遠くて近い現実
[16]





 まだ朝の気配が残る、昼との境の時間だった。
 陽炎が立つアスファルトの上を、濃紺に身を固めた姿が駆け抜けた。
 街路樹が作る短く濃い影とまばゆい陽光が照り返すコントラストの中を、暑さなど感じさせない動きが滑らかに通り過ぎてゆくと、すれ違った人達が不思議そうに振り返っていく。
 立ちくらみそうな熱気の中をものともせずに走る姿に、夏らしいどこか溌剌としたものを感じてしまうからだろう。
 分厚い紺色の胴衣に濃紺の袴、足下だけは履き潰した様子のスニーカーという姿だが、違和感は感じない。
 緑色の珍しい髪を汗に濡らし、青年というにはまだ少し年が足りない気がする少年は、住宅街を一心に走り抜けていく。
 昨日から通っている剣道場での合宿は始まっていた。なのにその最中、急いで家路に向かっているのは今朝になって忘れ物に気付いたからだ。
 合宿中に、学習の時間が割り当てられていることを、本気ですっぱり忘れていた。
 剣道ばかりやっている合宿ではあるが、学生が学業を捨てるのはもってのほか、というのが道場主のコウシロウの教えだ。
 とりあえず、早朝に新聞配達を済ませてから皆と朝稽古をこなし、朝食だけは食べて慌てて飛び出してきた。
 意外と道場の泊まり込みの合宿は厳しい。学習道具を忘れたからといって、免除になるはずもない。かえって怒られるだけだ。だから急いで取りに戻ってきたのだ。
 けじめ、とそれは呼ばれるものらしい。よく分からないが、ゾロはその厳しさは好ましいと思う。
 ゾロの通う剣道場は、他の道場に比べると練習量も礼儀作法も何もかもを含めて厳しい方らしい。けれどその厳しさに反して、剣道離れが続いている昨今、この道場に通う生徒は多いのだと聞いた。
 良いことなのだろう。
 ゾロはそこしか知らないから、他の道場がどうだかは分からない。だが、人が例え厳しいと評価したとしても、ゾロ自身は最近今の練習では物足りないと感じてしまっていた。
 合宿中の仲間達との練習でもそれ以外のことでも、皆とわいわいと過ごすのは、新鮮で面白いとは思う。だが、もどかしくも感じてしまうのだ。ゾロ自身はもっと練習をしたいのだが、それを仲間に望むわけにはいかない。だからといって、一人だけ練習することはコウシロウに止められた。他人と動いている時に、輪を乱すことをせずにいることも合同での練習の一貫だと言われたからだ。
 よく意味はわからなかったが、それもまた必要なことらしい。だから最近は自主的なトレーニングの量が必然的に増えていた。
 どちらにしろ、ゾロの練習に仲間達はついてこれない。一年ほど通っているうちに、ゾロの相手ができるのは道場主の娘である『くいな』くらいになっていた。
 だが、くいなは四つ年上の女性だ。
 最近、技術や強さはともかく、体力の隔たりが微妙に目立ち始め、それももどかしさに拍車をかけている。
 考え出すと途端に足に力が入り、猛スピードで駆け抜けていく。
 さすがにもう迷うことはなくなった道を、脇目もふらずに走りきり、あとほんの少しで自宅という所まできた時だった。
「やっと来たわね! 遅いわよ!」
 少し高い聞いたこともない女性の声が響いた。反射的に顔を向けると、少し前方にいるオレンジ色の髪をした女性が大きく手を振っていた。
 初めて見る顔だ。
 つまり、見知らぬ人だ。
 だが、その女性は鮮やかとも思える溌剌とした瞳で、ゾロを真っ直ぐに睨みつけてきている。それも結構な勢いと力で。
 思わず足を弛めてしまった瞬間だった。
 女性は大きく身をよじり、背後に立っている男の足のすねをハイヒールで蹴りつけたのだ。当然のことながら、ぎゃっ! という男の悲鳴が上がり、実は二人いたらしい男達が目の色を変えて女性に詰め寄ろうと腕を伸ばす。
「見てないでよっ!」
 どう考えても、それは自分に命令しているらしい。
 よく分からなかったが、ゾロは飛び出し女性へと詰め寄ろうとしている男の腕を取った。そのまま男の胸元に躰を寄せたと思う間もなく、反動を利用して背負いに放り投げてしまう。
 喉の奥で唸るような音とも声ともつかぬ呻きを上げて、男がアスファルトにのびた。
 道場では、剣術の流派の一貫として体術も習っている。古武道というらしく、剣のみならず体術も交えて一つの流派になってるのだ。
 躰が勝手に動いちまった、と目を白くして潰れている男に言っても無駄だろうな。と、やけに冷静に考えながらももう一人へと視線を定める。
 毒を食らわば皿まで、といった気分だった。
 男から逃げ出した女性は、ゾロへと駈け寄るとその背後へと回り込んだ。
 最近どこかで体験したような逃げっぷりに、数日前の鼻の長い男を思い出してしまった。
「見たでしょ! この子強いんだから! 私をちゃーんと守ってくれるんだから。あなた達には用はないの。勝手につきまとって迷惑なのよ」
 言い放って女性は不意にゾロを振り返った。
「もう! あんたもあんたよ! 来るのが遅いから、こんなヤツらにつきまとわれたじゃない」
 何がなんだか分からないが、この女性は自分を誰かと勘違いしているらしい…多分…いや、きっと。
 曖昧にしておかない方がいいような気もしたが、口を挟む余地を許さない雰囲気だ。
 仕方なしにゾロはもう一人の残った男を見直した。
 どこかだらしなく着崩したTシャツにパンツ姿。テレビなどで良く見かけるような、普通にその辺りにいそうな男だ。ゾロよりも随分な年上だろうと察しは付くが、負ける気はしないなとこれまた冷静に考える。
 目の前の男はゾロが見せた体術と、胴着と袴という姿に呆然とこちらを見ていた。どこか現実離れしている光景に、頭がついていってないのかもしれない。
 無言のまま、ゾロは視線に険を込め睨みを深くする。
 すっ、とわずかに腰を落としてみせれば、男は青ざめて飛びすざると「ちが、ちょっ」と訳の分からない言葉を口にして、そのまま伸びている仲間を一瞥もせずに背を向け、一目算に駆け出した。
 逃げたのだ、と思いつくのにほんの少し時間がかかった。
 あまりにもあっけない。呆れ果ててつい男を見送ってしまい、ふうっと溜息をついた女性の呼気で我に返った。改めて女性を見ると、彼女は足先で伸びている男を蹴るような仕草で示した。
「これ、邪魔だから避けておいてくれない?」
「おれがかよ?」
「女にこんなもの持たせるんじゃないわ」
 しれっと言い放たれた。しかも何故か有無を言わせない強さがある。逆らうのも困難だ。しぶしぶゾロは伸びている男をわずかに日陰になっている電柱へとに引きずり、立てかけた。
 軽く手をはたいたのは、お愛想だ。
 もうこれで用はないだろう、と振り返れば、思った以上に近くに女性が立っていた。
 自分とあまり身長は変わらない。最初に感じたままに、どこか溌剌とした力を発散させる女性は、しかし見れば見るほど見事なプロポーションをしていた。
 膝上のスカートに躰の線を出すブラウス、サングラスを頭上に乗せて、シンプルな服だからこそワンポイントで入る模様が女性をきちんと彩っている。
 …多分、オシャレな人なんだろうなぁ、ということは分かる。が。だからといって、それ以上にもそれ以下にも感じないゾロは、ただ女性が発する雰囲気にのみ、嫌な予感を感じて身構えていた。
「ふぅん…そう悪い面相じゃないじゃない。うん、まだ発展途上だけども、そのうちにいい男になるんじゃない?」
 疑問系かよ、と突っ込みたいのをこらえ、早く家に戻らないと…と思考をすぐ傍の自宅へと飛ばす。しかし、女性の観察は止まらない。
「まさかいきなり胴着姿が駆けてくるとは思わなかったけど、助かったわ。それなりにガタイも良く見えるしね。しかも強いじゃない、ゾロ」
 にっこりと破顔した女性は、くったくなく親近感さえもたらした。
 いきなり名前を呼ばれて目を丸くしたゾロは、それでなんとなく理解した。
 多分、この女性は…
「ナミ?」
「ナミお姉様と呼びなさい! 中坊!」
 ほっぺたをつままれて、あろうことか引っ張られた。
「いてっ、いてぇって! お姉様はねぇだろ!」
 急いで身を捩って魔の手から逃れると、ナミはますます嬉しそうに笑った。
「それもそうね。なら、ナミさんでいいわよ、サンジくんもそう呼ぶしね。ホント、助かったわ、ゾロ。ありがとう」
 まさかきちんとお礼を言われるとは思わなかった。素直な礼に、また驚いてしまう。
「…女一人に、男二人ってのはダメだろ」
 つい、そう返すとますますナミは笑みを深くした。
「うんうん、サンジくんの教育の賜物かしら。合格!」
 何が合格か分からなかったが、口は挟まないことにした。この短時間で、口答えは無意味だとしっかり学んだからだ。
 傍に寄られると、ナミからは爽やかな柑橘系の香りがした。周囲にそんな匂いをさせる人間を知らなかっただけに、それもどこか新鮮だ。
 しかし、寄ってこられると引いてしまってじりじりと後ずさってしまうのは、何故だろう。
「けど、ふてぶてしい顔してるわねぇ。ホントに中学生? 老けてるというか、根性入ってるっていうか」
「ほっとけ」
「あんたをサンジくんが育てたってのが分からないわぁ。サンジくんって女性大好き至上主義なのに」
「………」
「やっぱり良い躰つきしてるわね。運動選手だけあるわ。やっぱりまだ発展途上っぽいけど…あ、そうだ、ちょっと、胴着脱いで? サンジくん助けた名誉の負傷を見てみたいし!」
「あんた、たいした女だなぁ…」
 思わずポロリと本音が漏れた。
 途端、速攻で伸びてきた手に慌てて逃げ出した時だった。
「ナッッミさぁあああああああああああん!!」
 凄い勢いでいつの間にか近くまで来ていた自宅の扉が豪快に開き、中から一つの影が高らかに飛び出した。
 見たこともない見事なくねりに捻りと回転を加えて、金色の髪をなびかせ痩身の青年がひらひらと踊り寄ってくる。
 もう呆れるのも忘れて見入るゾロを邪魔とばかりに蹴り避け、ふらついたゾロの前で、サンジが見事な動きで膝をついた。反対にナミが唖然とサンジを見下ろしている。ナミの前に片膝をついたサンジは、彼女の手をうやうやしく取り、片手を胸に当て、潤んだ瞳でナミを見上げた。
「あああ、明日しか会えないとひたすら待っていた時間は無駄じゃなかった!! このサンジ、ずっと待っておりました!! …お帰りなさい…ナミっさんっ」
 本格的に感極まった、といった様子のサンジは見上げる目をハート形にして、感動にうちふるえている。
 ひたすら…バカらしい。
 バカらしいが、もの凄くサンジらしい。
 久々のことに不意をつかれたのが悔しいのか、一瞬目を泳がせたナミは、次の瞬間これでもかという程にっこりと微笑んだ。
「変わってないわねサンジくん」
 昔からこうだったのか、としみじみと納得したゾロは、つい家に戻り損ねて立ちつくしてしまった。
「ただいま。早く皆の顔みたくて戻ってきたのよ。元気そうでよかった」
 ウソップ曰く、金の節約だと言っていたが、多分ナミが口にした理由の方が比重は大きかったのかもしれない。
 自然とそう思わせる安心した笑顔を見交わす二人を、ゾロは静かに見つめた。
「本当にずっっと待ってたんだよ! ナミさん! あなたがいない毎日は、暗闇の中にいるようで、ホント辛かったぁああぁ!」
 立ち上がり、ナミの隣に並んだサンジはナミよりも頭一つ分近く高い。くねくねとしているのを除けば、二人はとても自然にお似合いの様相を見せている。
「ホントに寸分変わらず変わってないのね…、サンジくん」
 苦笑するように言われて、サンジも破顔する。「変わるわけないさぁぁ」とくるくる回転しているサンジに、ゾロはそっと口を挟んだ。
「とりあえず、話は中ですればどうだ?」
 指さす先は開けっぱなしの玄関だ。本当に玄関の鼻の先でこの騒ぎだったのかと、考えると頭が痛くなってくる。
「でも明日しか会えないと思ってたから、ナミさんの声が聞こえた時にはびっくりしたよ。恋しさのあまり、幻聴を聞いたのかと思ったんだよ。あ、足下気をつけて、久しぶりだよねぇ」
 ナミから視線を外さずに、その背に優しく手を添えてサンジはエスコートするように玄関へと彼女を誘う。
 ゾロに足先で玄関を開けるようにだけ指示をしたが、それ以外はまるでゾロを見ることすら拒むようにナミへと視線は固定されている。しかもハート形が目に見えるように。
 ゾロの意見は採用されたらしい。軽くため息を吐き、ゾロは玄関を開け放すと二人が中に入っていくのを待った。
 ナミが小さく笑ってゾロに同情めいた視線を寄こしたが、それには無視を決め込んでとにかく無表情を保つ。
 二人が家へと入っていた後に続いて中に入り、ゾロは静かに自室に戻った。変に時間を食ったが、自分は忘れ物を取りに来ただけだったのだ。早く道場に戻らなくてはならない。
 宿題を手早くまとめ、裸のまま手に持って部屋を出れば、ダイニングのテーブルに、ハイテンションを少しだけ落ち着けたサンジとはす向かいに座っているナミの姿が見えた。
 少し落ち着いただけで、二人にはしっくりとした大人らしい雰囲気が見える。
 これが二人の本来の姿なのかもしれない。
 そっとゾロは二人に気付かれないように玄関へと足を進めた。そのおかげもあってか、二人からは声はかからなかった。
 玄関に立ち、靴を履いてドアを開けた所で初めて気付いた。
 ほんのわずかの時間のことではあるが、この家に戻ってきてサンジがいるのに、一度も声をかけられなかったことに。
「…どんだけ甘やかされてんだ…」
 小さく呟き、ゾロは静かに外に出る。
 音を立てないように、そっとドアを閉めると恐ろしく鋭い熱気が自分を取り巻くのが分かった。
 微かに空を仰ぐと、真っ青な空にぽつりぽつりと浮かぶ雲の白さが陽光の力強い眩しさと相まって視界を白金に染め変える。
 頭の芯がほんの少しぐらりと揺れた気がした。
 地面へと視線を落とせば、真っ黒な自分の影が見える。
「戻らねぇと」
 いつもは口にしないことを、実感しようとするようにわざと口に出す。
 そのまま、ゾロはきつく前を向くと勢い良く駆けだした。





 微かな音がしたような気がして、サンジは顔を上げた。
 自分達の後からゾロが部屋に戻ったのは気付いたが、ナミにお茶を煎れようと準備していた為に完璧にゾロのことは失念していた。
 最初は合宿中なのになんで戻ってきたのだろう、という疑問が湧いたのだがナミに不思議そうに声をかけられたらあっさり霧散した。
 とにかくナミを見れば、すぐに世界がバラ色に変化する。久しぶりに会うナミのかわいさは磨きがかかっていて、もう見とれずにはいられない。
 これだ。これなのだ。これが一番自分に足りていなかった! と実感するしかない。
 ナミ達と会えなくなって早数年。その間常に足りないと思っていたのは、この潤いだったのだと実感してしまえば、もう迷いなど無くなってしまうというものだろう。
 いつもよりもじっくりと、しかし手早く切れよく準備した代物を丁寧に差し出す。
「はーい、ナミさん。お茶が入ったよー。ナミさんが帰ってきたって聞いたから、すぐに買ってきてたんだ。これナミさん好きだったよね?」
 暑いからこそ、熱いお茶を。サンジが用意したのは、柑橘系の香りのするハーブティだった。
 まだ留学する前に集まっていた時、サンジが市販のハーブを買ってきてブレンドしてくれていた代物だ。ナミしか飲めないそれは、遊び仲間の皆の中でも特別で。一緒に遊んでいたビビにさえ、これは出されたことがなかったのだ。
 それを飲む時、ナミは口にはしなかったがとても嬉しく、優越感すら感じていた。 
「ありがとう」
 帰ってきて一番に飲ませてもらえたのが、そのサンジのお茶だということが、特別さをさらに際だたせてナミを温かくもてなす。
 そう。
 帰ってきたのだ。
 懐かしい家の涼しい部屋で、瞬時に冷えた躰にその温もりは優しく、口の中に広がる爽やかさがつい先程の騒動までをも吹き飛ばす。
 肩の力が抜けた。
 この瞬間が欲しくて、明日までという時間を我慢できずにサンジに会いに来たのかもしれない。
「魔法のお茶は健在ねぇ…サンジくん」
「そう? 嬉しいな」
 優しいお茶は、時間をすぐに過去へと巻き戻してくれる。
「やっと帰ってきたんだなって、実感したわ。一応帰ってきたなぁ!って空港に迎えに来たルフィみた時にも思ったんだけど」
「え!? あいつ迎え行ってたの!? ずりぃ!」
 身を乗り出すサンジを軽く手で仰いで静め、ナミは笑った。
「当然でしょ?」
「…そうかもしれねぇけど!」
「でも2番目に私が自分から会いに来たのは、サンジくんよ?」
 わざとらしく小首を傾げて上目遣いに見れば、途端にサンジは躰をくねらせてメロリン♪ と手を組み合わせた。
「光栄だぁああ」
 しみじみと変わっていない。ここまで変わっていないと、かえって嬉しいくらいだ。ナミは笑って、ゾロが入っていった部屋の方を見た。
「サンジくんの部屋が、ゾロの部屋になっちゃったのね」
 変わったのは、この家の雰囲気だ。内装や壁にかかっているものなど、見た範囲で変化はまったく感じられない。よくよく見ても、記憶のままの家だ。だが確実に、何かが変わっているのが分かる。
 前はもっとゼフの雰囲気が家に染み通っていた気がする。ちょっと厳格で、でもどこまでも温かい雰囲気。
 対して今は、不思議と静かな感じがする。
 ナミが記憶しているゼフとサンジの家ではなく、これがゾロとサンジの家の雰囲気なのだろう。
 確かにそれはわかるのだが、奇妙な気もするのが少しナミにはひっかかった。
 二人で住んでいるはずなのに、ともう一度じっくりと家の中を見回して観察してみる。引っかかったことをそのままにしておけるナミではない。何に違和感があるのかとつい考えこみそうになった時、サンジの声が今のテンションを証明するように話かけてきて考えを中断させた。
「おれがジジイの部屋に移ったからね。狭い方の部屋を譲ったんだよ。あいつを引き取ってすぐだったから、もう三年…近くになるのか」
 最後だけはどこか感慨深く告げたサンジは、ゾロの部屋をあおぎ眩しそうに目を細めた。
「おい、ゾロ! ナミさんに挨拶くらいしろよ」
 だがどこからも返事が返らない。
 あれ? と首を傾げて立ち上がり、サンジはもう一度ゾロの部屋へと声をかけた。だが返事はない。
 おかしいな…と首を傾げつつ歩き出したサンジを目で追えば、部屋へ行くかと思った彼は玄関の方へと回り、盛大にため息をついて戻ってきた。
「ごめんナミさん、あいつもう戻ってやがった」
「えー? いつの間に? まったく気付かなかったわよ? っていうか、戻ったって…通ってるっていう剣道場?」
「うん、よく知ってるね。まあ、あの格好なら分かるか。あいつ昨日から合宿中なんだよ。で、その情報源はウソップ?」
「正解。合宿っていうのも聞いてたんだけどね。だから今日会えるとは思ってなかったのよ。タイミング良く出会えて良かったわ助かったし。でも、見た瞬間分かったわよ、あれがゾロだって」
 吹き出したナミの姿に、いったいウソップから何を聞いてきたのだろうと不安が過ぎる。
 なんとなく笑顔も引きつりそうになりながらも、サンジはナミに当たり障りのない相槌を打つしかできない。
「帰ってきた早々変なのには絡まれるし。最悪って思ってたけど、まあゾロに早めに会えたから良しとするか」
 可愛く笑うナミに、サンジはうはー! と魂が飛び出そうな声を上げる。
 ウソップに言わせれば可愛い笑みというよりは、悪魔的なたくらみの笑みと表現される代物なのだが、サンジの目にはそれもまた魅力的に映るのだから問題ない。
「けどせっかく会えたんだから、もうちょっと話したかったなぁ! 助けてもらったお礼しか言ってないわ」
 それだけで十分だろう、と思ったのが顔に出たのか、ナミはいたづらっぼくサンジを伺う。
「私には紹介したくない? 溺愛してるって聞いたわよ、ビビから『も』」
 口に含みかけたお茶を吹き出しそうになって、サンジは突っ伏した。
「も、って…溺愛って…誤解もいいところですぅ…」
 咳き込みそうなのを根性で押さえ込んで、唸るように告げる。それにカラカラと笑いながら、ナミはだめ押しをしてくる。
「そう? サンジくんが面倒を見てるって点からして、既に正解な気がするけど? まさかあんな子だとは、見るまで想像もつかなかったけどねぇ」
 それはゾロを見た全員から告げられる言葉だ。
 何故だろう。サンジにしてみれば、ゾロはどうしても放っておけない子供だという認識なのに、ゾロを見た誰もがそんなことはないと口を揃える。
 いや、それはふてぶてしい面構えに最近は拍車がかかってきているし、今見れば確かに面倒を見るという感じではないのかもしれない。
 だがそれでも、ゾロを見ていると何かしてやらなくてはならない気がするのだ。
 それが自分だけの感情だとは、到底思えないのだが…。
「あいつは、まだ子供だよ。最近ナリばかりデカくなっちまってるけど。なんもできねぇし、ただの剣道バカだし、寝穢ねぇし…」
 突っ伏したままそう言えば、耳を突かれた。
「赤いわよ」
 そんなバカなと思ったが、確かに耳が熱くなっている。頬までも熱い気がして、顔を上げることができない。
 耳を突いてくる手を払い除けるわけにもいかず、されるがままにサンジはぼんやりとゾロのことを思った。
 黙ってまた行ってしまったゾロに、いってらっしゃいと言わなかったことが…何故か悔しい。
「あ〜あ、せっかくのチャンスだったんだから、サンジくんから直接きちんと紹介してもらいたかったなぁ」
 その一言に、そんなことすらしなかったのだと気付いて、サンジはほんの少しだけ玄関へと視線を飛ばした。
 閉じたそこには、もう誰もいないというのに。
 でも、ゾロは明後日にはまたここに戻ってくる。ここはゾロの家なのだから、当然だ。それをふと思いついて、サンジは安堵に似た気分を味わう。
 何故だかすぐにそれを忘れそうになってしまうのが不思議なのだが、この家はゾロの家だ。
 ゾロはいつもここに帰ってきて、仕事や用事で遅くなる自分を出迎えていた。ゾロは大抵用事がなければ家にいて、寝ているのが常なのだから当然なのだが。
 ゆっくりと頭を起こしながら、サンジは笑ってナミを見た。
「まあ、紹介するのはいつでもできますよ。あいつは、この家にいるんだから」
 自身満々の笑顔で答えるサンジに、ナミは一瞬沈黙した。
 マジマジとどこか幸福そうな笑みを浮かべるサンジを見つめ、息を吐いてゆっくりとお茶を口元に運ぶ。
「サンジくんが言うなら、そうなのかもね」
 どこか優しく響く言葉の意味など考えもせず、サンジは小さく頷いて久しぶりのナミへと意識を本格的に戻したのだった。







2009.7.26

時間かかってしまっている分、今回は少し長めに(笑)
少しづつ、進んでおります。はい。



のべる部屋TOPへ