遠くて近い現実
[18]





 ドアを開けると、そこは無法地帯だった。
「………すげぇな」
 思わず呟いてしまうくらいには、凄まじい散らかりっぷりだった。
 そもそも、玄関灯がついたままのドアには鍵はかかっていなかった。
 差し込んだが回す必要がなかった鍵を抜き、ドアをそっと開けたのはただ早朝というには早すぎる時間に配慮しただけだ。
 現在時刻は朝の四時過ぎ。人によっては夜中というかもしれない時間だ。
 一歩玄関に入れば、むせかえるような酒の匂いが襲いかかった。ついでに冷気が躰を包み込む。まだ玄関を上がってもいないのに、この冷たさは凄まじい。
 中に入ってみれば、玄関には倒れている半裸の男が一人いた。鼻の長いその青年には見覚えがあった。ウソップだ。
 まるでなんとか脱出しようとして力尽きたといわんばかりに片腕を投げ出し、玄関にはみ出して宙に浮いている。本当は何をしようとしたのかは分からないが、とにかく寝ていることは確かだろう。
 どうしようかと一瞬考えたが、とりあえずウソップを踏まないように靴を脱いであがる。口の中だけで「ただいま」と小さく呟いたのは、ただの習慣だ。
 家の中は恐ろしくシンとしているのに、電気はどこもかしこも煌々と灯っている。廊下を歩いてみれば、転がってるのはウソップだけではなかった。
 コップやフォークなどの食器の類から洋服、果ては紙吹雪のような代物に紙テープの束にクラッカーの残骸。何があってたんだと感心する程に凄い状況だ。
 足音を立てないようにリビングへと行くと、台所に向かおうとする所に見たこともない少年が一人やはり倒れていた。片手はテーブルの脚をしっかりと握り、もう片手には骨だけになった鶏の残骸が握られている。横に向いた少年の目の下には愛嬌すら感じられる傷が一つ。妙に印象に残った。なんとなく自分とあまり年が変わらなそうな感じがしたが、よくよく見ればやはり自分よりかは年上なのだろう。立派な体格をしているのが分かる。
 なんとなく、その少年を眺めながら目線を足下へと向けて見れば、その青年の足をこれまた引っ張るように握る二つの手がある。
 リビングの方には、その少年を取り押さえようとするように片方をコーザ、もう片方はやっぱり見たことの無いそばかす顔の青年が押さえている。
 コーザはTシャツ姿だが、もう一人はやっぱり半裸だ。
 いったい本当に何があってたんだ、と思いながらリビングへと本格的に目をやった。
 ソファには二人の女性が並んで仲良く肩を寄せ合うように寝ている。そしてそのソファの足下に、金色の髪が見えた。
 ふっと、ゾロの口元が弛む。いるならいい。
 何故かそう思い、改めてもう一度、ゾロはぐるりと辺りを見回した。
 散らかったリビングのテーブルにも床にも、小さな紙吹雪の紙が落ちている。それよりも凄いのは、段ボールの切れ端や木材。カラーボールに何故か山のような調味料。本当に何をやっていたのかと首を傾げる代物が、とにかくあちこちに散らばりまくって見てるだけで収集がつかない。予備のテーブルまで出した上には、皿もコップもまだそのままに残されている。空いている酒の瓶の山も一緒にだ。
 どうやら本当についさっきまで、騒ぎまくっていたらしい。
 用意された氷などが、まだ溶けずに残っているし、最後に用意したのだろう酒のつまみらしきモノも、皿の上で干からびた様子が少ない。
 屍累々。
 そんな言葉が脳裏を過ぎる。
 ゾロは軽く部屋をうろついて、テレビラックに避難させられていたらしいクーラーのリモコンを探し出すと、室内の温度をお休みモードに切り替えた。いくらなんでも冷えすぎている室内は、アルコールも入ってぶっ飛んだ皆の体感温度を示しているのだろうが、このままでは絶対に体調を崩すだろう。
 それから電気の光量を落とし、とりあえず自分の部屋に戻ってみた。
 自分の部屋はいつもと変わらず、なんの変化もない。少しむっとする熱した空気に、どうやら誰も立ち入らなかったらしいのが感じ取れた。もしかしたら、ここも使われているかもと思っていただけに、なんとなく苦笑が漏れる。
 合宿中に持ち出した荷物を置き、ちょっとだけ考えてゾロは部屋の外にある収納へと向かった。予備のタオルケットをあるだけ取り出し、足りるようにかけていく。リビングから台所の男達には一枚でどうにかしてもらい、ウソップに一枚。リビングに戻り、残りの一枚を女性達にくるむようにかけてやると、もう手持ちはなくなった。
 お互いの肩に頭をもたせかるような形で寝入っている女性二人は、とても満足げな微笑を口元に讃えている。それだけで、どれだけ楽しかったのかというのが伺えるというものだ。
 足下を見れば、サンジは手足を丸めるようにして安心しきって寝ている。
 いつもなら、絶対後片付けを終えてからしか寝ないだろうに。この惨状をそのままにして寝ている所を見ると、こちらも余程ハメを外して楽しんだのだろう。
 そのことに、恐ろしくほっとした。よかった、と素直に思いもう一度重い橙色に染まった部屋を見渡す。
 そこに漂っているのは、宴の後そのものだ。それもとても楽しかった充足感が皆の昏倒した表情からも伺える。
 これが、この家の本来の姿なんだろう。
「…よかったな…」
 小さく笑い、足元の男へと視線を戻す。
 スカーと気持ち良さそうに寝息を立てているサンジは、ふと小さく身じろいだ。むずがるように頭を動かし、首を縮めるようにして躰全体を動かし、手足も丸めて胎児のような格好になっていく。
 寒いのだ。はっとして己の手を見たが、手持ちのタオルケットはもうない。
 慌ててサンジの傍に膝を突き、その肩へと手を伸ばそうとして…ゾロは動きを止めた。
 この男はこんな肩をしていたのか。
 決して薄くはない、だからといってがっちりしているのとも違う。骨の浮き出た肩の線は、不思議と滑らかに見える。横になっているので、見えはしないのだが、首へと続く筋が涼やかな感じがして気を抜くと触ってみたくなる。
 自分が記憶している何かと、大きく違う。違いすぎる。
 よく見なくても、肌の色も自分とは違う。こんな薄暗がりで、人の形が朧気になりそうな球電球の元でも、サンジの色の白さははっきり分かる。元々人種も違うということに、今初めて気付いた気分だ。
 こいつは…誰だ?
 ここ最近、サンジを見る度にゾロは不思議な感じを覚えていた。
 だからここ暫く随分とサンジを見ていた自覚がある。時にはサンジの方から喧嘩売ってんのか!? と吠えられたくらいに見ていた。
 首を傾げたなったのはあの時からだ。
 ついこの間の、酔っぱらったサンジを初めて抱えた時。
 あの時、自分はサンジの躰の重さとその固さに驚いた。何故なら、もっと柔らかいと思っていたからだ。触った時の感触も、もっと自分の手が沈み込むような柔らかさがあって、線も丸く、抱きついた時に弾く感触はもっともっと優しい感じで…。
 ゾロはぼんやりと己の掌を見下ろした。今にもサンジの肌に触れそうにしている手。
 ゆっくりと握り固めた。
「…ああ、そうか…」
 わかった。
 はっきりと分かった。
 目の前に横たわる、自分を育ててくれたこの人は、『サンジ』だ。
 ずっと理解していたつもりだった。この男は『サンジ』であって、その他の誰でもないと。折々にそう自分に言い聞かせてもいたはずなのに。
 そのはずなのに、いつの間にか自分は混同していたのだ。
 記憶の中のたった一人の肉親と、この目の前の『サンジ』を。
 自分の中で何かがきっちりと嵌った。初めて視界がクリアになった気分だ。
 ここにいるのは、『サンジ』だ。初めて会った時から、いつも自分の側にいてくれた男。ずっと自分を気にかけて、食事も作ってくれて。日々の面倒も見てくれた。
 沢山楽しいこともあっただろうに、こうやって皆と騒ぎたいこともあったろうに。それをせずに、自分をずっと、ずっと見守ってくれていた人物だ。
 育ててくれた人の一人。
 …いつの間にか、自分の内側にいた、一人。


 この男は        


 肌に伸ばそうとしたこの手を、握りしめたのは何故だろう。なんだか触ってはいけない気がしてしまった。自分が触るべきではない、そう思えてしまう。
 大きく息を吸い、そっと長く吐き出す。
 そうしてゆっくりと掌を開いて目線を落とした。気付ば自分の手は記憶にある小さな手ではなくなっている。ここに来たときには届かなかった水道にも今は楽々手が届くし、届かない所がなくなった。
 自分は大きくなっているのだ。
 本当に、やっと理解した。
「…コック…」
 口にできるのは、この呼び名だったわけだ。サンジではいけなかったのだ、自分には。
 だからといって、これからこの男を名前で呼べるかといえばそれは無理だろう。
 別の意味でも、無理な気がする。
 はは、と小さく笑いを漏らしゾロは立ち上がった。
「エロコック」
 急いでサンジの部屋から使っているタオルケットををはぎ取ってきて、かけてやればゾロにできることは終了した。

 もう一度、きちんと自分を見直す時期だ。
 自分のことは自分が一番分からないものなのだと、今なら分かる。
 ならば、今。やらなくてはならないことは、なんだ。
 昨日から今日。何もかもが変化している時期だ。
 そして、今日から明日。
 自分が、進むべき道は。

 酒臭くて、安らかで、そしてとても満足そうなこの家の中を見回す。
「とりあえず、配達だな」
 まるでこの場にはいてはいけないかのように。けれど、それこそが自分が願っていたことのように。
 とても満たされた気分で、ゾロはそっと家を後にした。






2009.9.6





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