遠くて近い現実
[23]





 強くなるんだ。
 コウシロウの道場に行くようになる前、初めて会った頃から入院している間、その言葉を特によく聞いた記憶がある。
 その後も、折々にその言葉はゾロの口から漏れていた。
 その言葉を聞く度に、はいはい強くなってくれよー、と返していた記憶がある。それに生真面目に、おう! と返事をする、ゾロはそんな子供だった。
「サンジくん、こっちー!」
 大きく手を振るオレンジ色の髪の女性に、周囲にいた者達が思わず振り返る。その視線を跳ね返し、鮮やかに笑う女性はその視線すら当然と思っているようだった。
 その隣には水色の長い髪をなびかせた清楚な女性が座り、艶やかな空間を作り出してくれている。
 これぞ神の御技! と本気でむせび泣きそうに感動しつつ、サンジは両手にもったトレイを器用に持ったまま回転するように二人の前へと進み出る。
「おまたせー♪ ナミさん! ビビちゃん!」
 しかし不思議な動きをしつつも、二人の前に出たサンジはピシリと姿勢を決めるとうやうやしく上体を倒した。
 深くなりすぎず、浅くならず。絶妙なお辞儀はそれだけで、彼の姿の良さを映し出す。
 2月に入ったばかりで、まだまだ寒いとはいえバレンタイン前の世間はそれだけで賑やかさを醸し出している。
 クリスマスほどの浮かれっぷりはないけれども、どこかワクワクとしたイベント特有の雰囲気はたっぷり溢れている。
 バレンタインは女性の祭典だ。久しぶりにナミとビビに誘われて、買い物につきあったサンジは最初から浮かれまくっていた。
 一休みと立ち寄ったカフェは満席で、先にナミ達に席を取ってもらってて大正解だったらしい。
 丁寧にしかし素早く注文の品を二人の前にサーブして、サンジは自分の紅茶を片手にナミとビビの前に座った。
「ありがとう、サンジくん。おかげでいいの買えたわ。…まあ、どうせあいつには、豚に真珠って感じなんだろうけど」
 苦笑しつつも、用意を忘れないナミは可愛い。隣でくすくす笑っているビビも、にっこりと笑ってサンジへと礼を述べた。
「ホント、いつもありがとう、サンジさん。おかけで、良いものが買えて助かってるの」
「そんなのいいんだよ〜、二人のお願いなら、聞かないはずないじゃないか! まあそれを渡す相手がおれじゃないってのが一番ひっかかるんだけど!」
 それには二人から明るい笑いがかえる。
 突っ込みもなしなアタリが、いつものことなのだと教えているようだった。
「何言ってんの、いつも私達の方が楽しみにしてるんだから」
 バレンタインには必ずサンジが二人に手作りのチョコレートを用意している。男性陣にはまったく配られないそれは、サンジらしい美味しさで毎年二人を魅了し続けていた。
「楽しみにしてて、今年も美味しいの作るからね」
 弾んだ調子で告げる言葉は、明るさ満載だ。それに女性二人も笑い、華やかな雰囲気がその場を包んだ。
「…で、例年通りなの? ゾロは」
 ナミの言葉に、何を思いだしたのかサンジは小さく吹き出した。
「今年も忌々しそうに風呂場の住人になってるよ」
 甘いものも食べるし、好き嫌いはない子供だったが、あの甘ったるい匂い攻撃にはさすがのゾロもギブアップらしい。
 けれど、例年よりも今年はゾロが家にいる時間は少ない。最近は逃げることを覚えたのか、何かと理由をつけては道場へと避難しているらしい。
 バラティエも今は家ほどではないにしても、チョコレートの匂い満載だから、そこしか行く所を見つけられないのかも知れない。
「あっきれた」
 笑いながらもそう断じるナミに、楽しそうに笑っていたビビはそっと頷く。
「上手くやってるんですね、Mr,ブシドーと」
 何故かビビはいつ頃からかゾロのことをそう呼ぶようになっていた。最初の頃はゾロ君とか呼んでいたはずだったが、長じるにつけ、名前ですら無くなったのがサンジには不思議だった。ワケを聞いても、なんとなくそんな感じで、としかビビは言わなかったし、その意見には他のメンバーも納得してしまって今に至っている。
「上手くっていうか、いつも通りに戻ったって感じだな。あいつも今は落ち着いて、道場通いしてるってところか」
 うんうん、といつも通りを装いながらその実サンジは笑み崩れそうになる顔の筋肉を必死で食い止めていた。
 正月明けにゾロのDVDを蹴り壊すということをしでかしてしまったのだが、あれ以降なんとなくゾロとは初めて二人で暮らしだした頃と同じような雰囲気が続いている。
 家の中にいても、二人でいる時間も取れだした。いつの間にか隣にいることもあるし、相変わらずソファで寝こければ運んでくれるというオマケつきだ。他愛ない事を話しては、二人で笑ったり騒いだり。
 夕飯はどうしても時間的にバラティエでになっているが、たまに時間が合う時には自宅で二人でゆっくり取ることも先日はできた。
 ゾロの好物の定食のような食卓になったが、酷く喜んでくれたのがここ一番のサンジの思い出だ。
 どうしてこんな時間がこれまで取れなかったのかと、悔やまれるくらいにこの一月近くは心弾む時間が続いている。
 上機嫌なのは普段の生活にも出ているのか、時々呆れたような視線をゼフからもらうこともあり、最近ちょっと気を引き締めようとしているくらいだ。
「そう、それはよかった。なら、今度のサンジくんの誕生日はちゃんと全員でできるのよね。なんたがあの子、私らが集まる時っていつもいないじゃない? 避けてるのかと思えばそうでもないみたいだし、なんかもう! じれったいのよ! 私達といるの大好きなくせに、無理しちゃって」
「ナミさん、それ本気で言ってる?」
 笑いながら突っ込むビビに、ニッと笑ったナミが当然と胸を張る。
「絶対あの子は私達のこと大好きよ。当然じゃない。あんだけルフィが懐いてるのが良い証拠よ。あいつはそういう所は間違わない。あいつ、脈なくても絶対諦めないけど、本気で嫌がったり困ってたりしたらまとわりつくだなんてしないもの。私の時にもそうだったけど。…だからまあ、ある意味腹立ったりもしたんだけどね」
 とこれには苦笑してナミは湯気の立つ紅茶を口にした。
 恋愛と友情とでは反応違ってもいいはずなのに、という言葉にしないナミの気持ちはなんとなく良く分かる。
「あんだけまとわりついてるルフィなんて久しぶりに見たもの。初めてサンジくんに会った時と同じくらいじゃない? サンジくんには餌もらもうって大義名分もあったけど。ゾロはねぇ、何もないもん」
「餌って…そんなそっけないナミさんも素敵だーv」
 発作のようにメロるサンジに、ナミははいはいと軽くいなす。
 何かあるから人を気に入ったり好きになったりするわけではない、けれど判断の基準にはなりやすい。そういう意味では、ゾロには目立つ技能も確かに何もないのだ。さらにかなりな年下ときている。
 けれど、ルフィのゾロへの気に入りようはそれらを跳ね返してあまりある。いっそ見事だ。
「ああなると相性なんじゃないかと思えるのよね。あの二人、根本的に似てるんじゃない?」
「…似てる…かな?」
 首を傾げたサンジと対照的に、ビビは吹き出した。
「そうかも! 根っこが似てる気がするわ」
「そうかなあ? 随分違うような気がするけどなぁ」
 本気で困惑しているサンジの様子に、二人の女性はころころと華やかに笑い転げた。
「そういう意味、サンジくんもあの二人の仲間だもんね。分からないのも当然かも! けど、多分今までで一番、ルフィとゾロは似てるわよ」
「皆似てるのよね。妙な所で真っ直ぐで、ちゃんと自分を持ってて。そういう皆の所、私昔から大好きだったの」
 鮮やかに笑うビビの結い上げられた髪が跳ねるのを見ながら、サンジは目をハート形にしつつメロメロととろけている。
 そんなサンジが、ふと目を見張り、少し慌てたように胸ポケットをさぐった。取り出したのは、薄い携帯。見れば着信なのだろう、イルミネーションと微かな震えがサンジの掌の上にあった。
「ちょっと御免」
 言いながら少しだけ二人に背を向けるようにしながら、携帯にでる。その慌てた仕草に、二人は顔を見合わせて笑いあった。
 普通の友人ならサンジは無視する。特に自分たちと会っている時には、それは顕著だ。
 それをせずに、わざわざ出るということは…
 ナミがわざとらしくサンジの携帯の方へ顔を寄せた。思わず間近になったナミの顔に、わはっ! とサンジが相好を崩したと同時、ナミは携帯に向かって声を飛ばした。
「ゾロー! 久しぶり! 今サンジくん借りてるわよー!」
「ナ、ナミしゃん…っ!」
 大急ぎで携帯を動かし、サンジは自分の耳に携帯を押し当てる。
「おう、ゾロ!」
 慌てたように声を出したサンジの向こうからは、沈黙が返った。
「…あ? ゾロ!?」
 再度呼びかけると、嘆息するような返事が戻ってきた。
 ナミとビビが面白そうにこちらを見ているのに気付いて、いたたまれずにサンジの口調もつっけんどんになっていく。
「んだ、なんか用か。今ナミさ…そう、今日は買い出しに付き合って…ああ、ああ? アホか、今日は家でって言ってあったろう…あ? 帰るよ。あ、何言って…おい、待てって! こらっ! マリモっ!」
 チッと鋭く舌打ちし、サンジは携帯を睨み付ける。
「あっんのやろう…」
「何? どうしたの?」
 ニヤニヤと笑いながら見つめてくるナミに、サンジは情け無い表情でへらりと笑った。
「いや、あのバカ。今日は夕飯家で食べるって言ってたのに、急にバラティエ行くからゆっくりしてこいって…アホか。帰るって言ってあったってのに」
「あら、じゃ、それを言いに電話してきたの?」
 ほんの少し考えるように携帯を睨み、サンジは小さく首を振った。
「いや、多分、今日のメニューを……」
 今日はなんとかいう学校の行事があって、昼まででゾロは帰ると言っていた。昼は弁当を置いてきたし、食べてから道場に行っても、今日は夕方には家に戻る予定だった。
 サンジは今日は1日休みだったので、久しぶりに夕飯も家で二人で食べるという話になっていたのだ。
 だから、食べたいものを帰ってから電話するようにと、そう朝言い置いてきたはずなのだ。
 律儀に電話してきたのだろうに、何故急に…とナミを見て、はっとサンジは立ち上がった。
「ごめん、ナミさんビビちゃん。おれ、ちょっと帰る。あんのクソバカに夕飯はきっちり食うように躾なおさにゃ!」
 息巻くサンジを、呆気に取られた様子で二人が見上げた。
 急いでテーブルの上を片付け出すサンジに、ナミが頬杖をついて改めて面白そうに見上げる。つい動きを止めて、そんなナミの姿に見とれたサンジに、ナミはにっこりと笑いかけた。
 にこやかなだけに、何かとても含んだような笑顔だった。
「サンジく〜ん。私達と夕飯しようとは思わないの?」
 え? と硬直したサンジに、隣でニコニコと見守っていたビビが吹き出す。
「ダメよ、ナミさん。からかっちゃ。Mrブシドーが待ってるんですから」
「…ビビちゃ…」
「ああ、そうよねぇ。すっごい大切な大切な養い子だもんねぇ」
「ナミさ…」
「正直言うとね。サンジくんがゾロをそこまで大切にしているって、聞いてはいたけども、帰ってきてからもなかなか信じられなかったのよ? 特に帰ってきたばかりで再会した時とかね。やっぱりウソップ特有の法螺が少し混じって大げさに伝えてたのかと納得したくらいだったんだけど。…でもそれも数回会ううちにあっさり翻っちゃった。サンジくんがゾロの面倒見てるの見たらもう降参。なんの冗談かと思ってたのに、ホントなんだもん。溺愛!」
 ケラケラと笑いつつも、とても嬉しそうな笑みをナミが零す。
 言葉もなく、何故か徐々に自分の顔が赤くなっていっていることに気付いたが、止めようがない。そういえば再会した時にもそんなことを言われた記憶があるが、あの時も顔が赤いのを指摘された記憶がある。
「なんで男嫌いなサンジくんが、あんなヤツの面倒見続けてられるのか、実は今でも不思議なんだけど?」
 とこれには、上目使いで問いかけてきたが、勿論答えられるはずもない。
 だらだらと冷や汗すら出そうになった中、サンジはナミから目を泳がせた。
「ふふ、実はね、それゾロ本人にも言ったことあるのよ」
 面白そうに言うナミに、ビビの方が驚いたような顔で問い返してきた。同じく、サンジの視線が一瞬でナミに戻る。
「…あいつ…なんて?」
 どこか掠れるような声で問うたサンジに、ナミは肩を竦めた。
「別に、なーんにも。そうするって一度決めたら手を抜かないヤツだからって。確かそんな感じのことを言ってたかな。なんかちょっと笑ってた」
 それがどんな笑みなのか、とても簡単に想像できた。きっと時々見せる満足そうな、あの笑みだったのだろう。
 何故かチリッと胸が痛んだ。あの笑みは、何故か思い返すだけで、サンジに焦燥感のようなものを抱かせる。
 フラリと外へと向かおうとした躰を押しとどめたのは、またしてもナミの言葉だった。
「あーんなナリで、態度もでかくて、自己中っぽいのに、あの笑い方は卑怯よねぇ。なんか言うこと聞いてあげなくちゃって思ってしまいたくなる」
「え?」
「って、私だって思ってしまうくらいだから、サンジくんがあいつをしょっちゅう子供扱いするのって、それもあるのかなって。で・も、いつまでも子供じゃないわよ、あいつ」
「そんなことないって。まだあいつは…」
 言いかけて思わず言葉が途切れたのは何故だろう。
 脳裏を過ぎったのは、年始めに見たDVDの映像といつも自分を抱き上げる、あの太い腕の感触。ぐわっと身の内をせり上がる何かに、サンジは思わず拳を握り締めて躰が震えそうなのを防ごうとした。
 だが、ナミはそんなサンジの様子に気付いた様子もなく、先を続けた。
「そう思うのは、サンジくんの自由だけどね。あのね、ゾロは普通からは程遠いわよ。それは分かってるわよね。その上で、中学生って年よ。女の子とは違うでしょうけど、あの年頃はやっばり多感な時期だし? ゾロは……」
 不意に、ナミは真顔になった。
「…襲われないようにね、サンジくん」
 何を言われたのか分からずに、間の抜けた顔になったのだろう、そんなサンジの表情の変化にナミが一瞬で相好を崩す。
ビビも吹き出して、二人してキャラキャラと笑い出す。
 その賑やかで明るい声を耳にして、サンジは暫く、え? え? と困惑を露わに立ちつくす。躰の力が抜けたのは分かったが、その分いたたまれなさが倍増した気がしたのは、多分気のせいではないはずだった。







2010.8.29




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