遠くて近い現実
[15]




 微かな空調の音がする中で、どこからか柔らかな匂いが漂ってくる。
 …ジジイが朝飯作ってる…。
 浮上する意識の中でぼんやりとそんなことを思いつつ、重い瞼が動かないことを幸いにもう一度意識は閉じようとする。
 けれど同じ体勢も少しキツイ。どうにか寝返りを打とうとして、鈍い痛みが頭に走って思わず呻く。
 それでも随分と記憶よりも痛みのうずきは小さくなっているような…と考えて、はっと目を開いた。
 強烈な日差しがカーテンの隙間から漏れ、何かに反射してか壁に奇妙な模様を作っているのが見える。
 自分の部屋だ。
 何がどうなっているのかまったく頭が働かず、無意味に瞬きを繰り返しているうちに、ぼんやりと昨日から今朝にかけての出来事がまだらに思い出されてきた。
 ふと、眠り込む前に見た少年の顔を思い出し、反射的に起きようとしてぐっと息を呑む。
 こみ上げた気色悪さは、まだ健在だ。
 早朝程ではないが、まだ胸の奥に気色悪さは居座っている。朝のことを思い出せば、頭痛すら復活しそうでサンジは大きく深呼吸を繰り返した。
 前回の二の轍を踏まないように慎重に躰を起こす。そうすれば、思った程胸のむかつきも大きくならない。ゆっくりとベットを下りようと躰を動かしていけば、枕元のボードに汗のかいたコップが見えた。
 半分ほど水をたたえている、それ。
 眠り込む前に、ゾロが自分のリクエストに合わせて持ってきてくれたものだとぼんやりと思い出した。
 けれど、水を飲んだ記憶は、あるようなないような。
 首を捻りながらも足を下ろしてみれば、そこには畳まれた布団と毛布が律儀に折り重ねてあった。泊まったウソップとコーザの仕業だろう。起き出したことにも、布団を畳んでいたことにもまったく気付かなかった。かなり昏倒していたらしい。
 まだ重い頭にため息をついて、やはりどこからか漂ってくる香りに理性が戻ってくる。
 料理の匂いだ。
 今何時だろうと時計を見てみれば、そろそろ昼まっさかりな時刻だった。
 ぼけた頭がゼフが朝飯を作っているように考えてしまったが、この家にいるのは…今はジジイではない。
 なんとなく苦笑してベットから下りれば、何故かふらついてしまう。その瞬間、己の肩を掴む腕が頭を過ぎったが勿論それは幻で。
「いでっ」
 ベットヘッドに手をついて躰を支え、なんとなく落ち着かずに腕で顔をこすった。
 なんだというのだろう。どうして軽くよろけたくらいで、ゾロの腕を思い出すのだ。
 まだ線だって細い、自分よりも背も小さい養い児だと思っていたのに、いったいいつの間にあんな風に力強く、自分を支えられるくらいになっていたというのだろう。
「ありえねぇ…あの馬鹿力」
 どうしてかほてってくる顔をしかめて、わざと悪態をつけばなんとなく息苦しいのも元に戻っていく気がする。
 なんだかこのままここにいてはドツボに嵌りそうだ。何度目かの深呼吸を繰り返して、忘れないようにコップを持って部屋を出た。
 わずかにむっとする熱い空気に混ざって、今度ははっきりと出汁の利いた匂いが漂ってくる。
 そしてどこか潜めてはいるが、賑やかな声がはっきりと飛び込んできた。
「でな、そんなわけで、おれたちのたまり場といえば、ここと相場が決まってたんだよ。ああ見えて、ゼフさんおれたちが集まってても、口うるさく言わないでくれたしな。余程の事以外は大目に見てくれた話の分かる爺さんだ。…まあ、結構きちんと躾られもしたんだけどよ。なぁ!」
「そうだったな」
「一番注意されてたのは、ルフィさんだったけどね」
 相槌を打つ声も楽しげだ。
「ご飯はサンジが作ってくれてたし快適だったんだ。材料費だけは皆で出したけど、それでも随分とゼフさんに甘えたよなぁ」
「ふふ、パパとかはゼフさんに費用だそうとしたけども、一喝されて受け取ってもらえなかったって言ってたわ。楽しそうに話すのよ、パパも子供みたいだったわ」
 聞き耳を立てるつもりはなかったが、学生時代の話になんとなく、懐かしさがこみ上げる。しかも、自分が知らないゼフや皆の親の間でも交流があったのかと、不思議な感じがする。
 確かにゾロが来るまでの時間は、彼らと遊び倒した記憶の方が強い。いわゆる幼なじみの悪ガキ集団なのだが、考えてみればよくまあ、親たちは好きにさせていたものだと感心してしまう。
「なんだかんだいって、サンジって面倒見いいからなぁ。それもあって皆で押しかけてきてた感じだよな。ルフィの懐きようも凄かったし」
「ありゃ餌付けだ、餌付け。餌が渡らなくなったから、もう大変でよぅ」
 情け無いウソップの叫びに、確かにな! と笑い合う声があがり、最近聞き慣れた声が重なる。
「ホント、仲良かったんだな」
 ゾロだ。ずっと彼らと話しをしていたのだろうか。自分の小さい頃の話を? と思うと、どっと心臓が跳ねた。飛んでいって会話をやめさせようとしたが、どこか砕けた感じで話すゾロの声が、楽しそうにも聞こえて踏み出すのを躊躇する。
「おう、小さい頃、小学校からだから…もう随分になるよな。皆高校卒業して進路がバラバラになるまで、ずっと集まって遊んでた。ちょうどサンジがお前を預かるって言ってた時くらいに、さっき言ったナミが留学するって話も出てよ。皆落ち着くまでって、あんまり集まらなくなったんだ。サンジが一番やさぐれたからなぁ! お前も来るし、ナミはいなくなるしおれの自由はないって、サンジのヤツもう泣いて荒れて仕方なかったんだぜー。あの調子で、ナミさーん! おれの女神が〜! って…」
 風が吹いた。
 全員があっけにとられて見た時には、ダイニングにいたウソップの背後に迫った足が癖毛頭を見事に蹴り飛ばしていた。
 椅子の吹っ飛ぶ音をバックにすらりと立つ人物の座った目が光る。
 そんな彼に、台所に立つ女性は平然と涼しげな声をかけた。
「おはようございます、起きても大丈夫? サンジさん」
「んん〜っ、ビッビちゅわぁあああん、おはよー! もう平気だよ〜。この通りさぁ♪」
 その場でメロリンと躰をくねらすサンジの傍で、座っていたソファの足下に飛んできたウソップを見下ろしたゾロが「こいつ死んでるぞ」と冷静に突っ込めば、「すぐ復活するさ」とさらに平気な声が返ってくる。
 まさにいつもの通り、といった感じだ。
 なんとなく、昔からこの場にゾロがいたような気さえしてしまいそうな馴染みっぷりだった。
 倒れた椅子を直したサンジは、シンクの前に立つビビにわずかに申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめん、ビビちゃん。こいつらのご飯作ってくれたんだ」
「ええ、久しぶりにここに立っちゃった。なんだか新鮮。作ったっていっても、凄く簡単なものよ。朝食代わりに、目玉焼きだけ」
「そんなご馳走こいつらには勿体ないくらいだよぉ」
 つい舞い上がるサンジに、復活して頭を押さえるウソップが暴力反対! と喚いてゾロの隣に座る。
「コーヒー飲む? サンジさん。まだお昼は作ってないから、なんだったら作るけど…まだゾロくんもお昼は食べてないし」
 その言葉でだいたいの事情を把握した。
 起き出した泊まり組の三人が台所に集った所で、リビングのソファで寝ていたゾロが起き出したのだろう。結局ゾロはあんまり眠れなかったのかもしれない。
 起きたからといって、ゾロにご飯が作れるわけもなく。
 自分を起こすこともないと、ビビが朝食を作って食べていたのだろう。その間四人で話していたというわけだ。
「いや、こいつの飯はおれが作るからいいよ。ビビちゃんのお手を煩わせるなんてと〜んでもない!」
 言いながらゾロを見れば、真っ直ぐな目が飛び込んできた。苦笑して隣で喚いているウソップを片手で押しとどめながら、ゾロはこちらを見ている。
 そのあまりに真っ直ぐな視線に、無意識に躰が震えた。
 なんだろう、いつもと同じ視線のはずだ。真っ直ぐに、まるで斬り込んでくるような視線でゾロは全てを見ていく。だが、今、この瞬間に感じたのは圧力にも似た力だ。
 斬り込むだけではなく、まるで内側までもを見通そうとするような…。
「サンジさん? 大丈夫?」
 ゾロの視線に捕らわれたように硬直していたサンジをどう思ったのか、ビビが心配そうに覗き込んでくれて、それで我にかえった。
 周囲から音が消えていた。
 大きく息を吐き、サンジはゾロから目をそらした。
「いや、大丈夫大丈夫。買い出しいかないと、なんもなかったなとふと思っただけで…」
「おれはバラティエいくから、無理しなくていいぜ」
「アホ! おれがいるのに、なんであそこに行かなきゃならねぇんだよ。ちゃんと作るから、お前こそ無理すんな」
 反射的に答えると、不思議そうにゾロが見返してくる。
「おれはなんも無理してねぇぞ? お前こそ、吐き気とかは平気なのか?」
「…思い出させるな…」
 言われた瞬間、気持ち悪さがこみ上げてテーブルにへたり込んだサンジに、ゾロが苦笑して立ち上がる。
 その気配に、つい大丈夫だと手を振るとドサリと音がした。見ればゾロが、隣に座っていたウソップに腕を引かれたらしく、ソファに沈み込んでいた。
「お前はここにいろって。盾がいなくなったら、おれが困る!」
 なんとも正直な叫びに、ゾロの「そこかよ!」という突っ込みが鋭く入り、笑いが巻き起こった。
 椅子を戻して座ったサンジの前に、檸檬を浮かべた氷入りの水がそっと差し出される。ビビが冷蔵庫の檸檬を使って作ってくれたのだろう。ゾロ用に用意していた檸檬だったのだが、この際どうでもいい。
「ああ、ビビちゃん手ずからの命の水…なんて幸せなんだぁぁ」
 どうしても目がハートになるのを防げない。
 そんなサンジにビビは破顔し、そうだと手を組み合わせて喜びに目を輝かせた。
「そうそう! サンジさん、ナミさん今日帰ってきたんですって。昼前に連絡入ったんですよ!」
「えっ!? 本当!?」
 目を見開いて思わず立ち上がったサンジに、ソファからのんびりと声がかえる。
「おう、本当だぞー。なんでも、卒業式とか面倒だしきちんと証書は届くように手配したら、あっちいるだけお金かかるって言ってさっさと全て引き払って戻ってきたんだと。予定よりも、三週間は早いけどなぁ。あの金がかかるとなると異様な行動力を発揮するところは、やっぱりナミだぜ」
 再度サンジの蹴りが飛び出そうとしたのを、さっとゾロの背に回り込んでウソップは回避した。逃げ足のウソップとはおれ様のことだぜ…と背後でこそこそと呟くのが聞こえて、軽くゾロが吹き出した。
「そんなわけで、4日後だそうだ」
 笑うゾロをこづくウソップという二人を面白そうに見つつ、コーザがしれっと日にちを告げる。うんうんと頷きながら、ビビが嬉しさを隠せないように笑みを深くした。
「私もお手伝いしますね! 会えなかったこの二年の間に鍛えた腕前披露しなきゃ! ね、サンジさん」
「もっちろんだよ〜〜♪」
 もうファンファーレが頭上で高らかに鳴り響いているのが見えるようなくねりっぷりで、サンジがメロる。
 そうしながらも、状況がどうやら本格的に頭に染みこんだらしい。いきなり彼は部屋を見渡しだした。
「ナミさんが帰ってきた! ということは、4日後…えーっとおしゃれな場所探して…いやいや、好きな蜜柑が時季はずれ! いや、ハウス蜜柑…温習蜜柑がどっかに…。いや、それよりも、ナミさんをエスコートできる場所をさがさねぇと!」
 唐突に目の色を変えて動き出したサンジに、全員があっけにとられた視線を送る。
 だが、まったくその視線に気付かないまま、サンジはブツブツと呟きながら台所を右往左往始めてしまう。
 四人の視線が同一にサンジの動きを何度か追い、一同は一斉にため息をついた。
「…落ち着け、サンジ」
「そうだぜ、落ち着けよ、サンジ」
「サンジさん…」
「コック」
 何故だろう。サンジの動きがピタリと止まり、勢い良く振り返った。
 ため息まじりの声音は、どこか深い響きを伴ってサンジを貫いたのだ。
「場所はここでいいだろう」
 なんでもないことのように告げた言葉に、ぼんやりとサンジは言葉を発する少年を見た。呆れたと隠さずにサンジを見る少年は、肩を竦めた。
「ずっとここで集まってたんだろう。別にここでいいじゃねぇか。余所いく必要がどこにある」
「テメっ!」
 聞いた瞬間、沸騰するかのような怒りが湧いた。
 恐ろしい勢いで睨み付けるサンジに、ゾロの隣のウソップの方が悲鳴をあげてソファから飛び出したが、ゾロはまともにそれに相対した。
「自分の家に遠慮するバカがどこにいる」
 それがさも当然といわんばかりに胸を張る。
「んだとテメェ! ここにはお前がいるだろう!」
 一足飛びにゾロの前に飛び出したサンジの蹴りを、ゾロが両腕でブロックして防ぐ。鈍い音と共に、しかし揺るぎなく防いだ蹴りを目の前にしても、ゾロの視線は揺るがずにサンジを見上げている。
 そんなゾロに、コーザが小さく手を叩いた。
「…驚いたな、サンジの蹴りに真っ向から相対できる上に、ひるまないヤツがルフィ以外にもいるとは思わなかったぞ」
「うるせぇ、引っ込んでろコーザ」
 足を下ろしたサンジが戦闘態勢を崩さずに、冷たくゾロを見下ろすが、ゾロはふんぞり返ってソファに背を預け、視線を逸らすことなく右腕を上げた。その腕が指さした先は、サンジをわずかに避けた横の方で、なんだなんだとサンジ以外の全員がそちらを見る。
「何も問題はねぇ。4日後、おれはここにいねぇ」
 ゆっくりと断じたゾロに、今度こそ全員が驚きの声を上げた。
「は? なんだそりゃ!?」
「お前いないのか?!」
「どうしてゾロくん!?」
「ゾロ!」
 口々に叫ぶ面々を、そちらの方に驚いたのかゾロは困惑したように辺りを見回した。
「あ? なんでって、おれはその日は道場の合宿だからだ。…夏休み前には決まってたから、ちゃんとお前にも言ったし、冷蔵庫にも日付入れたプリント言われて貼ったぞ」
 どうして攻められるのかさっぱり分からないといった様子で告げるゾロに、サンジが冷蔵庫へととって返す。
 急いで連絡板にしている冷蔵庫の腹の磁石の下をまくってみれば、確かにゾロの道場からのお知らせのプリントが出てきた。
 他のプリントに重なって、見えなくなっていたが、確かにそういえば夏休み前に合宿が何回かあるようなことをゾロが言っていたのを思い出す。
「な?」
 なんだか呆気にとられた視線をめいっぱい浴びつつ、ゾロは悠然と腕を組んだ。
「丁度いいだろう? だからなんの遠慮もなく、好きにしたらいい」
 どこの親父か、と思えるくらいの態度に、ウソップがソファの後ろからいつまでも驚きのポーズで固まっていた。





2009.7.13



随分と間を開けてしまいまして…申し訳ありません。再開します!



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