遠くて近い現実
[11]





 最後の客を送り出して、片づけを終え。
 夕方の営業の仕込み前には、2時間ほどの昼休みがある。住み込みの者なら部屋に戻って休むもよし、出かける者もいたりとその点はとにかく自由なのが有り難い時間だ。
 サンジは湯気をたてる皿を両手に、今は人もいない店へと足を進める。一通り片づけをして、夜に供えた店は店じまいの時とは違って、どこかそわそわするような空気を孕んだまま、不思議に静かな空間になっていた。
 その一角、カウンターの真ん中辺りの席にはウェイター姿の少年がいた。どこか必死な様子で、ガツガツと昼食を食べているゾロの隣に持ってきた皿の一つを置くと、チラリと視線が流れてくる。
 それに苦笑で返し、サンジは自分もゾロの隣のスツールを引き出しながらもう一つの皿を自分の前に置く。
「足りねぇだろう。頑張った子にはご褒美だ」
「おう、ありがとう」
 基本バラティエでは、昼営業の前に昼食は終わらせている。仕込みの間に今日の当番か、ゼフが指名した者が作っているのだ。それを仕事の前に食べて、自分達の体調を整えて本格的な仕事にかかる。
 だが、今日はゾロは昼を食べにバラティエに顔を出した途端、皆に捕まって着替えだ仕事の仕方だと振り回されて、気付けば昼も食べずに営業時間に突入していたのだ。
 そうとう腹が減っていたのだろう、休憩時間になった途端、喰う物ないかと今日の賄い担当のカルネに詰め寄って行ったので全員がゾロが昼を食べ損ねていたのを思い出した。
 特にサンジは血相を変えて、なんでそれを先におれに言わないんだと喚いてカウンターにゾロを蹴り飛ばし、片づけていた厨房に立ったのだ。
 先に出されていたランチの残りの食材で作った皿は、もう空になっている。新しい皿に手を伸ばすゾロを見ながら、サンジは自分の料理を平らげるゾロをどこかぼんやりと見つめた。
 いつもバラティエで食事をする時は、必ず賄い料理の他に一品サンジが料理を追加して作る。賄いは確かに色々な食材で栄養価も考えてつくられてはいるが、どうしても成長期のゾロのことを考えると足りないものがある気がして、落ち着かなかったからだ。実際量も足りてなかったのだろう、食事に関しては遠慮するなというゼフとサンジの教育の賜物は見事に生きていて、ゾロは毎回礼を言ってはサンジの料理を受け取って平らげていた。
 どんな時でもだ。
 そういえば、ゾロはサンジが出した食事を残したことはない。それにふと、今気付いた。
「…見てねぇで、お前も喰えよ。それ喰うつもりで持ってきたんだろ?」
 不思議そうに咀嚼していたものを飲み込み、箸でサンジの前の皿を差すゾロにサンジは眉間をしかめつつ、頷いた。
「当然だ」
「ジイさんは?」
「さあな。さっき見た時はどこにもいなかったから、上にでも戻ってるんじゃねぇか?」
「…相変わらずだな…ジイさんは」
 軽口をたたき合いながら、サンジは目の前の皿を引き寄せた。今日の夜メニューで出す予定のデザートの試しだ。大雑把に盛ったアイスへとスプーンを差し込めば、クリームが柔らかく銀色をくわえ込んだ。
 味を確かめながら、大丈夫そうだと隣へ視線を流せば、やはり一身に食べてるゾロがそこにはいる。
 ゾロはまだフロア服のままだ。どうせ今日は持ち帰って洗わなくてはならないのだから、汚しても構わないといえば構わない。だが、食事で服を汚すことはゾロには考えられない。
 不思議と綺麗にものを食べるゾロは、見ていて気持ちがいい。例えがっついていても、割合綺麗に静かにゾロは食べる。なので、気付けば思いがけない量を食べていたりして、時々驚かされることがあったりするのだが。
 それも育ち盛りの特権なのかもしれない。
 堂々と皿を少し避けて肩肘をつきゾロを見れば、マイペースに食べ続ける姿が目に入る。なんだかもう、しょうがない程に一生懸命目の前の食事に集中している姿は、やはり小さい時のままだ。
 だが…小さいままではない。
「どうした?」
 サンジがマジマジと自分を見ているのに気付いても、食べるのを止めずに流し目で伺うゾロは本当に落ち着いている。それは子供の持つ表情ではない気がする。
「…そうでもねぇか…」
 いや、元々そういう仕草はしていたような気もする。ただ、年齢と小さい体躯に仕草が釣り合ってなかっただけなのかもしれない。
「んだ? 本当にどうした?」
 手を止めて、本格的にこちらを向いたゾロはいぶかしげだ。だがサンジはなんとなくボウッとした様で、ゾロを見続けている。
 並んだときの肩の位置は、また近くなってきている。本当に毎日成長していっているのだろう。一日一日で、違ってくる。
 サンジへと伸ばされる掌は、この間よりも大きくなっている気がする。
 顔に近づいてきたら、放射するような熱が当たり、不思議と温かいと思ってしまう。
「コック?」
 ほんの少し目を細めるゾロの顔が、近づいてくる。掌が頬に重なりくるみこむ。
 不思議に肌に馴染んでくる熱に、サンジは肩から力が抜けそうになった。
 ぬくい掌に包まれた頬に、時折固くカサカサしたものが掠める。多分竹刀ダコかなんかだろう。毎日竹刀を振る姿は、本当にいつも真っ直ぐで、ゾロにはとても似合っている気がして、サンジはそれを見るのが嫌いではない。
 なのに、覗き込むようにさらに近づいてくるゾロの顔に、ほんの少し憂いの色が見える。
 どんな表情だよ、と思いつつ、そういえばこういう表情は出会ってからこっち、良く見せていた記憶がある。
 今こうやって改めてみれば、ふとした時に見せる表情に最近精悍さが増してきているような、そんな…気もする。
 少年から     青年へと移行する間際。
 それは特にゾロという少年には危ういバランスをもたらす、魅力だと……。
 コツンと額に新たな熱が加わり、固いものが重なる。え? と目を瞬かせたサンジは、不意に本当に間近に迫った真っ直ぐな瞳がじっと自分を見ていることに気付いた。
 大きく一つ心臓が跳ねた。
 今までで一番大きく跳ねた気がしたが、それは何故だろう。
「本当に大丈夫か? コック? 熱はないようだけどよ」
 間近も間近でゾロの声が脳天に響く。肌から震えるように声が響いた瞬間、正気に返った。
「うわっ! なにしやがる!!」
 思い切り仰け反ったサンジはバランスを崩した。カウンターの小さなスツールから、そのまま腕を泳がせてずり落ちそうになった瞬間、回ってきた腕が力強く背中からの落下を抱き留めた。
「おまっ、危ねぇな! 急に動くな!」
 言いながら思わぬ力で引き上げてくる。熱さが全身をくるんだ。スツールに座りなおさせる腕には、迷いも震えもない。
 反撃するのも忘れて、サンジはスツールに再び座り込んだ。
「…あー、わり…」
 なんだかもう本当に呆然とするしかなくて、ただそう言うしかできないサンジに、ゾロはため息をついて自分も席に座り直した。
「ボケてんなよ、コック。…昼間いつにも増して客多かったみたいだしな、疲れたのか?」
「あれくらいで、んなわけあるか」
 口にしながら、なんとなくゾロの腕を見る。
「…お前随分力強くなったなぁ…」
 ゾロは不思議そうに自分の両の掌を広げて見比べ、そうか? と素直に首を傾げた。
「こんなもんじゃねぇのか? もうちっと筋力つけたいんでずっと筋トレはしてるけどよ」
「今度から、お前には、筋力作るのにも必要なもんを喰わせてやるよ」
 さらっと言われた一言に、ゾロの瞳が鋭い光を宿した。
「大丈夫なのか? お前本当に。さっきからボウっとしてるしよ。無理はしなくていいんだからな。飯ならここ来て喰わせてもらってもいいんだ。…ええっと…いいんだよな。ジイさん言いっつったしな。だから、あんまり気にしなくていいんだぜ?」
 負担になってるんじゃないか?
 そう問いかけてるような気がして、サンジは目を見開いた。
「はあ? 何言ってやがる、飯作るのが負担になるかよ。飯作るのはおれにしてみれば、息するようなもんなんだぜ? 妙な気を回すくらいなら、喰いたいものとか強請ってみろってんだ。その方がおれにはよっぽど息抜きになるってんだ」
「そうなのか?」
 こっちが驚いたといわんぱかりに問い返すゾロに、サンジの方が呆れたように息を吐いて天井を見上げた。
「…てめぇ…今まで何見てやがったんだ。おれが料理するのに疲れた様子見せたことあるかよ。ありゃおれの唯一にして絶対の楽しみなんだっつの」
 本気で目を丸くしているらしい。ゾロは珍しく年相応の子供のような顔でサンジを見ている。
 それを見て、やっとサンジは深い息をついた。
 何故だろう、本気で躰から力が抜けていくように…安堵した。
 ゾロはまだ、子供だ。だから今、自分が何をしたのか分かっていないはずなのだ。
「チビナス! いちゃいちゃ遊ぶのは大概にして、さっさと片づけねぇか!」
「チビナスじゃねぇって、何度言えば分かるんだ、この耄碌ジジイ!」
 一瞬で青筋立てて睨み付ける変わり身を披露し、サンジはいつの間に来たのか、カウンターに寄りかかって立つゼフへと躰事向き直った。
「しかも、いちゃいちゃとはなんだ! それは美女との逢瀬にのみ活用するもんだってんだ!」
 他の者なら裸足で逃げ出しそうなくらい物騒に睨み付けるサンジを、ゼフは皮肉気に見下ろし、鼻でせせら笑って、視線を外した。
 その仕草にサンジが切れて立ち上がるより早く、ゼフは唖然とした様子で固まっているゾロに目をやった。
「おい、小僧」
 その問いかけに素直に顔を上げたゾロに、ゼフはほんの少し苦いものを噛んだような顔をした。
「…さっきおめぇ、デコくっつけてたな、このチビナスと」
 ゾロは真っ直ぐにゼフを見上げたまま、一つ頷いた。反射的に、サンジの瞳がうろたえたように、ゾロとゼフの間を彷徨う。別にそんなおかしいことではなかったはずだ。なのにゼフの口から言われると、無性に腹の底が落ち着かない気がしたのだ。
「なんでそうした?」
「ああ? 熱計るからだが。…なんかおかしいのか?」
 最後の方はサンジの方へと問いかけ、ゾロは思い切り不思議そうな顔をした。
 今日はよく、この表情が見られるな、とどこか見当違いなことを考えつつ、サンジは真面目に答えた。
「いや、額合わせて熱計るってのは、まあ、確かにあるけどよ…」
「お前、今までそうやって熱計ってきたのか?」
 どこか面白そうに問いかけるゼフに、「まさか!」と答えたサンジとは逆に、ゾロは「ああ」とこともなげに答えた。
 そしてどこかあらぬ方を見るように顎を少しだけあげ、遠くへと視線を飛ばした。
「…おれが計ったことはねぇけどよ。熱はそうやって計ってたぜ? そういや、お前にもしたことなかったなぁ、今のが初めてか?」
 聞いてくるゾロに、サンジは嫌そうに答えた。
「おれに聞くな、おれに。熱なんざ誰が出すか。おれは健康体だ!」
「だよな…でもよ、顔色悪い時とか、声かけたら、額合わせて熱計ってたんだよな。おれの額が冷たく感じたら、まずいから寝る。温かかったら、普通だから平気。とか言って…まあ、大概平気だっつってたけどな」
 主語はない。ないが誰のことを話しているのかは、すぐに分かった。
 ゾロと暮らしていた人は、過去には1人しか存在しない。
「おれは体温が高いらしいな。…入院してる時に知った」
 どこか微かに自嘲した風に口元を歪め、まだ遠くを見ているようにゾロは視線を飛ばし続けた。そういう時にも、彼の目は揺らがない。
「わかってたんだろうな。おれがそれで安心すると思って。デコ毎晩くっつけて、熱計って……」
 どこか焦点のあっていない瞳が、それでも直線を思わせる真っ直ぐさでサンジを捕らえた。
 ほんの少し、サンジを見つめ、
「…ああ…そうか」
 ぽつりと、呟いた。
 瞳に力が戻ってくる。わずかに緩んでいた視線が、ゆっくりと本来のゾロの強さを帯びてサンジを貫く。
「…そうだよな」
 何かがサンジの琴線に触れた。何だろう、一瞬にして記憶が揺さぶられる。この瞳の、まるでてらいのない強さ。
 確かにどこかで、自分は見たことがある。
 うん、と納得したように、ゾロは頷いた。頷いて、すっきりしたように、笑った。
 自然と、サンジの眉間が寄せられた。なんだろう、もの凄く嫌な予感がする。なのに、それがなんなのか掴みかねていると、ゾロは1人納得したようにゼフを見た。
「熱計るのに、デコくっつけることは、普通しねぇんだ。そうだろ? ジイさん」
 ゼフはその一部始終を黙って見つめ、それでもゾロの問いには頷いた。
「そうだな、小さな子供にする親はいるかもだが、普通はあんまりするもんじゃねぇな」
「熱計るなら、体温計ってもんがあるもんな…病院で使ったときゃ、毎回熱だって言われて閉口したけどよ」
 ゾロはうんうんと頷き、サンジに向き直った。
「だからお前あんなに驚いたんだな。もうしねぇよ。悪かったな」
「………」
 答えないサンジを少しいぶかしげに見たが、ゾロはそれ以上何も言わずに、残っていた料理に向き直った。
 そうして何事もなかったかのように、目の前の冷えた料理を平らげていく。それはあまりにもいつも通りな食べ方で、サンジは混乱を深くする。
 ゾロを凝視するサンジと普通に食べるゾロを見つめ、ゼフはわずかに口元を引き締めた。
「…おい、チビナスてめぇは後でおれの部屋にこい。それから小僧」
 鋭くゼフを見たサンジが、舌打ちしつつ、頷いて了承する。食べていたゾロは頬を大きく膨らませながら、ゼフを見上げた。
「お前、辛かったら、いつでもこっちに来てもいいんだぞ」
 さっと顔を青ざめさせたサンジとは対照的に、ゾロは片目を眇めた。意味が分からなかったらしい。
「…辛い?」
 不明瞭に呟きながら暫く咀嚼し、大きく呑み込んで口の中を空にする。それで最後まで食べ尽くしてしまった食器を前に手を合わせ、きちんと挨拶してからゾロはゼフを見直した。
「…辛い? 何がだ? おれは辛いと思ったことは、一度もねぇぞ?」
 ゼフはほんの少し面白そうに、しかしどこか真剣にゾロを見つつ、躰を預けていたカウンターから離れた。
 腕を組み、やや胸をはるようにして、再度通告するように告げる。
「一度も? 今までか?」
「ああ」
 平然と肯定し、ゾロはスツールから下りた。
「美味かった。んじゃ、おれは昼からは道場あるから、行ってくる」
 食べ終わった皿を重ねて持つと、ゾロは二人を見比べて、視線だけでいいんだろ? と問うてくる。それにゼフが頷くと、ゾロはなんだか妙な感じだなと思ってることを隠すことなく、居心地悪そうな表情で厨房に入っていった。
 皿をシンクに置く音と、パティがゾロを呼ぶ声が続いて、賑やかに迎える声が壁一枚を隔てた奥から響いてくる。
 それがどうにも遠く感じて、サンジはどこか呆然とゾロが去った方を見やる。
「…失敗したかもしれんな…」
 ぽつり、と呟くゼフに、サンジの瞳がのろのろと彼へと戻る。
 そのサンジを見返し、ゼフはどこか苦々しい表情で腕を解いた。
「お前は、絶対後でおれの所に来い。今日は遅くなってもだ」
 言いつけ、ゼフは踵を返す。
「あ、おい、なんなんだよ、そりゃ!」
 言い募るサンジを背に、厨房に戻るゼフは振り返らない。
 1人残されたサンジは、冷えた皿を横目にずるずるとカウンターに突っ伏すと、ゆっくりと頭を抱えた。

 今はとにかく、何も…考えることすら、できなかった。







2008.7.27




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