遠くて近い現実
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 12月の忙しさは、問答無用だった。
 文句を言う暇すら惜しい。特に中盤以降になるとその忙しさには拍車がかかり、なのに日本中がイベントに沸き返り、それを狙った商戦は激化していく。
 例に漏れず、その商戦が見事に当て嵌まるバラティエは12月に入ってからは忘年会やクリスマス等の予約だけでカレンダーが真っ黒になっている状態で、休みなんぞあってなきがごとし。という素晴らしい憂き目にあっていた。
 昨今の不況もどこ吹く風。
 美味しくてリーズナブル、というのは、景気にはあまり左右されずに愛されるということなのだろう。
 毎日毎日、朝から晩まで慌ただしく動いて料理を作り、美味しいと喜ぶお客の顔に癒されながらも、また奮起しては料理を作り。
 サンジは仕事に没頭していた。
 というよりも、没頭せずにはいられない、それくらい料理三昧の日々の密度は濃い。
 毎日が新たな発見と、自分の未熟さを痛感しつつ、少しは進歩していることも自覚していく。それがとにかく、嬉しいのだから仕方ない。
 中旬に入る頃には、朝も早くから厨房に入り夜は遅くまで厨房に残って作業ということになっていたが、それもサンジ一人がやっているのではない。厨房スタッフは自主的に全員が揃っているのだから、文句を言うものなどいるはずもない。
 この時期レストランの就業時間も当然増えていく。人の動きが大きいのが一番の要因ではある。だが、開始時刻は変わらなくても、ラストオーダーギリギリで入ってくる客もコース料理を頼んだりなどで、結局時間が押してくる。
 そして食べていく客達の滞在時間が長くなっていくのも、この時期ならではだ。
 美味しいものをゆっくり、心ゆくまで食べる。雰囲気良くまとめたこの時期ならではのバラティエを隅々まで堪能していってくれてるのだとしたら、料理人名利につきるというものだ。
 それを喜びに毎日楽しそうに仕事に精を出すバラティエは、ますます客が来る。つまり、そういう循環なのだろう。
 料理が好きで好きで仕方ない者達が集まれば、そういうことになるのも当然なのかもしれない。
 そんな周囲が忙しい中、ゾロはゾロでまた忙しい毎日を過ごしていた。
 12月に入ってからというもの、早朝の新聞配達を済ませたらそのまま道場へと朝練をしにいく毎日だ。
 朝練帰りにバラティエに寄れば先に厨房に来ているサンジが朝食を作り、時には他のコック達も一品二品料理を増やして出してくれたそれを、ゾロは毎日食べては学校へと走っている。
 学校が終わればそのまま道場へと走り、8時過ぎくらいにバラティエに寄り賄いを作ってもらって家に帰るという毎日だ。
 はっきり言って、まったくサンジもゾロも接点はないに等しかった。
 同じ家で暮らしているはずなのに、家で顔を合わせた記憶がない。
 今までも忙しい時には、すれ違いは多かったが、今回のすれ違いは酷かった。
 そうは思っても、とにかくバラティエではきちんと顔を合わせることは合わせているし、話もその時に慌ただしくしてはいる。
 だからこれは一時的なものだ、とサンジは自分に納得させていた。
 とにかく12月が終わって1月に入れば、また落ち着いて二人の生活ができることは、経験済みなのだ。
 そうこうしているうちに12月も終盤に入り、ゾロは試合へと出発した。
 この日ばかりはと鬼気迫るバラティエの仕事をこなしつつ、早朝出発の為にいつもよりさらに早く起きて新聞配達をすませたゾロへと豪勢な朝食を作り、サンジは試合へと送り出してやった。
 出かけにまるで何かの癖のように「無理しなくていい」と言い続けたゾロは、それでも朝食を全て平らげ満足そうに走っていってしまった。
 それが12月の最後の記憶といっても良かった。


「…記憶がねぇ…」
 正直に言えば、年末から正月にかけての記憶がつぎはぎだらけで曖昧というのが正しい。
 ゾロが試合に出かけていってから、仕事三昧のクリスマス。ついでにクリスマス終わった途端に、ルフィ達友人が詰めかけ遊び倒し、正月にかけては何をやっていたのかというくらい大騒ぎをしていた記憶しかない。
 何故か正月も明けて、のんびりと世間が回り始めてからというもの、思い出すのは肉の量と野菜をひたすら切りまくっている記憶しかない。
 いつゾロが戻ってきたのかさえ曖昧で、気付いたらゾロが家にいた。といった感じだったりする。
 真っ暗な中、玄関前に立ったサンジは大きく息を吐いた。
 白くなった吐息が煙草の煙にも似て辺りに漂い、あっさりと消えていく。かじかんだ手はポケットに入れっぱなしにしていたので、動きはするが鈍い。
 新年に入ってはや2週間。
 世間はまだどこかゆったりとしながらも、通常の生活が始まっていた。
 ゾロの学校も始まり、あの怒濤の年末はなんだったのとかいったのんびりムードが今は漂っている。
 今日もゾロはバラティエに夕飯を食べに来て、それから道場へと行っていた。
 12月中は学校が終わるとそのまま道場に行ってから帰りにバラティエというコースだったが、1月に入ってからというもの、学校の帰りに顔を出して何かを食べて道場に行き、帰りにまたバラティエに寄って夕飯を食べて帰る、というコースが出来上がっていた。
 よく食べるものだと、皆でほとほと感心していたのだが、あのくらいの年齢を考えると当然だろう。
 しかもゾロは運動しまくっている。1日4食でも足りているのかどうかと少し心配になるくらいだ。
 二人でゆっくりする、といった雰囲気はこれまでまるで作れずにいて。サンジはまだゾロから試合の話一つ聞いてはいなかった。
「たでーま」
 かじかむ指で鍵を差し込んで回せば、軽い感触と共に鍵が開く音がする。
 そっとドアを開けると、わずかにぬるい空気がふわりとサンジを包み込んだ。
 明々と灯る玄関は、どこか静かにサンジを招き入れる。けれどサンジは首を傾げた。
 腰からひょいと懐中時計を取り出して開いてみれば、十時少し前。今日はバラティエは早じまいだったから、いつもより早いはずなのに、声がかからない。
 いつもなら、必ずこのくらいの時間ならゾロから声がかかるはずなのに。
 慌てて玄関を見れば、履きつぶしたようなゾロの靴がそこにある。すり切れた靴はかかとの所が踏み潰されていて、ゾロが靴を履くというよりつっかけているのがよく分かる。
 使い込まれているというより、履きつぶしているといった方が正しいそれに、サンジは舌打ちした。
 あまりにもゾロは自分の身の回りのことに頓着しなさすぎる。今度靴を買いにいかせねばと考え、できれば一緒に買いにいくかと思い直す。
 ゾロを引き取ってから今まで、そういえば二人で一緒に買い物に行った記憶は小学生の時ぐらいで止まっている。
 買い与えたものは文句も言わずに使うし、着る。だから中学に入ってからは、自分が出かけた時に買ってきてやったりとたこともあったが、それも一年の最初の頃だけだった気もする。
 たまに買い物に行け、と言えば適当に自分で買ってくるのだが、とにかくセンスの欠片もない。多分そのアタリで適当にワゴンにでも放り込まれているのを手に取っているだけではないのかと思っている。
 靴などは特にそうで。学校指定のものしか持っていないのではと、一時期勘ぐったこともあったくらいだ。そして勘ぐりは見事にあたっていた。
 買う場所は学校の購買。ようは売店で売ってるものだけ。それは買い物ではない、と口を酸っぱくして言ったのを聞かされたウソップ達がゾロを連れ出して買い物に出かけたことがあったが、その時でさえ買ったものは少なかった。
 買い与えようとすれば、生返事ばかりでショッピングの楽しさとかいうものも欠片もなかったらしい。
 しかしそんなゾロを説教し、ゾロの誕生日前のことだが自分を筆頭に男連中で面白がってあちこちに連れ回したことがあった。それを思い出すと思わず顔が笑ってしまう。あれは面白かった。ひたすらゾロを試着させまくって、無茶苦茶楽しかった。
 本人は苦行のような顔をしていたが、あれは見応えがあった。
 まだどこか細い印象はあるが、実際ゾロは体格が良くなってきている。身長もそれなりに伸び、今ではサンジの目線を少し下げれば良いくらいになってきている。ひょろりとした印象よりも、筋肉もついてバランスがいいのだ。
 マッチョという感じではないのが成長期というものなのかとも思ったが、着替えさせているうちにウソップに言われて改めて気付いた。
 ゾロの筋肉は見せる為の付き方ではなく、実践的な使う筋肉の付き方をしているのだということに。
 強面も堂に入ってしまってすれ違う人を怖がらせることもあるが、どこの店にいってもゾロは割合店員に興味を持たれた。着せた時の姿勢もいいし、見栄えがしたのだ。
 なんとなくにんまりと口が笑う。
 その時のわけもない誇らしい気持ちは、思い出せばいつでもサンジを浮かれさせる。その不思議な高揚感は、ふとした弾みに顔を出し、サンジを笑み崩れさせるのだ。
 喜ばずにいられようか。
 そのゾロの躰を作っているのは自分の食事だという手応えは、サンジを喜ばせずにはいられない。
 にやけていたのに気づき、思わずパシパシと頬を叩く。そんなことを思い出してる場合ではない。ゾロが返事をしないのをいぶかしんでいたんだった。
「うおーい、帰ったぞー」
 どこの亭主だといった様子で、再び声をかけて上がるがやはり返事はない。
 最近は四時には起きるゾロのことだから、もう寝ていたとしてもまったくおかしいことではないと、なんとなくため息まじりにリビングに行ったサンジは思わず足を止めて目を見張った。
 …寝ている。
 テレビの前のソファに、いかにも力尽きました、といった様子で斜めに傾いだ形のままゾロは爆睡していた。
 手にはリモコンを持ったまま、テレビは付きっぱなし。芸人らしき二人組みがクイズらしきものをやっているのに、音は聞こえない。音声だけを消してあるのだ。
 そっと近寄り、リモコンをゾロから奪ってみたが、ゾロは起きる様子もない。
 見下ろして、サンジは「ありえねぇ…」と思わず呟いた。
 この寒いのに、Tシャツ一枚のジャージ姿というあり得ない格好も目を見張ったが、ゾロがテレビを見ていたということにも驚いた。
 しかも何故音を消しているのか。よくよく見てみれば、どうやらDVDを見ていたらしくデッキの電源が入っている。これもまた珍しい。
 ゾロはテレビにも映画やDVDなど、そういったものにもまったく興味を示さない少年だった。
 面白くないわけではないだろうが、興味が湧かないらしい。サンジが一緒の時にはテレビもつけているし、ドラマを見たり借りてきた映画を見たりと付き合いはするが、大抵が途中で寝ている。
 ようよう起きているのは、アクション映画くらいがギリギリだ。
 なので誰もいない時にゾロがテレビの前にいるということがまず信じられない。今日のも、きっと見ている途中で力尽きたのだろう。
 テレビとゾロを見比べ、サンジはそのうちゾロをじっと見ていた。
 大きくなったな、とぼんやりと思う。そんなこと、今までにも何度も思った。けれど、今、本当に大きくなったと実感として思う。今までにも時々そんな風に思ったり、はっと気付かされたことも多々あった。
 けれどこうやって見ていると、成長というより見知らぬ人を見ている気になってくる。それほど、ゾロは逞しくなってきていた。
 投げ出された手も、最初に見た時よりも随分大きい。指も長くなっているし、腕の太さはがっしりという言葉がしっくりくるくらいだ。
 自分とは違い、日に焼けて健康的な肌の色。まだつるりとした印象はあるが、男臭くなってきているのは確かだ。まだまだ子供だと、何故かいつもいつも思っていたのに。そうではないのだと、唐突に実感する。
 そういえば…と、サンジはそっとゾロの前に膝をつき、目線をゾロの顔と同じ高さに持ってきた。
 規則正しい呼吸で、ゆったりと寝ているゾロは満足そうだ。
 多分こんな風に自分が疲れ果ててソファに潰れている時、以前は毛布やタオルケットが掛けられてるのが常だった。
 けれど、最近は違う。気付けばサンジは朝自分のベットで目を覚ますようになった。どうやらゾロが運んでくれているらしい。
 最初に気付いた時には、ベットの上で朝から真っ赤になって悶えたりもしたのだが、文句を言っていいものか、迷ってしまってるうちに言いそびれ、いつの間にかそれが普通になってしまったのだ。
 大概は一度寝てしまった後、起きることはないのだが、抱き上げられて運ばれている時に、なんとなく意識を取り戻すことが最近はある。
 けれどそんな時にも、何も言えずにサンジは黙ってされるがままになっている。
 放射するようなゾロの熱に包まれ、その揺るぎない腕に抱えられていると不思議と安堵感が湧いてきてそのまま眠ってしまうのが常だからだ。
 こんな子供に。
 どうしてそんな風に思うのだろう。
 眠る直前、ベットに下ろす時、時折強くまるで抱きしめるように力を込めてくる腕を、待っているような気さえする時があるのは…気のせいだ。気のせいだと分かっていても…何故だろう?
 なんとなく顔が赤くなっているような気がして、サンジは我に返った。
 何をバカなことを考えていたのかと、ちょっと恥ずかしくなり目線を泳がせた。その目が、DVDのチューナーでふと止まる。
 そういえぱ、とサンジは改めて豪快に寝こけているゾロを見下ろした。
 いったいこの朴念仁が今頃、何を見ていたのだろうか?
 素朴な疑問に、サンジはリモコンの再生ボタンを押した。







2010.7.18




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