遠くて近い現実
[17]





 その日の練習は夕方には終了した。
 本来なら夜の練習まで行われるのが通常の合宿なのだが、今日はもう早く休んで明日に備えることになっている。
 既に全員が夕食も風呂も入り、後は寝るだけという時間だ。
 寝るのは男女別だが、就寝時間まではテレビのある部屋で全員が集まってわいわいと騒いでいる。
 そんな中、ゾロはコウシロウに呼ばれて道場横にある彼の自宅の居間に座っていた。
 座卓の上には、冷えた麦茶のコップが汗をかいてコースターを濡らしている。冷房もかかっていない居間は、網戸だけにされて夜風を静かに運んでいた。
 わずかにそよぐ風に、軒に吊されている風鈴が澄んだ音を響かせる。
 それだけでも、涼しい気がしてしまうのは何故だろう。遠い昔のように感じるが、小さい頃にも、こんな音を聞いていた気がする。
 とりあえず、日中の暑さを骨の髄まで堪能しているせいか、夜の温度はそれだけで涼しいのだろう。
 古い扇風機が音を立てて回り、ぬるい風を送ってきてくれているだけで十分だった。
 風鈴の音よりも遠く、電車の走る音が微かに聞こえる。それだけ、そこは静かなのだ。コウシロウの雰囲気そのままに。
 ゾロは目の前に広げらたプリントへと目を落としたまま、微動だにせず座っていた。
「ゾロくん。それも道の一つでしかありません」
 ゾロと同じように正座で向かいに座った人物は、割合に小柄な男性だ。やや色あせた作務衣に身を包み、眼鏡の奥の柔和そうな瞳を細め、慈しみに似た笑みで動かない少年を見つめている。
 そのプリントの内容を全て把握しているだけに、ゾロの驚きと硬直具合は理解できるのだろう。コウシロウはおかしさを隠しきれないように、口元を弛めた。
「きみのことを認めている人は、私や家族以外にもいるということです」
「…家族…」
「そうです。    あの方もね」
 初めて顔を上げたゾロは、渋い顔を隠さずに思わずといった様子で呟いた。
「あっのケバオヤジ」
 コウシロウは声を上げて笑いだした。
 楽しくてたまらないということを隠さない仕草は、ますますゾロを憮然とさせる。
「でも、その人こそが、きみの目標でしょう?」
 ゾロは大きく頷いた。途端に引き締まった表情とその目に恐ろしく強い光が宿る。
 気を抜けばコウシロウでさえ身震いしたくなるその光は、まさにゾロ自身が形を取ったようなものだ。まだ荒削りにすぎるのが気になる所だが、遠からずこの道場ではゾロを押さえることはできなくなるだろう。
 ゾロ自身も、我慢できなくなるだろう。
 ゾロが悪いというものではない。本人だけを見れば、礼儀も覚えてるよい青年だと思う。だが、それとこれとは違うのだ。
 ゾロを無闇に外に飛び出させるわけにはいかない。それほど、彼の強さはきわどいものがある。その気性も、生い立ちも含めて、どうしても彼は、普通という言葉ではくくれないものがあるのだ。
 生まれた時代を間違えた、そんな言葉がゾロを見ていると浮かんでくる程に。
 それが分かるだけに、コウシロウは教えられる全てを注ぎ、せめて道を示すことくらいしかできない。
 その為にも、わきまえることはわきまえさせるのも、コウシロウは忘れない。
「一つの道の選択として、私はそれを預かってきました。けれど、それも明日次第です」
「はい」
 ゾロの返事は淀みなく、恐ろしく静かだ。
「道を開くのはゾロ君です。時間はまだありますしね。チャンスもまだあります。その為の第一歩です」
 頷いたゾロはもう一度プリントへと目を落とし、そっと書かれている字を目で追う。
「本当に随分と、あの方に買われましたねぇ」
 またしても条件反射のように憮然とするゾロは、年相応だ。どうしても笑ってしまうコウシロウを余所に、ゾロはわずかに視線を窓へと流した。
 何を見ているのか、どこか遠くを見るように目を細め、そっとその口元に笑みをはく。
 今頃、サンジは仕事の最中だろう。多分明日の友達との集まりに胸を弾ませながらも、手を抜くことなく仕事に精を出しているはずだ。
 レストランなのに、怒号と活気に溢れすぎている厨房で、サンジは一番いきいきと働いている。
 それがこうしていても、目に見えるようだ。
 遠くにいても、まるで近くにいるかのようにサンジのことは分かる気がする。
「でも…近くにいた方がいいとも…思うんだけどな…」
 思わず、といった呟きがささやかにこぼれる。
 それが何を意味するか、コウシロウには分からなかった。だが、珍しく、目の前の少年に迷いが見えた。
 いつも即断即決、迷うことをしない子供だと思っていた。それが危なっかしくもあり、見ている方をハラハラさせていたのだが、本人には筋が通っているらしく、後になってその理由が分かって唸ることも多々あった。
 その少年が、どこか遠くを見ている。
 ありがたい、とコウシロウが感じたのは何故だろう。この少年の心を引くことができる何かがあるということに、感謝すら覚えてしまう。
「考えておくといいですよ」
 優しく伝えるコウシロウに、ゾロは目を戻すと力強く頷いた。
「これは預かってもらっててもいいですか?」
「もちろんです」
「お願いします」
 頭を下げ、ゾロは手早く書類をまとめると、封筒に入れ直してコウシロウに差し出した。
 それを受け取ると、ゾロはもう一度深々と一礼して立ち上がる。もう戻らなければ、消灯の時間になる。布団を敷くのは全員でする仕事になっているから、一人いないと大変だと思ったのだろう。
 急いで出て行こうとするゾロを、コウシロウは呼び止めた。
「ああ、そうそう。明日はどなたが来るんですか?」
 肩越しに振り返ったゾロは不思議そうな顔をした。
「誰もきません」
 さも当然そうに言う姿は、あまりにも堂々としていて。コウシロウには、「そうですか」と静かに答えるしかできない。
 再度一礼して、ゾロは部屋を出て行く。
 障子の閉まる音を聞きながら、コウシロウは大きくため息をついた。



 今日も厨房は戦いだった。
 飛び交う怒号に火の勢い、リズミカルな包丁の音と見事に飾られた料理の数々が手から手へと回され、お客の口元へと運ばれる魔法のような時間。
 毎日のこととはいえ、この充実感は素晴らしい。
 世間は不景気と喚きまくっているというが、予約も含めてバラティエでは客足が落ちてはいない。
 拘り抜いた味への追求と、値段のリーズナブルさは昔からバラティエの代名詞だ。そういうものが積み重なって、バラティエというレストランを支えているのだろう。
 最終確認を済ませたコックの挨拶を受ければ、無人のレストランがそこには広がっている。
 サンジは控え室から出るとゆっくりと厨房を見回した。
 明日は店休日となっているためか、シンク周りも特に綺麗に拭きあげられている。だが、まだ火を落とすまではされていない。
 今日は居残り宣言を最初からしていた為に、気を利かせてくれたのだろう。
 いったい何をするのだとコック連中から不思議がられる程に、大量に仕入れていた食材は冷蔵庫の隅に置かれている。
 仕事を終えたばかりだが、サンジの仕事はこれからだ。
 自然とにんまりと笑みが口の端に登る。
 久しぶりだ。
 高校の頃は、コック連中に頼み込んで材料を分けて貰って自宅で必死に仕込み等をしていた。今だって別に自宅でも構わないのだが、やはり厨房だと動きやすい。明日の昼前にはビビも手伝いに来てくれるとメールも入っていたし、時間のかかるものだけでも今日のうちに済ませていれば、ゆっくりとナミと話す暇もできるだろう。
 弾み出しそうな足取りで巨大な冷蔵庫の前に立てば、もう笑いが止まらない。
 でゅふふふふふ。
 と篭もった笑いを零して冷蔵庫を開け放つ。
 戻ってきたナミは、外国の空気を見事に吸収し身に纏って、見違える程に美しくなっていた。
 鮮やかな真夏の太陽に引けを取らない。あの輝きを表現しようとしたら、どんな料理を作ればいいのだろう。ナミの好きな柑橘を使った料理のレシピは、ずっと考え続けてレシピも随分と溜まっている。
 これからは、それらを惜しみなく作り上げて、ナミにも仲間達にも披露したい。会えなかった間に、どれだけ自分が成長したのかも見て貰いたいし、皆がどう成長したのかもみてみたい。
 酒も公に解禁なのだ。ナミが留学するという前の晩に集まった時には、まだ全員酒は許されてはいなかった。
 そう考えれば、会えなかった時間の長さがふと身に染みる。だが、それも今日までなのだ。
 明日には、懐かしい仲間全員に会うことができるのだ。
 いったい誰が食べるんだと言いたくなるような食材をどかどかと取り出せば、さらなる充足感がサンジを満たす。
「なっに食べてもらおうかなぁあ」
 両手に抱えられるだけ野菜を持って振り返れば、でっかいため息がサンジを出迎えた。
 硬直したサンジの奥、厨房の入り口にゼフが苦々しい顔で立っていた。
「まだ残ってたのか、てめぇは」
 ゼフはやれやれといった様子で再度ため息をつき、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「珍しいじゃねぇか。こんな時間に厨房に来るなんざ、耄碌しすぎて忘れ物か?」
「言ってろ」
 ゼフはサンジの横に立つと冷蔵庫を開け放ち、ゆっくりと中を見回した。
「この肉はてめぇが注文したヤツか?」
「ああ」
「少し分けろ」
「ああ?」
「こんだけあれば、少しくらいどうってことねぇだろう」
 言いながらもゼフは肉の塊を吟味し、手頃な大きさの肉をいくつか取り出す。そうしてサンジが抱えている腕の中から野菜をいくつか奪った。
「…なんか作るのかよ?」
「食材前にして、料理作る以外何かするように見えるのか?」
 心底バカにした様子で見下し、ゼフはさっさと厨房の一角へと立った。即座に反論しようとしたサンジには見向きもせず、材料を前にしたゼフは作業に入ろうとしている。
 そういえば、仕事の最中に珍しくゼフへと電話が入っていた。
 普段仕事中、特に料理中にかかってきた電話は殆どがフロアスタッフや新米コックが捌いて、余程のことがないとゼフへは繋がない。
 それがここバラティエで、一番最初に教わる電話応対の仕方なのだ。
 電話に出たゼフは暫く戻ってこなかった。それだけ大切な話だったのだろう。けれど、戻ってきてから何を言うでもなく、するでもなかったので何の電話だったのかは分からずじまいだった。
「そんな所に突っ立ってるだけなら、目障りだ。食材が傷む、さっさと帰るなりなんなりしやがれクソナス」
「テメェが割り込んだんじゃねぇか! 邪魔はそっちなんだよ!」
 言いながらもするべきことを思い出し、自分もゼフの隣に立つ。
 急いで自分の準備をしながらも、目はゼフへと流れていく。仕事中もゼフが料理をしている時はその技術や技能を盗み見るのは、習い性になっている。
 見事な包丁使いで野菜の下ごしらえから、肉の小分けまで進めていくゼフからは、何を作るのかという推測が難しい。
 チラチラと横目で見ていると、不意にゼフが顔を上げた。
「明日はお前は何をするんだ?」
 へ? と手を止めたサンジはマジマジとゼフを見、…見たかと思った端から相好をぐにゃぐにゃに崩した。
「よく聞いた! ジジイ! 耳かっぽじけよ! ナミさんが戻ってきたんだよほぉ!」
 本当に飛び上がったサンジを見るゼフは、真顔だ。
「明日は久しぶりに皆で集まって、お帰りなさいの慰労会だぜ! 久しぶりにナミさんにおれの料理を振る舞って! ビビちゃんにも美味しい新作を披露してよ! ああ、あとついでに残りのやつらも一斉に集まるからな、そいつらにも餌やって! 酒はウソップがおれ指定の銘柄揃えてきてくれる手はずになってるから、がっつり一晩! ナミさんの栄光を讃えるんだぜ!」
 なにかの劇の一幕かと疑いたくなるほどに、おおげさな動きで天井を仰ぐ。
 そんなサンジにゼフは深々とため息をつき、首を振った。
「なるほど、それでか。お前の今日一日の浮かれっぷりの凄さは」
 心底呆れたといった風に目を食材に戻したゼフを、サンジは真正面から睨み付けた。
「ヘマはしてねぇぞ。それにな、浮かれるなって方が野暮ってもんだ。ジジイも腰抜かすくらい綺麗になって帰ってきたんだぜ! おれのために!」
 かなり冷たい視線を飛ばし、ゼフは無言で手元に視線を戻した。肉に下味をつけるとラップにくるむ。スライスした肉には細切りにした野菜を置いてこれも下味をつけて巻いていく。
「…で、坊主は?」
「ゾロのことか? あいつは合宿だって言ってるだろう。耄碌ジジイには何度言っても理解できねぇのか。あいつがいないから、家で集まって騒ぐことになったんだよ」
 サンジは用意した野菜を洗いながら、わずかに口を尖らせて俯いた。
「というよりも、ゾロがよぉ、自分は合宿でいないから家に集まればいいって提案したんだよなぁ。おれは余所で、よかったらここ貸し切りにしてもらってでもいいから、家以外って考えていたんだけど」
「家の方がいいと思ったんだろう」
「…そりゃ、そうなんだけどよ」
 確かに家以外となると条件がとても難しい。泊まり込みになるのは目に見えているし、店だと時間制限や他の客とかへの配慮などで盛り上がらないこと請け合いだ。しかも自分が料理するのが難しくなる。他の仲間の家はそれぞれに問題がある。家族や寮ぐらしなど、都合良く集まるには難しい。
 それらを考えると、それこそ自炊用のペンションなどを借りて一泊旅行くらいの感覚でいくしかなくなってくるのだが。それをするには今度は休みがあわなくなってくる。
 全ての条件が当て嵌まって、なおかつ自由にできるとなると、やはりサンジ宅が一番いいのだ。
「まあ、今回は助かった。次はなんか考えることにするさ。…今度があったら、一緒にってのもありだしな。なんっか、そんな感じがするんだよなぁ…ウソップとかビビちゃんとかもやけにゾロ気に入ってるし…ナミさんも…」
 語尾が小さくなって、悔しげにサンジの拳が握られる。わなわなと震えるのにいたって、本気で嫉妬しているのかもしれない。
「バカはどうでもいい。他には何かいってなかったのか?」
「ああ?!」
 いきなり語尾が跳ね上がり、その剣呑さに思わず顔を上げてサンジを見れば、やけにキツイ目つきでこちらを睨み付けてきていた。
「あんっのバカが他に? ああ、おれに楽しめよ、とか良かったなとか、わかった風なこと言ってはいやがったことか? バカにするなってんだ。嫌みかっつーんだよ! あんの中坊! おれはあいつと同学年の子供かってーんだ!!」
 突如いきり立つサンジはその時のことを思い出しているのか、憎々しげに吐き捨てる。そのことで、一度ならず喧嘩になったのだろう。はっきりと分かるそんなサンジを問答無用で蹴り飛ばし、ゼフはふん、と一息した。
「てめーもガキだ。まったく、どいつもこいつも」
 調理台に叩きつけられて、痛む腹を押さえながら呻いているサンジをそのままに、ゼフは手元の作業に戻る。
「さぼってねぇで、やることやっちまえ、このクソナス」
「ナスじゃねぇ! 邪魔してるのはテメェだ! クソジジイ!!」
 起き出してぶつぶついいながら再び調理台に向かうサンジを横目で見つつ、ゼフは小さくもう一度ため息をつくと、あとは無言のまま作業をすすめたのだった。

 

 ゼフの部屋に泊まり込んだ翌朝。
 まだかなり早くにゼフが起き出して外に出ていったのを、サンジは夢うつつに感じていた。






2009.8.22




のべる部屋TOPへ