遠くて近い現実
[12]






 最後の客を送り出し、手早く片付けをすませると、いつもと同じくらいの時間だった。
 ラストオーダーから2時間。だいたい目安的にはそのくらいだ。
 帰りの挨拶を交わす仲間達を尻目に、コックコートを脱ぎ捨てたサンジはロッカーから荷物を引っ張り出すと、急いでまとめ上げた。
 小脇に抱えるように持つと挨拶もそこそこ、上階に続く内勤者用のエレベーターへと向かう。
「おい、最後のヤツカギ頼むな!」
 それだけを言い置いて、慌てたように開いた扉に飛び込んだ。
 気持ちが急いていた。とにかく今はゼフの所に行かねばならない。そうでなくては、自分の方がどうにかなりそうだ。
 昼間の出来事からこっち、よくもまあ、ミスをせずに仕事を済ませることができたもんだと自分で感心する。
 ゾロは今晩は道場主の好意で、仲間達と焼き肉会になったと連絡が入り、パラティエには来なかった。それもほんの少しサンジに安定をもたらせていた。今顔を合わせれば、なんだか気まずい空気が流れるのを、避けようがない気がしたのだ。
 ゼフの部屋まで小走りで行き、呼び鈴を鳴らし勝手知ったるとばかりにカギを開ける。
「はいるぜー」
 言いながらもう入って、後ろ手にドアを閉めた。
 ひんやりとした心地よい空気がサンジを包む。暑くもなく寒くもない温度設定にされた部屋に、ほのかに香る料理の匂い。そこにどこかゼフの気配が漂い、無条件にサンジに吐息をつかせる。
 ささくれだった気持ちに、ほっと一息つくことができるような。
「なに突っ立ってやがる、さっさとこっちに来い。目障りで仕方ねぇ」
 いつもの憎まれ口が奥の部屋から飛ぶ。慌ててそちらを見れば、マグカップを片手にゼフが呆れたようにこちらを見ていた。
「今いくとこだよ、ジジイはせっかちでいけねぇ」
 これもいつものようについ、反論を口にしてサンジはずかずかと上がり込んだ。
 部屋に入るとすれ違い様差し出されたマグカップを受け取る。ふわりと鼻孔を掠めるフルーツの香りに、目線を下ろせば綺麗な琥珀色が揺れている。
 ゼフが自分で調合している紅茶だ。
 黙ってサンジはそれを口に含む。程よい渋みとほのかな甘みを含んだ爽やかな香りが喉をすり抜けた。
 舌打ちしたくなる。サンジが好きな味だった。
 きちんとした話をしようとする時や、自分がテンパっている時などに、ゼフが出してくる代物だ。小さい頃はミルクティだった。いつからミルクがなくなったのかと思い出せば、自分がバラティエの厨房に出入りを許された頃だとすぐに思い出せる。
 サンジは何かを吐き出すように長く息をつくと、近くのソファに躰を投げ出すように腰を下ろした。
 懐柔されてる気がするが、それでもたった一杯の紅茶でサンジは安心してまっていた。ここに来るまでに感じていた焦りが、落ち着いてるのが分かる。それが紅茶だけのせいではないことも確かだ。ここには、無条件に自分を包む空気がある。
 それが気に入らないのは、多分サンジの甘えなのだろう。自覚はしている。だからこそ、サンジはゼフに甘えることを良しとできない。
 内心葛藤しながら、それでも1日の業務と気付かれで重くなった躰は素直に、ソファに沈んでいく。
 だらんと弛緩したまま、ソファに埋もれた姿を戻すこともできない。本当に今日は疲れていた。
 紅茶をこぼさないようにもう一度口に運べば、まるでそのタイミングを計っていたかのように、ゼフが向かいに座った。
 ゼフの手元には、ショットグラス。琥珀色した液体が、ゆったりと揺れている。
「…飲んだくれてんのかよ」
「ガキじゃねぇんでな」
「年寄りの冷や水は後々くるぜ」
「相変わらず口だけは減らねぇな、テメェは」
「おかげさんで!」
「その調子で、話してんのか?」
 やんわりと言われた言葉に、サンジの口がピタリと止まる。
 誰と、何を、話しているのかと問われたのか、しっかりと分かったからだ。
 黙ってしまった口を潤すように紅茶をすするサンジを見据えるゼフは、一つ大きなため息を零すと自分もグラスを煽った。
「お前等普段どんな風にしてるんだ」
 静かに聞いてくる声音に、サンジはゆっくりとゼフを見上げた。
「…ゾロから聞いてるんじゃねぇの?」
 今までそんな普段の様子など、ゼフは聞いてきたことはなかった。ただ、時折、ゾロと何か話していることはあった。その内容は二人からそれとなく聞いている。学校のことや、道場のこと、ゾロの生活のことが主だった。
 ただ、内容全部を二人が話しているのではないことも、サンジは知っていた。
「お前に、聞いてるんだよ、クソナス」
「ナスじゃねぇ、老いぼれ!」
 もう反論するのは、条件反射だ。ふふん、と鼻で笑われ、むっと口をつぐむサンジにゼフは背もたれに躰を預けて、微かに天井を仰いだ。無言で話せと促されている。
「普通だよ。朝はあいつが新聞配達に行った後に俺が起きて、朝食作って。朝だけは一緒に食べてる。それからは…あいつは普段は学校だし俺はここだしな。ここで合ってる時間の方が長いんじゃねぇかってくらいだぜ。俺が帰った時には、あいつは寝てるしな。あの寝腐れ野郎が早起きするには、相当の早寝が必要だろうし」
 口にすれば、最近のゾロとの接点のあまりの少なさに己で愕然としてしまう。
 バラティエで会ってる時間の方が本当に長いのではないだろうか。たまにサンジがソファで潰れている時には、相変わらず上掛けが掛かっていたりするので、たまにゾロが起き出しているのは分かる。ゾロはゾロなりに、多分自分のことを案じて様子を見ているのだろうが、真夜中のことなんか意識したことはなかった。
 ゾロの学校行事に関しては、ゼフが受け持っている。授業参観、PTA関係、家庭訪問、面談、どっちにしろ大半は参加していないことも知っているが、それも仕方ないことと周囲には認知されているらしい。
「…ここんとこ、おれもあいつも少し余裕がなかったからな…きちんと話をしようと思ってはいたところだけどよ…」
 どこか力なくそう呟けば、ゼフの呆れたような声が続いた。
「つまりまったく、別々に動いていたってわけか。一緒にいながら」
「仕方ねぇだろう! そんな暇がどこにあるよ!」
 確かに朝の朝食時間くらいしか一緒にいない。その時間も、早く食べることにだけ集中していて、最近はまったく会話もなかった状態だ。
 ゾロは元々あまり自分のことを話すタイプではない。同じ家にいるといっても共通の話題といえばバラティエのことくらいしかなく、他のことを話していた記憶はないに等しい。
 促されるままに、引き取ってからのこれまでのことをつらつらと話せば、ゼフの呆れたような顔は益々深くなっていくのを止められない。
 実際話しようと普段のことをまとめてみれば、自分でも呆れるくらい…何もしていないのだ。
 最初の頃、一生懸命うち解けようとしていた時の方が、まだお互い話をしていた気がする。ここ最近の違和感も含めて、どれだけ自分達は同じ家にいながら、遠かったのか。
 こうして人に話して、初めて気付くというのも間抜けな話だ。
 あまりにも深い脱力感に苛まれ、サンジは苦い息と共に目を閉じた。
「まったく、しょうがねぇガキだな二人とも。お前もお前だ、お前が面倒見られてどうするんだ」
 ガキじゃねぇ、という反論も口に出せずにソファに沈み込むサンジに、ゼフは苦笑を隠さずに髭をなでた。
「…お前、あのガキをどう思う?」
「ゾロ?」
「そうだ。…自分で自覚してねぇのかもしれねぇがな、お前は最初から、あのガキには変だった。いったいお前は、あのガキをなんだと思ってるんだ?」
 どう思っているのだろうか?
 出会いは強烈だった。たった一人の母親の遺骨の前で、静かに座る少年はその姿のまま、自分を庇うように突き飛ばして大人の兇刃に切り裂かれた。
 それだけでも、サンジにゾロという少年を刻みつけるのには十分だった。いや、それよりも…初めて会った瞬間から、そういえば目が離せなかったような記憶もある。
 何が自分の気を引くのだろうか。
 病院へと通って面倒を見た時も、その後引き取って一緒に住むようになってからも、サンジはゾロが気になって仕方ない。それだけは分かる。
 一緒に住むようになって、ゾロが実は律儀で人を気遣うことができる子供だということも知った。年下だと分かっていても、どこかふてぶてしくて肝の据わったあの性格には時々ハッとさせられるし、守られているような気さえするくらいだ。
 友人関係のことなど聞いたこともない、ゾロも話もしないからその辺りのことは分からない。
 考えてみれば、何故自分はその辺りのことをゾロに聞こうとはしなかったのだろう? 
 ゾロの口から、自分が預かり知らぬ者達の名前は聞いたことがない。
 …あまり聞きたいとも思わなかったのは…何故なのだろう…?

      コック?
 強い瞳で、真っ直ぐに自分を見るゾロ。
 その強さは、出会った頃から変わっていない。

 自分の前にいていつも自分を気遣って、一人で動くことをためらわず、頼ることをしない。その感覚は共感できるからこそ…寂しいと思いはすれ、そこは自分がきちんと面倒を見れば良いと思ってきたし、今も思っている。
 出会った時から、ゾロは一人で立つことを知っていた。
 それが出来ないということも含めて。
 前を見据え、自分の現状をきちんと把握して、流されるしかない現実にも面と向かっていこうとする少年。
 あの少年が、ただ…ただ…。
「…哀しい…」
 小さく小さく、呟いた言葉はあまりにもゾロには相応しくなく、そして恐ろしく相応しく感じられて、サンジは一つ身震いした。
 声はゼフには届かなかったらしい。小さく首を振って考えを追い出す。
 やはり思考は千々に乱れて、統一しない。いったい自分は、ゾロのことをどう…したいのだろう?
「…お前が自分からあのガキの面倒を見るといった時には、驚いたが、それもアリかと思ったんだがな。ガキはガキ同士の方が、いいかと思ってたんだが」
 静かな声が、思いがけない重みを持ってサンジの耳を打つ。
 思わず目を開けてゼフを見れば、酷く真剣な眼差しがサンジを貫いた。
「あのガキは、ガキだということを自覚してやがる。それがどういうことか、お前には分かるか? 最近の、そこらの悪さするようなガキ共の自覚とは違うぞ」
「…ああ」
「あいつの面倒を見るということは、喰わせるだけでいいわけじゃねぇ」
「わかってる」
「いいや、テメェはわかってねぇ」
 酷く静かに断じられ、サンジは硬直した。
「自分のことを把握できねぇガキほど、危ないものはねぇ…誰のことを言ってるか、分かるか?」
 青ざめていくサンジに、ゼフは静かに言を重ねていく。
「お前はあいつをどう思う? どうしたい? お前はそれにすら答えられねぇ。あのガキはいつまでもガキのままじゃない。これからまだまだ大きくなっていくんだ。面倒を見るってのはそういう意味も含むんだぜ」
 はっとした顔を見せたサンジにゼフは深い吐息をついた。
「…あのガキは、自分と周りの違いも熟知している。そんなヤツは自分だけじゃねぇことも含めてな。あいつは何を考えている? 今までそれを知ろうともしなかったお前に、これから何ができる?」
「なんでもしてやらぁ!!」
 流の前が真っ赤に染まった気がした。一瞬にして血が上った。
「好き勝手な事言いやがって、おれがあいつのことを知ろうともしなかっただと、そんなわけあるか! あいつの為なら、なんでもしてやらぁ! あいつが…ただあいつが…一人にならない為なら、なんでもしてやるって言うんだよ! ジジイに言われるまでもねぇ! おれが! なんとかしてやる!」
 思わず立ち上がり、そう叫んだサンジをゼフは黙って見上げた。
 憤りに肩を揺らして睨み付けるサンジを暫く見つめ、ゼフは目を細めた。
「お前がどう思おうと構わねぇが。お前がダメだと判断した時には、あいつはおれが引き取るぜ。ああいうわけわからねぇガキ相手はお前で経験済みだからな」
 ギッと目線をきつくするサンジに、ゼフはゆっくりと口元を引き上げた。
「もっとも、あのガキがおれの所に来ると言っても、おれは黙って引き受けるがな」
「んなことにはならねぇ!」 
 言い捨てて、サンジはマグカップをテーブルに置くのももどかしく荷物を取ると玄関へと歩き出す。
 ゼフから引き留めるような声はかからない。
 それにさらに腹が立つのを禁じられずに、サンジは外へと飛び出した。
 蹴りつけてドアを閉め、くそっと吐き捨てるようにきつく唇を噛みしめる。
 時計を見れば、もう日付が変わろうとする時刻だ。もうゾロは寝ているだろう。帰って…とにかく帰って、明日の朝食の支度と…ゾロと…ゾロに…ゾロを…。
「くそっ!」
 サンジは携帯を取り出すと、おもむろに短縮番号を押した。
 外に出る為の非常階段に向かい、駆け下りながら数階のコールで出た者へ怒鳴りつけるように場所を告げる。
 迷惑そうな声が脅え含みに了承するのを聞いて、サンジは大通り目指して駆け出す。

 一人にだけは、今は…なりたくはなかった。









 あれ、サンジが切れました…(笑)
2008.8.3




のべる部屋TOPへ