな料理人の見かけと反比例するように、味の良さと値段のリーズナブルさが受けているバラティエは、店構えの雰囲気と違って妙に人を選別しない来やすさがあるらしい。
 おかげで、日々、昼夜を問わずお客には溢れていた。
 ランチタイムなどは本当に戦場のような忙しさになる程に。
 フロアに出るウェイター達は、勿論本来はそれなりに洗練された者達なのだ。
 だが、結局は店のカラーというのか、どこか砕けた所もあったりしている。だからこそ、そうそう難しいことをさせないという条件で、ゾロが出されるのもおかしくはないのかもしれない。
 だが、見てるサンジにしてみれば、とにかく最悪だとしか思えない。
 面白がってバイトのフロア用のシャツとズボンと靴を着けさせ、戦場に放り出した他のコックは、とにかく働くゾロを面白そうに冷やかしているが、サンジにしてみれば胃が痛いだけだ。
 どこかでポカがないかとハラハラするはずなのに、なんだかそれ以外でも妙にざわざわとした物が胃の辺りに漂っていて、気が休まらない。
 それには、ゾロの姿もあるのかもしれなかった。
 休みのバイト生は、身長が160センチの半ばはあったはずだ。だが、借りてシャツを着たゾロはまだ確かに少し大きかったものの、そこまで見苦しくない程度には合わせることができていた。
 白いシャツに黒のズボンを穿き、フロア専用の黒のエプロンを着けて皆の前に出てきた時には、思わずポカンと全員がゾロを見てしまった。
 今の今まで、皆、小さい頃のゾロを引きずっていたのだとそれで知れた。
 気付けば、中学二年生。その標準にはゾロはとっくに追いついていたのだ。
 サンジが心を砕いて栄養バランスの取れた食事を与え続けた成果は、見事に果たされていたと言えよう。あの小さかった小学生の頃からすると、段違いに躰ができている。そのことに、ここにきて全員がようやく悟ったのだ。
 筋肉のついた肢体は、服の上からでも分かるくらいにしなやかで引き締まっている。まだまだこれからだと思わせる、まるで爆発的な何かを内包したかのような溌剌とした若さを滲ませる体躯。
 いつの間にか頬の丸みも取れてきて、鋭さが増し始めている。強面の面構えはどうしようもなかったが、それでも睨むことをしなければ、そこまで人を脅えさせたりするようなものではない。
 背筋の良い少年に、妙にフロア服が似合ったのも意外だった。
 着崩したらいっぺんでチンピラになりそうな危うさもあったが、きちんとさせている分には、文句はない。
 こりゃいい! と言い出したコック達に即席で仕事を教えられたゾロだったが、これまでずっと店の仕事を見てきたせいか恐ろしく呑み込みが早かった。
「いらっしゃいませ」
 低い声でドアが開くと同時に声をかけて、顔を上げる。
 なんというかゾロには不思議な面があって、ドアを客が開ける前に察知しているのではないかと思えるタイミングで声をかける。
 それはあちこちで発揮されて、お冷やを欲しいと思ってる客を見つけたり、追加オーダーや、なにか手助けを呼びたいと思ってる客を見つけるのが得意だったりした。コックや本職のウェイターならそれも分かるが、どうも自分達とは違う部分でそういう客の呼吸めいたものを掴むことができるらしい。
 入ってきたのは、二人づれの女性客だった。ゾロを見てちょっと目を見開いた若い女性を、そつなくテーブルに案内する動きは、静かで隙がない。
 それはどう見てもウェイターの動きではないのだが、そのことに気付く者がいるはずもなく。また、そんなことはどうでもいいというのも確かで。結局は即戦力扱いされている。
 だがまあ確かに慣れてはいないのだ。なのでやってることは、殆ど空いてる席への案内と皿を下げることだけだ。
 何度か練習した時に運ばせてみたのだが、テーブル間違いが異常に多かったのだ。器用なのか不器用なのか、判断できかねたが、ゾロは文句も言わずに手伝っている。
「何ぼーっとしてんだ? コック。ラストオーダー、Aランチ二つ」
 耳慣れた声が、間近でオーダーを告げるのにはっとした。
「あ、おう」
 バラティエの昼間の営業では、ランチ二種をメインに他は軽いメニューと飲み物だけになっている。なのでオーダーは取りやすい。
 チラリとフロアを見れば、もう客の姿もまばらになっており、確かに昼の営業最後の客が今の二人連れだろうとわかる。
「…店では、メロメロあんましないんだな。前から思ってたけどよ」
 ふとまだ側にいたゾロが囁くような声でそう告げるのに驚いて目をやると、ゾロはどこか満足そうに自分を見ていた。
 厨房の入口からだから、外からは見えにくいという微妙な場所で、ゾロがそんな軽口を叩くのをなんだか呆然と見てしまう。
「仕事だからな」
 呆然としつつもそう答えると、うん、と一つ頷く。相変わらず真っ直ぐにサンジを見て、ゾロは久しぶりに隠すことない笑みを浮かべた。
「やっぱお前、すげーよな」
 ぽかんと口を開けてしまったサンジに、遠くからゼフの檄が飛ぶ。
「何呆けてやがる、チビナス!!」
「チビナス言うな、クソジジイ!」
 言い返しながら反射的にゾロから目を逸らして手元の食材を見ると、苦笑したような気配がした。
「…悪かったな」
 小さな声が届き、いてもたってもいられずにもう一度ゾロの方を見ると、もうそこにゾロの姿はなかった。
 慌ててフロアを見れば、丁度席を立ったお客の後のテーブルを片づけに行こうとしている後ろ姿があった。凛とした背筋は真っ直ぐで、歩いているだけでも妙に目がいく。
 自分だけかと思ったら、どうもお客達にも、目に付く者達がいるようで、少なくなった客のうちの何人かがゾロを見ているのがわかった。
「いてっ」
 ちっと、唇の端に痛みを感じて、自分が無意識に唇を噛みしめていたことに気付いた。
 慌ててゾロの背中から目を逸らし、手元の食材に神経を注ぐ。今は他のことに気を取られてる暇はないのだから。








ちょっと短いですが、一夏が始まります(笑)2008.7.19



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