遠くて近い現実
[14]






 腕が熱い。それ以上に、息苦しい。むかつくような熱の塊が鳩尾の辺りにわだかまり、喉の奥をせり上げそうなのにそうはしないでいる。心臓がドコドコいってるのは分かるのだが、瞼は重くて動きたくない。
 そんな気分なのに、腕から伝わる熱が自分の躰をシェイクしようとしている。
 抗議の声を上げようと思っても、口から出るのは低い呻き声だけ。
 その声というよりも、音に近いものが胸を響かせたのに、サンジは必死に重すぎる瞼を必死で持ち上げた。
 うっすらと明るい日差しが漏れ入る中に、人影が見える。
 それもすぐ目の前だ。
 呆けた頭がそれを認識せず、またしても意識を沈ませようと目を閉じかければ、またしても腕を伝って躰を揺らされた。
「やーめろぉ…」
 言葉になるように声を出した瞬間、ガンと頭に響く鈍痛に今度こそ目が覚めた。
 小さく悲鳴を上げたら、ひやりとしたものが額に当てられた。
 思わずほうっと吐息をつき、その冷たさを逃さぬように手で押さえてみれば、濡らしたタオルのようだった。
「起きたか?」
 間近から、囁くような声が聞こえる。
 目をあければ、目の前に真っ直ぐな瞳がある。
「汗がすごいな…暑いか? クーラーこれ以上下げるのもな」
 まるで質量があるようなその視線に、何故か息を詰めた。反射的に盛大に跳ね起き    ようとして、サンジは枕に突っ伏した。
「いっっ!」
「2日酔い決定だな、お前」
 やはり囁くように言う声が少し遠ざかる。やり過ごした痛みが残す、うずくような鈍さの塊の脈打ちをなだめながら目線を上げれば、そこにはやはりゾロが立っていた。
 どうやら自分のベットの上らしい。
 俯せたままた、見上げる自分の横に落ちたタオルを拾い、ゾロは再度顔を近づけた。
 なんでそんなこそこそするんだ! と抗議しようとした途端、ゾロが足下の方を指さす。つられて目線を下げれば、フローリングの上に敷いた布団の上で、豪快に寝息をたてる長い鼻の青年と、もう一つこちらに背を向けた青年の背中が見える。
「…鼻がいる…」
「泊まったんだよ。覚えてねぇだろう、お前寝てたからな。おれの部屋にはビビが寝てる。お前今日仕事は?」
「し…シフトは…や、やすみ…ぃぃ」
「なら、寝とけ。起こして悪かったな」
 あっさりと去っていこうとする背中に、本当に覚醒したサンジは慌てて手を伸ばした。
「ま、待て、なんでビビちゃん!? いや、いや、いやそれより、今、今何時だ!?」
 起きようとしたのを、一歩で戻ったゾロが頭を押さえる。
「静かにしろって。こいつら起きちまうだろうが。…2時間くらい前に寝た所なんだ」
 潜めた声で言い、ゾロは足下で身動き一つせずに、寝ている2人をみやり肩を竦めた。
 呆然としているらしいサンジには、枕元に置いてあった小さな目覚まし時計を取り上げて眼前に差し出してやる。
「今、配達から帰って来た所だからまだ早いぜ。仕事ないんだったら、やっぱお前寝てろ」
 目覚まし時計を奪い、ついでに頭に置かれているゾロの手を振り払うと、唸りつつ用心してそっと上体を起こした。
 ゆっくりと動けば、そこまで痛みは響かない。だが、寝てる時よりもうずく幅は大きくなった気がする。
 胸がむかむかするのは、絶対にこの2日酔いのせいだと思いながらゾロを見上げれば、確かにゾロは首にタオルを巻いてTシャツにハーフズボンというランニング用の服装だった。
「にしても、いつもより早い時間じゃねぇか」
 時計の針はまだ五時半過ぎを差している。六時になるかならないか、といった時間だ。
「早めに行って、さっさと終わらせたからな」
 言いながらゾロはしたたる汗をタオルでぬぐった。気付いてみれば、適温にされたクーラーがフル稼働しているおかげで、部屋は快適だ。なのに汗だくのゾロはなんとなく、異様な風体だ。
「とりあえず、もし仕事だったらまずいと思って起こしただけだから。寝てろ」
 言い置いて、あっさり立ち去る後ろ姿をしばし呆然と見送り、サンジは慌ててベットから飛び降りた。
 それでも寝ている二人を起こさないように、そっと扉を開ければゾロの姿が風呂場へと消える所だった。
「冗談じゃねぇ」
 サンジは急いで台所へと向かうと、冷蔵庫を開けはなった。


 食卓に座ると湯気の立つ味噌汁と炊きたてのご飯がすぐに目の前に出てくる。
 思わず並べられる皿を見ていたら、生唾が出てきた。
 シャワーを浴びて外に出てみたら、サンジが台所に立っていた。青い顔で唸りながらも、暫く待て! と問答無用に言われ。仕方なく、ソファに散らかしていた毛布や寝間着代わりのシャツを拾ってまとめたりして、なんとか待っていたら今度は着席を言い渡された。
 時間はそんなにかかっていない。なのに目の前に用意される品物は、驚く程豊かな気がする。
 ご飯だけはレンジで焚くという荒技を使っていたが、それ以外は今大急ぎで用意したものだろう。
 魚を主にしたおかずに根菜のささやかな煮物、酢の物に葉物のおひたしもある。ご飯は二杯分しかないと宣言したが、おかずがなくなっても平気なように、サンジ手製のふりかけも用意されている。
 梅干しも、漬け物も。
 少し青い顔でこめかみを押さえながらも、いつものようにそれらを準備してくるサンジに、ゾロはほんの少し眉間を寄せた。
「…二日酔いのくせに気合い入ってるな」
「うっせえ、黙って食えっ…っ…」
 しかめっ面を深め、掌でこめかみを揉む姿はやはりきつそうだ。
「ああ、客がいるからか?」
「関係あるかよ、それが」
 唸りながらも反論する時だけは、本気で目線が険しい。何を言ってもどうやら、やぶ蛇っぽい。ならば、とゾロはあっさりと態度を保留させ、いただきます、と手を合わせた。
 なんにしろ、朝ご飯があるのは本当に有り難いことだったので、文句を言う気にもならなかったというのが正しい。
 挨拶と同時に豪快にご飯をほおばるゾロは一心不乱といった風だ。
 気怠いままに、その姿を見ているうちに、サンジの口元に柔らかい笑みが広がっていく。
「おっ前、飯喰うところだけは変わらねぇよなぁ」
 もぐもぐと咀嚼しながら目線だけでサンジを見たゾロは、みそ汁をすすって呑み込むと、真面目な顔で「おう」と軽く返事をした。
「美味いからな」
 そうしてさらりと付け加え、またしても目の前の食事に集中しだす。
 へなへなと机に突っ伏したサンジは顔を腕の中に沈めた。
「…これも…美味いか?」
 くぐもった声が、どこか頼りなくそう尋ねてくる。それに間髪いれず、ゾロは応える。
「美味い。おかわり!」
 うーっと呻いて、サンジは俯き加減にゾロが差し出した茶碗を奪い取り、おひつへと向かうように背をむけた。
 いつもなら、もっとキビキビと動くはずだが、さすがに動きが鈍い。しかも他の部屋で寝ている者達もいるとあって、静かにしているのだろう。
「しかし…なんでビビちゃんまでいるんだ…? ほれよ、おかわりは終了。後で炊き直すからよ」
 どこか赤く染まった顔で憮然と問うサンジは、ご飯を盛り直した茶碗を出す。「おう」と言いながら受け取ったゾロは早速箸を突きたてながら、ちらりと部屋の奥を見た。
「お前送ってきたんだよ、三人で、それは覚えてるのか?」
 …正直その辺りは曖昧だ。なんとなく、合流した時は覚えているのだが…。
「ここまで送ってきたのはいいが、電車があるわけじゃないだろう。あのウソップって奴がここまでお前運んで、もうタクシー呼ぶ金がない、と言うから泊まるか? って言ったら、あっさりなら自分達もって、後の二人も残ることになって…」
 その時のことを思い出したのか、ゾロは複雑そうな顔でサンジを見た。
「ビビ…さんだっけか? すげぇな、あの人。家に電話して、コーザと一緒にここに泊まるから、昼過ぎに帰るって宣言してたぞ。婚約者なんだってな、コーザ」
「…それ許せねぇ…っつーか、ここに泊まるってぇなら、誰も文句は言わなかったろうよ」
「おう、あっさりだったな」
 笑うゾロは、誰かがこの家にいることにも、なんら疑問を感じている様子はない。
「前は随分ここがたまり場だったみたいだな」
「あー…まあなぁ。幼なじみとか、学校の友達とか、結構たむろってたんだよなぁ。なにせこの家おれとジジイしかいなかったろ? しかもジジイあんまりいなかったしなぁ」
「そうなのか?」
 サンジは少し懐かしむように部屋へと視線を流し、口元を綻ばせる。
「ああ、だからってワケじゃねぇけど、結構遊びまくってたな」
 ふと見れば、ゾロも柔らかい表情で笑っている。
 この年の頃、知り合ったりした者達とバカ騒ぎをしていたりしたはずだ。中学二年。そのくらいの時のことを思い返せば、出てくる顔がいくつもある。
「賑やかそうだよな」
 笑うゾロは穏やかだ。
「…ああ」
 空気が柔らかい。
 朝食を食べるゾロが目の前にいて、味噌汁と魚の匂いがして。…気分は悪いが、心地良い。
 この家で、ひっそりとこんな風にいたことがなかっただけに、不思議な感じがする。
 いつもよりも早朝ということもあるだろう。この心地よく静かな雰囲気に、どこかで揺らいでいた何かがすっと落ち着くのを感じた。不安に思うことなど、何もないのではないだろうか? それよりも、こんな空気があるのだ、何を不安に自分は思っていたのだろう。
 ずっと静かな空気はささくれた気分に実に穏やかで、気を抜くとサンジの瞼が再び落ちそうになっていく。
「眠いなら、寝なおせよ」
 頬杖をついていたら、いつの間にか目を閉じていたらしい。
 静かに促す声に、はっと目をあけると、茶碗を持ったままじっとサンジを見るゾロの視線とかちあった。
「おれはこれを食べたら、寝る」
 自信満々に言うゾロに、一瞬目を見張り、すぐにきつく眇められた。
「何処で寝るっていうんだよ、お前は!」
「アホ、ソファに決まってるだろうが、誰が部屋に戻るか」
 呆れたように言うゾロは、肩で後方のリビングを示す。
「…いや、そんなことを聞いてるんじゃねぇってぇの。つか、部屋戻ったら蹴り殺す!」
「だから戻らねぇって」
 豪快に箸を動かしながらも、ゾロは結構明瞭に話をする。妙な所で器用だと、変な所で感心して我に返った。
「違う、お前がソファで寝てどうするんだ、寝るならおれの部屋で寝ろ!」
 ゾロがどこかキョトンとした風にサンジを見た。
「いくらなんでも、二人で寝たらあのベットは小さいだろう?」
 本当に不思議そうに言うゾロに、サンジは思わずゾロを見返した。
 質量を感じる視線と真っ向からぶつかりあう。
 なのに、まるで邪心がない。
 それどころか、バカじゃないかと思える程に、素直な問いかけをしてくる目に、サンジはしばし思考を停止させてしまう。
 寝る?
 二人で?
 自分のベットで?
 並んで?
 二人で並んで寝ている所をポンと頭に思い浮かべ…
「なんでだよ!??!」
 思わず叫んで立ち上がり、凄まじい頭痛と気分の悪さに目眩を起こす。目の前の少年が恐ろしく素早く立ち上がったのにも気付かず、視界が半分白黒反転してしまうさらなる気持ち悪さに躰が二つに折れていく。
 多分時間にすれば数秒だろう。
 気付いた時には、サンジは力強い腕に半分もたれ掛かるようにして、肩口に頭を乗せていた。
「なにやってんだよ、お前は…」
 大きなため息ともつかない息を吐きながら、ゾロがほっとしたように肩を落とした。
 直にそれを感じながら、吐き気のような気分の悪さに眉根が寄る。
「うううう…」
 呻いて躰を起こそうとするが、わずかに身じろぎするのも躰が許そうとしない。素晴らしい気分の悪さだ。
 ゆっくり目を開けてみれば、どこか少し薄暗い感じがするものの、今は視界は戻っている。
 何か喋りたくても、口を開いたら吐く。絶対吐く。そう思える程の嘔吐感にさらに躰の力が抜ける。このままだと倒れそうだと思うのに、自分を支える腕はわずかもぶれることなくサンジを固定してくれている。
「目閉じて、そのまま深呼吸してろ。…前に道場で…餌切れで倒れた奴も似たような感じだったな、そういえば」
 いいながら、腰を支えたまま、ゾロがゆっくりと動く。
 動かすな!と文句を言いたいのに、言えないもどかしさで、必死に嘔吐感をやり過ごそうとしていたら、少しだけ意識を飛ばしたらしい。
 気付けば自分のベットの上で横になり、ゾロの腕が離れていく所だった。
「寝てろ。なんか欲しいもんあるか?」
「…み…みず…」
 ゾロは小さく苦笑すると頷いて、そっと外に出て行く。ベットの下に目をやれば、薄目を開けているウソップとばっちり目が合った。
 慌てたように目をぎゅっと閉じる男に、気分の悪さも忘れて枕を投げつければ、くぐもった呻きが上がって沈黙した。

 踏んだり蹴ったり。

 恐ろしく重要なことに無理矢理蓋をしていることに気付きながらも、サンジは重くなる意識を保てずに目を閉じた。






2008.9.13

 一進一退…でもきちんと進んでいるんですー!
 原稿に入ってるため、少し間が空くかもしれませんT_T



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