遠くて近い現実
[19]





 忙しさに紛れて、ふと気付くと朝の水の冷たさが妙に手に残るようになっていた。
 そういえば、朝起きてクーラーのスイッチを入れ直すことをしなくなったのはいつだったろう。
 窓を開ければ、どこか清しい風が入り込んできて、初めて気付いた。
 季節は変わろうとしていた。


「秋だなと思うのは、勿論食材が変わるってのが一番だが、後は店に来てくださるマドモアゼル達の服装が、鮮やかな色から大人の女性へと次第に変化していくことかなっと! あがりっ! もってけこの野郎!」
「女かよ! まあ確かに美味い食材が増えるのがまず秋を感じる最初だな。秋ナスにキノコは沢山、栗に柿にと山の幸はこれでもか。魚は脂が乗りだす頃で伊勢エビ、鰹にやっぱりサンマ! ほい、こっちもあがったぜー! 冷めないうちに、もってけトンマ!」
 威勢良く響く声の合間に、包丁を使う音と油の爆ぜる音が重なり合う。
 熱気は年中変わりはないが、それでも暑さは少し真夏と比べれば違う気がする。考えてみれば、ゾロの夏休みもとおに終わっていた。朝の新聞配達という日課があるせいか、サンジにしてみればゾロが夏休みだろうが学校であろうが、朝の風景は変わらないので実感は少なかった。
 だが、気付くということは凄いことだ。一気に気分も秋めいて、夏を思い出にしてしまっている。そんなことを思いつつ、サンジはちらりと横目で調理場に立つゼフを見た。
 いつもと変わらず、ゼフは重厚感すら醸し出して真摯に料理を作っている。仏頂面も相変わらずだが、その手から織りなす料理は何故かとても柔らかく優しい。
 ただ優しいのではない。食べたものが、身体の芯をじんわりと温めて癒し、包み込んでくれるような…。そんな深い味わいはサンジにはまだ出せない。
 それは生きてきた道のりの差なのかもしれないし、そここそが経験の差なのかもしれない。料理には、これだ、という答えはない。いくらでも変化がつけられるし、追求に果てがない。その分勉強しなければいけないことも膨大だ。まだまだひよっこの自分には、その一端が少し見えたくらいの代物なのだろう。
 美味しくて、お腹を満たして、栄養になって、心まで豊かにして、人を作る。やってもやっても果ては見えない。なのにとても面白いのだから、たまらない。
 そのゼフが、弁当を作った。
 別に珍しいことではない。仕事で弁当の注文だって受けたこともあるし、自分が小さい頃など、学校行事で弁当がいる時などはマメに作ってくれていた。だから弁当自体が問題ではないのだ。
 夜に宴会用の料理の食材をわけろと迫って作った弁当は、肉を主体にした弁当で、はっきりいって気合いと激励を目的とした弁当だった。そばで見ていたのだから分かる。
 朝早くも早く、どこかに持って行ったのは分かったが、あれは誰になんの目的で持って行ったのだろうとずっと思っていた。
 仕事で頼まれたにしては、どこか砕けていたから、知り合いへと贈る代物なのだろうが、何故か釈然としない。
 ゼフが進んで弁当を作る程、今心を砕いている人物に記憶がないせいかもしれない。
 もしいるとしたら。
 ふと、サンジは手を止めた。
 もしいるとしたら、それはゾロくらいのものだ。
 だが、ゾロだったら弁当がいるならサンジに言うはずだ。しかもあの時はゾロは合宿に行っていた。合宿中の食事はすべて、道場がまかなってくれることになっているから、弁当がいるはずはない。
 だからあれはゾロの弁当ではないはずだ。
 …ないはずなのだが…。
 どうしても何かがひっかかるのは何故なのか。そのことを考えると、不意に心臓の奥から何かがこみ上げてくるような感覚に陥る。その何かは妙に息を絞るような胸苦しさを伴って、思わず胸に手を当ててしまうような威力があった。
 気にすることは何もないはずだ。ゼフが誰に弁当を作ろうと、なんの関係もないはずだし、自分が気に病むことではない。知りたかったら直接聞けばいいだけだし、もしそれがゾロのものだったとしても、別に…。
 無意識に息を吸い込んだサンジに、隣にいたコックが心配そうに覗き込んできた。
「サンジ?」
 その声に顔をあげれば、いつの間にかこちらを見ていたらしいゼフと真っ向から目が合った。
 いつから見ていたのだろう、ゼフの視線に途端に気分が引き締まった。
「クソナス、やる気がねぇならとっとと出て行きやがれ、邪魔だ!」
「んなわけあるか!」
 キッと前を向き直し、大きく息を吸う。頭からゾロのことを振り払い、サンジは目の前の料理へと神経を集中した。
 今しなければならないことに、集中するしかこの気分を払拭することはできないと言うかのように。

 そのまま昼のランチタイムが終わる間際だった。
 賑やかな声が扉の方から聞こえたと思ったと同時に、静かなドアベルの音が鳴り響いた。
 もう客席に残っている客も少なくなり、手が空いたカルネが外に昼用のメニュー看板と営業中の札を戻しにカウンターを出た時だった。
「久しぶりー! 元気にしてるみたいね!」
 溌剌とした声が爽やかにホールに広がり、サンジは反射的に身をくねらせてカウンターから外に飛び出した。
「その声は、ナッッミさん!」
 メ〜ロリ〜ンと目をハート形にしたまま、見事な足取りでくるくると回転しつつ走り出たサンジは、入り口に立ちつくしたナミの前に来ると丁寧に腰を折った。
 シックな臙脂のタイトミニから伸びる脚線美の艶やかさと、ヒールの高いミュール。シンプルなデザインのシャツに細いウエストが強調されて、スタイルの良さが目を上げるたびに目に染みこむようだ。
 これぞ『眼福』! と握り拳をふりあげ、でろっととろけた心が目をハートにしてはじけ飛ぶ。
「今日はまた一段と美しい! 麗しき女神は、今日はまたなんの憂いを秘めて降臨されたのか! このサンジ、全てをなげうって…」
「はーい、ストップ!」
 標識のようにずっと差し出した手でサンジの口上を止め、ナミはわざとらしく隣に立つ青年の腕を取るとしがみついた。
 その様子に初めてナミの隣に男が立っていたことに気付いたサンジは、反射的に眼つけ睨み下ろす。
 そして、ポカンと呆気に取られて目を見開いた。
「…相変わらず、あんたが絡むとすげぇな」
 ナミを見ながらしみじみと呟く青年は、ゾロだ。
 ナミに腕を取られても、迷惑そうな雰囲気はあるのだが振り払おうとはしない。それどころか、ナミをほんの少し見下ろす姿が、妙に堂に入って見える。
 Tシャツに着古したジーンズ、いつもと変わらぬ出で立ちだが、隣にナミが立つと何故か雰囲気が違う。年が若いのは勿論見てとれる。見て取れるのだが、それにも増して妙な落ち着きが溢れ出て、静かなものが彼を纏い…その年齢を感じさせない。
「え? なんで…?」
 本気でマジマジと見直したサンジに、ゾロは不思議そうな顔をしつつも大きく息をついた。
「さっきそこで、捕まったんだよ、こいつに」
「こいつとは何よ! えっらそうに! こんな美女がナンパしてやってるんだから喜ぶべきでしょう!」
 思い切り叩いてくるナミに、うへぇ、と本気でうんざりした表情を見せるゾロは屈託がない。
 そういえば、あのお帰りなさいのバカ騒ぎ以降、サンジの家は以前のように人の出入りが激しくなっていて、ゾロも必然的に訪れる仲間達と顔を合わせたりしている。
 特に出入りの激しいルフィとは、いつの間にかサンジよりもゾロと居る方が多くなってるんではと思える程だ。
 思ってもみなかったことに、ルフィはことの他ゾロを気に入ってしまい、かまい倒している。そうすると、必然的にルフィについで家にやってくるナミとも気安くなってきているのだ。
「んあ? どうした?」
 呆然としているサンジを、音を立てそうな程に真っ直ぐな視線が貫く。
 クラリと目眩を伴って、躰の芯が震えた。
 ナミの隣に立って自分を貫くこいつは、誰だ? 本当にゾロか? ゾロはこんなヤツだったか? 自分の知っているゾロは…もっと…。
「何呆けてやがる、さっさと持ち場に戻らねぇか!」
 ガンと頭を強打されて、火花が散った。思い切り蹴り沈められたのだと理解した時には、ナミの楽しげな声が響いていた。
「オーナーゼフー! お久しぶり。ちゃんと帰ってきましたよ」
「ふん、また早いもんだな」
「そんなに時間かけられないわ。時間もお金も無駄だもん。それに待たせるのも待つのも、あんまり好きじゃないの」
 にっこりと笑うナミは艶やかで、自信に溢れた大人の女性の顔をしている。 
「いっちょ前の顔しやがって、無事に帰ったならなによりだ」
 ふ、と笑うゼフに嬉しそうにナミが顔を輝かせた。
 口は悪いが、ゼフの温かな歓迎だけはしっかりと受け取ったのだろう。
「もっと早く、ここに来たかったんだけど、会社と契約するのに思ったより時間かかっちゃったのよねぇ」
「なんだ、もう就職したのか」
「とおっぜん。お金は時間と共に生まれるのよ、うかうかしてられないわ」
「…ナミちゃん…かわってねぇなぁ」
 思わずといったようにずっと傍で唖然と聞いていたカルネが零し、賑やかな笑いが生まれた。
「昼時に来たということは、狙ってきたな?」
 ゼフが笑いながらそう言うと、にやんと猫のように目を細めたナミは破顔した。
「うん、お祝いして!」
「もっちろ     ん!」
 反射的に復活したサンジが盛大に手を上げるのを見て、ナミはさらに嬉しそうにゼフを見た。
「サンジくんもああ言ってくれてるし、美味しいものフルコースでよろしく!」
「……泥棒猫めが」
 面白そうに笑って言ったゼフは、隣に立つゾロを見るとこちらは鼻で笑い飛ばし、
「お前も喰っていけ」
 そう言うと、ナミの隣でくねっているサンジを再度蹴り飛ばし踵を返した。
 なにしやがる! と文句を言うサンジも急いでその後を追い、慌てて百八十度転回して戻ってきた。
 そうしてうやうやしくナミの手を取り、まるで女王様を誘うように窓際のテーブルへ案内すると、大急ぎで厨房へと戻っていく。
「…ほんと、あんた絡むとすげぇな、あいつ」
 いつまでたっても驚くというか呆れるというか、そんな表情でサンジを目で追うゾロに、ナミは両肘をついた掌にちょこんと小さな顔を乗せて、ふふん、と勝ち誇ったような笑みを浮かべてみせた。


 いつの間にかバラティエにいた客はすべて帰ってしまっていた。
 昼の営業を終えた店内には、しかし二人の客が残り、優雅にグラスを合わせて澄んだ音を響かせていた。
「ん〜! 美味しい」
 くいっと勢い良くグラスの中身を飲み干したナミは、本当に美味しそうに笑顔を弾けさせる。それは見ている方も思わず嬉しくなる笑顔だ。
 同じものをしれっと飲み干したゾロは、別段顔色を変えることもなく、そんなナミを呆れたように見ていた。
「…なんであんたが私らと同じ年じゃないのかしらね…」
 ふてぶてしいったらありゃしない、と上機嫌のまま言い募るナミにゾロは表情一つ変えずにそっぽ向く。
 厨房からは、代わる代わるコック達が出てきてはナミに挨拶していき、ついでにゾロをからかって戻るの繰り返しだ。いささかうんざりしつつも、ゾロは改めてナミを見ると正直に感想を口にした。
「皆と親しいんだな」
「そりゃぁね。私ら集まってたメンバーは大概こんなもんよ。皆して、サンジくんの家に押しかけて、ここにも押しかけて…考えてみなくても随分面倒みてもらってたわ…特にルフィは」
「あー」
 それは良く分かるというものだ。
 あのパーティの翌朝、配達から帰ったゾロの気配で目を覚ましたらしいルフィは、寝ぼけ眼でゾロを見つけるといきなりタオルケットを大きくかざし、
「お前だろ、これ。良いヤツだな、気に入った! 仲間になれ!」
 そう言うや否や、そのままバタンと仰向けに倒れて豪快に寝息を立てていた。
 その後からのゾロへの懐きようは、仲間内では苦笑で迎えられてはいたが、ゾロにしてみれば考えられないくらいで。
 でもそうしているうちに、サンジの仲間達と一緒にいても、まるで違和感を感じないようになってきていたのだから、あなどれないものだ。
 不思議なことに、一番破天荒で、一番問題児なルフィという男がどうやらサンジ達を含めた全員の中心に立っているらしいと、短い時間にゾロも理解できていた。
「ほら、食え」
 細かな彩りと細工が施された前菜がゼフ自らの手で差し出される。
 多分これは、ゼフ作だろう。サンジのものとすると、少し色合いが違う。
 そんなことに気付いた自分に内心苦笑しつつ、ゼフを見ると、それに気付いたのかゼフはニヤリと口の端を引き上げた。
「ありがとう! ホント、美味しそうだし、綺麗」
 うっとりと料理に見入ったナミは、早速ナイフとフォークを取った。食い気も万全。いささか豪快に旬の秋野菜へと手を出していく。
 ゾロも同じように料理に手をつけ始めるのをみて、ゼフはそのまま厨房へと戻った。食べっぷりを見て、満足したのだろう。
「こんな料理、あっちではホント食べられなかったのよねぇ。なんであっちの料理ってあんな大味なんだろう。サンジくんの料理が恋しかったことったら!」
 実にしみじみとナミは料理を咀嚼しつつ、美味しい、と繰り返す。
「でも、それサンジくんに言ったら速攻飛んできて作ってくれるだろうから、黙ってたけど」
「そこまでかよ」
「サンジくんならするわ」
 大まじめに言うナミに、ゾロもさもありなんと頷く。
「ああ…でも、実際はあんたがいたから、来てはくれなかったかなぁ」
 ちょっと悔しいわね、と口に出して言いながら、ナミは料理を平らげた。
 それには反論せずに、黙ったままナイフとフォークを綺麗に操って最後のテリーヌを口にいれる少年を、ナミはちょっと意外そうに見やった。
「反論しないのね」
「しようがないからな」
 わずかに目線を上げたゾロは、苦笑してナイフとフォークを並べて皿に置いた。
 このふてぶてしい少年からは考えられないマナーの良さだ。はっきり言って、ナミはここまでゾロがきちんと食事ができるとは思ってもみなかった。
「あいつは責任感も一度引き受けたことは、なんとしてもやり通そうという所もあるだろ。おれを引き受けている間は、どんなにやりたいことがあっても、あんたの所に飛んでいくことはしなかったと思うぜ」
 本当はどんなに行きたくても、だ。
「そうね。そういう所あるわね、サンジくんって」
 カルネが持ってきてくれた白ワインのグラスを礼を言って受け取り、ナミはそれを口に含んでは幸せそうに唇を綻ばせた。
「でも、同時にサンジくんって自分がやろうと思ったこと以外は、結構いい加減よ。やるべきことと、どうでもいいことにきちんと差をつけてる。だからこそ、やろうと思ったことに対するけじめは、きちんとつけるんだと思うわ…まあ、なんというか、集まってる男共は皆その傾向があるんだけどねぇ…」
 最後の部分だけは、諦めたような口ぶりだ。
 だが多分、それは当たっているのだろう。
 ゾロはチラリと厨房へ視線を流すと、肩を竦めた。ここからは覗けない厨房の奥では、今ゼフとサンジが並んで料理を作っていることだろう。時々聞こえる怒号がその様子を見なくても思い浮かばせる。
「それで、きっとあんたもその部類の男なのよ。あんだけルフィが懐いてるなんて、珍しいくらいだもん。同類に決まってるわ」
「…そんなところで判断されてもな…」
 決まってるのよ、とさらに断言してナミは大きく息を吐いた。
 続けてもう一皿、前菜が届けられる。本当にフルコースを用意しているらしい。今度はジュレで固められた魚の前菜で、周囲もソースでシンプルにデコレーションされている。見た目にも涼やかな代物だった。
「サンジくんね」
「あいつだな」
 同時に呟いて、思わず目を見交わす。一目で分かるくらいには、お互いサンジの料理に精通してしまっているのだろう。
 お互いに苦笑しつつ、取り置いていたナイフとフォークをまた手にする。
 サンジの料理は基本的な所が、ゼフの料理に似通っている。けれど、どこかゼフとは違った味わいがあり、彩りの具合にゼフにはない艶やかさがあった。
「でも、本当はちょっと安心してた。あんたがサンジくんのそばにいてくれたこと。サンジくん寂しがり屋だもん」
 サンジの料理を口にして、ほろりとナミは心の何かを吐露した。
 その響きに思わず目を上げたゾロに、ナミはやっぱり美味しいと、そっと包み込むように呟いた。
「まあ、これはあんたに言っても仕方ないんだけどね。あんたとサンジくんが合った時、私達皆進路が決まりかけてる所だったのよ。それまでの中学から高校までって、なんだかんだいってもそう大きな変化はなかったの。皆自宅から通ってたし、学校が少しずれるくらいでも同じ駅での沿線状とかね。でも、さすがに高校から大学となると、本当に皆の道は変わるわ。やりたいことが皆バラバラなんだもん、当然よね。それはそれで納得してた。でも、みんなどこかで、納得しきれてなかったのよねぇ」
 小さな料理はすぐに無くなる。おかわりと叫びたくなるくらいに、あっさりと無くなる料理は、美味しいが故にどこか儚く感じられた。
「それでも、サンジくんの家に時間があれば集まってさ、皆でわいわい…一人二人その時々は欠けることがあっても、まあ、遊びまくることもあるだろうって、あの時までは思ってたのに。急にサンジくん宣言したのよ」
 ナミはその時のことを思い出したのか、少しだけ背筋を伸ばして視線を空に飛ばした。
『今度おれは子供を預かることになった。その子がここにいる間は、おれはその子の面倒を見ることだけに集中する。この家には、お前等は立ち入り禁止だ』
「…って、そう言って皆を唖然とさせたのよねぇ。一番猛抗議したのは、勿論ルフィだったけど、ワケ聞いたらあっさり一番に引いたわ」
 苦笑して、ナミは白ワインをたっぷりと時間をかけて喉に通した。
「私、その時迷ってたのよね。私がやりたい勉強は他の国にしかない。けど、私どこにも行きたくなんかなかった。ここにいて、皆で一緒にいたいって思ってた。でもやりたいことはここではできなくて。そりゃ妥協すれば似たような勉強はできたわよ、でも妥協はあくまでも妥協なのよね。行きたい、でも行きたくない。だだ捏ねてた自分の背中を、サンジくんはそうやって押してくれたような気がした…私がいない間は、皆が今までと同じではないんだよって。直接口にせずとも押してくれたんだと…そう思って私、留学したの」
 後悔なんて一欠片もない、見事な笑みでナミはゾロを見た。真っ直ぐに見返すゾロが、ほんの少し眩しいものを見るように目を細めた。
「でもきっと、一番今まで通りでいたかったのは、サンジくんだったと思うの。それでも私の為とか、きっとあんたを引き取る為とか、色々理由つけて皆を遠ざけたんだと思う。誰か一人でもそばにいたら、ダメだって、自分のこと分かってたんだろうなぁ」
 きっとナミのいう通りなのだろう。
 確かに自分の面倒を見ると決心したのもあるのだろう。その一端に、この女性を旅立たせるというのも、入っていたはずだ。
 そして、大切な友人達がそばにいることで何もかもが中途半端になることを嫌ったのも…とてもサンジらしい気がする。
 わずかにゾロの口角が上がった。どこか満足そうな、それは笑みだった。
「その通りだと思うぜ。あいつらしい」
 そうして、自分の時間と寂しい気持ちを犠牲にして、面倒を見ると決めた子供を必死で育てる所も。
 ナミはほんの少し目を見開き、やけに大人びた表情をする子供を見た。少なくとも、ナミが知っている中学生が見せる表情ではない。もしかしたら仲間内でも、こんな表情を見せる者は一人もいないかもしれない。
 潔く、何もかもを達観したもののような…。
 けれど、何故だろう。こんなに満足そうな笑みだというのに、この笑みはどこか、どこか寂しい。ふてぶてしいのと紙一重のくせして、この笑みは反則だ。
 多分、本人が満ち足りていればいるほどに、この笑みは見ている者に一抹の寂しさを与えるのかもしれない。
 この少年の生い立ちはサンジからも聞いている。聞いただけでも、腹の立つ話だった。それでもその現実を真っ向から受け入れて、まっすぐ前を向いている少年。
 やはり、普通とはこの少年も言い難いのだ。

 少年であるゾロに思わず自分のことを語ってしまったナミは恥ずかしかったのか、それからは終始サンジ達と出逢ってからの馬鹿話に終始した。
 ゾロは殆ど自分のことは話さなかったが、意外にも聞き上手だった。しかも突っ込み気質ときて、賑やかな食事はとても楽しい雰囲気に溢れかえった。時々は様子を見に来てくれるバラティエのコック達を交えて、過去話に笑い死にしそうなくらい爆笑したりもした。
 コース料理のほとんどを食べ尽くし、一息つくデザートの頃にはナミ達のテーブルの周囲には、ほぼコック全員が集合する形になっていた。
 食後のコーヒーと勢い良く盛られたあり得ないデザートプレートを前に、ご機嫌で笑うナミは確かにとても可愛い。
 考えてみれば、今までゾロは店の後ろの休憩室で毎日のように食事はしていたが、店の方で客として食事したことは一度としてなかった。
 今回がバラティエでの初めての食事だと言っても、別におかしくはないのかもしれない。
 確かにいつも後ろで食べるものとは、色々と違っていた。彩りも飾りも皿も、料理の内容も。味は変わりなく、文句なく美味かったが、なにやら新鮮だったのは確かだ。
 バラティエに、ゼフとサンジの元に引き取られなかったら、絶対に縁のなかった料理と世界だろう。
 何故か最後にマグカップで饗されたコーヒーを飲みながら、ゾロはゼフに呼ばれた気がして顔を向けた。
「小僧、えらくまともに食事できるじゃねぇか」
 一瞬意味がわからなかったのか、軽く視線を飛ばし、ゾロは「ああ」と納得したように頷いた。
 フルコースの食事マナーのことを言っているのだろう。
「おう、合格か?」
 ニッと生意気に笑う少年に、ゼフが似たような笑みで返す。
「とりあえず、どこに持って行っても文句はでねぇだろ」
 それは上出来を意味する言葉だ。そうか、とどこか安堵したような様子をみせたゾロは、ゆっくりとコーヒーを飲み、ふとこちらを見ているサンジと目があった。
 ゼフの言葉を聞いていたのだろう。サンジは満足そうに頷いている。小さく苦笑したゾロに、振り返ったゼフが訝しげにサンジを見て大きくため息をついて、小さな喧嘩が勃発する。
 それをなんとなく呆れて眺めていた時、不意にナミがゾロへとテーブル越しに身を乗りだしてきた。
「サンジくんの傍にいてやってよ。今一番傍にいるのは、あんたなんだからね」
 口早に言い募り、ナミはゾロを覗き込む。目を見開いた少年は、とりあえずサンジとゼフの喧嘩を見やり、肩を竦めた。
「…ああ」
 今はまだ、一番近いと思える位置に確かにゾロはいるのだろう。
 それがどんなに足かせになっていたとしても。
「約束よ」
 それには返事をせずに、ゾロはわずかに身を引いてナミと距離を置く。それを見越したように、ゼフに蹴られたサンジがナミとゾロの様子に新たな怒りを爆発させる。
「ゾロてめぇ、何ナミさんになれなれしく近づいてるんだよ! 食事しただけでも羨ましいってーのにっ!」
 そこかよ!
 突っ込みまくる周囲の声と相まって、笑い声がバラティエの店内を埋め尽くした。








2009.10.10




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