遠くて近い現実
[24]






 失敗した。
 携帯を握りしめたまま、ゾロは深々と吐息をついて背もたれにもたれかかった。
 ずるずると腰が落ちたが気にもせず、小さく唸る。
 ダイニングにあるテーブルの上には、一枚のメモ用紙が置かれていた。それには買い物に行くことが書かれていたから、てっきり夕飯か何かの買い物に行っていると思ったのだ。
 だからこそ、早めに終わったことを告げてもし近くにいるのなら、荷物持ちくらいできるかと急いで電話してみたのだが…。
 返す返すも失敗した。
 まさか、ナミと買い物に出ているのだとは考えもしなかった。
 そんな予定の話など聞いてもいなかったのだから、不可抗力と言えばいえるのだろう。が、それで納めていい話でもない気がする。
 今年に入ってからこっち、サンジと一緒にいる時間が増えて、とにかく楽しかった。
 二人してこの家で他愛ない話をしたり、喧嘩したり、すれ違っていた年末が嘘のようによく食事もするようになった。サンジが休みの日は、夕方から外に出でかけたりもした。
 珍しく買い物もしたし、色々と話もした。主にサンジの話を聞くばかりだったが、それは仕方ない。話題があるのはあちらの方なのだ。学校の話題か道場の話題しかない自分の話など、一つ二つすればもう話せることはなくなる。沢山のことを日々の中から見つけて、楽しそうに話してくるサンジを見ているだけでも、なんだか胸が温かくなるような気がして、ゾロは正直嬉しかったのだ。
 ……愛しかった、と言い換えてもいい。
 まるで、こんな日々が当然なんだという錯覚すら起こして、ここ一ヶ月は過ごしていた。
 要は二人でいる日々があまりにも楽しすぎて、自分は少し浮かれていたらしい。
 進歩のない話だ。確か以前にも、そんなことがあった記憶がある。まだまだ小さかったあの頃は、サンジに対する思いなど自覚どころか別の勘違いをしていたが。  ゾロの世話をするのは、サンジが自分で決めた義務のようなものだ。時折そんなことを口走って自分と喧嘩したりもしたことがあるくらいだから、それは了解している。
 それでも勿論嫌がってやっているのではない、というくらいの自惚れは持っていた。一緒にいれば、嫌々しているかどうかくらい分かるというものだ。ナミも以前言っていたが、サンジは嫌なことはしたがらないタイプだ。
 だが、それでも子供の面倒を見ると決めたサンジの決心が、嫌がらないというその何割かを担っていることも、ナミと以前話していて知っている。
 サンジの傍は、とにかく心地よい。
 美味しいご飯は出てくる、生活全般にわたって面倒は見てくれる。一緒にいる時間は少ないというのに、二人でいる時間がまるで全てだといわんばかりの気持ちになったりもしてくる。
 ある意味こんなのはまずい、と自覚してはいるのだ。
 誰かに依存するのは良くない。
 ゾロは苦い表情で目を閉じた。
 いくら幼かったのだと言っても、自分はそれで大敗しているのだ。忘れてはならないのに、なんで自分はこんなにバカなのか。
 分かっているのに、この生活を壊したくないとも思っているのだから我が事ながら質が悪い。
 もっと自分で自分のことは何でもして、サンジの負担にならないようにしなければならないのに、これでは真逆だ。
「……向き不向きはあるけどよ…」
 はあ、と盛大なため息をついたのは、どうにも苦手な家事を思い出したからだ。洗濯機などはなんとか使えるようにはなっていたが、基本的な家事となると、どうしてもサンジには適わない。当然かもしれないが、料理は壊滅的にできないゾロにしてみれば、料理を仕事にまでしているサンジは尊敬の対象だ。
 電子レンジで温める程度の自分では、とてもとてもサンジのようには行かない…と考えているあたり、コックと張り合おうとしている無謀さには気付いていないゾロだ。
 甘えるな、と自分に言い聞かせる。
 サンジを特別な存在なんだと自覚してからは特に、ゾロはサンジと一緒にいることが楽しいし、普通に嬉しい。
 今まで他愛なく傍にいたことをもったいないと考えてしまうくらい、ゾロはサンジと一緒にいることに喜びを見いだしていた。
 けれど、この感情はあまり感心できたものではないだろう。ゾロはまったく気にもしないが、サンジもそうだとは考えられない。
 サンジは立派に働いて、子供の面倒まで見ている一人の男だ。
 その養い子の中学生が何を言っても、世迷い事と取られるくらいならまだしも、自分の教育が悪かったのかと落ち込まれると最悪だ。考えただけで悪寒がしてくる。
 それでなくても、性別からしてゾロなど問題外だろう。それだけははっきりきっぱり分かる。
 特別な奴だと自覚しているのは、自分だけ。それでいいのだ。これは、ゾロという一個人が、ただ勝手に相手に向かって持ってしまった感情でしかないのだから。
 …まあ、ゾロにしてみても同性にそんな気持ちを持つことになるとは想像だにしていなかったのだが。
 けれど、サンジを特別だと思ってしまったのだから仕方ない。自分に嘘をつくことはゾロにはできないし、したくもない。
 迷惑に思われるのも困惑されるのも、本意ではないのだから、黙っていればいい。
 養い子としては、サンジは十二分にゾロを大切にしてくれている。
 嫌というほどそれは分かる。ほんとうは、それで十分のはずなのだ。
 だからこそ、サンジにはこれ以上甘えてはならない。
 対等になどなれないのだから余計だ。もしかしたら随分と先の話、未来という不確定要素の中では対等な立場になれる日がくるのかもしれない。
 けれど、それは今ではない。それだけは確かだ。
「遠いな」
 半ば憮然と呟いて、ゾロは苦笑した。
 分かっていても、つい甘えてしまう自分はやはり子供だという証のようなものなのだろう。
 強くならなくては。
 それは剣道のことだけでなく、生活全てにおいて、つまりは生きていくという全てにおいて、誰よりも強くならなくては。
 そうでなければ、誰も守れない。
 自分にかかわって、誰かが倒れるような、そんなこと二度とさせない。二度と起こさせない。
 強く。
 強く強く強く。
 自分にすら負けないように、ただ強く。
「うっし!」
 ぐっと握りしめた拳を大きく両手で振り上げ、ゾロは目を開けた。
「目指せ最強!」
 気合いを入れるように手を打ち合わせ、ゾロは立ち上がった。そうと決まれば、早く支度をして、まずはバラティエだ。
 腹ごしらえをさせてもらってから、筋トレをしよう。ナミと一緒なら、もういいととりあえずは伝えたのだし、帰ってくることはないだろう。きっとナミもサンジを引き留めていくだろうし。
 自由気ままにみえて、ナミがサンジを大切にしていることには気付いている。きっと、楽しい時間になるのだろう。
 サンジの楽しそうな顔を思い出せば、うっすらと笑みが口元を彩る。
 それでいい。
      それだけでいいのだ。
 微かに頷き、ふと自分が酷く汗くさいことに気付いた。
 結構口うるさいサンジは、道場帰りのゾロの汗くさいのを酷くなじる傾向があり、大概は帰ったら即風呂。というパターンに陥っている。道場にはシャワーなどという洒落た代物はない。風呂を借りることもできるが、師匠個人宅で風呂を借りるのはどうにもためらわれるので、大概は帰宅と同時に風呂に行くのが定番だ。
 そのままバラティエに戻る時には、厨房に行く前にゼフの部屋で風呂に入ることをたたき込まれている。こればかりは、清潔感を優先する厨房に行くのだから仕方ないだろう。
 今日は家に帰って風呂に入る前に、テーブルの上のメモに気付いて電話してしまった。
 失敗は仕方ない。やってしまったことを悔やむより、繰り返さないことを優先だ。
 やれやれとメモを片手で丸めてゴミ箱に投げ飛ばし、急いでゾロは風呂場へと向かった。


 防具の匂いはなんでこんなに取れないんだろうな。
 毎度のことながら、石けんを躰にこすりつけるようにして洗い流していると、遠くから何か音がしているのに気付いた。
 ん? と顔を上げ、最後の仕上げとばかりに頭から被っていた冷水を止める。やはり物音がする。
 そっと、ゾロは音を立てないように外に出た。
 リビングの方あたりから音はする。しかも台所の方にも気配がある。
 急いで躰を拭き、ゾロはタオルだけを腰に巻き付け脱衣所を出た。
 わざと音を立てて台所の方へと顔を見せるように覗き込むと、途端にいくつかの声があがった。
「おー、サービスいいわね!」
 という歓声のような賑やかな女性の声と、重なるように響いたのは、こちらはちゃんと驚いた女性の声。
 そして、
「ギャ      ッ、レディの前でなんって格好で出てきやがるーっ!!」
 というこちらは、思い切り絶望の野太いわめき声。
「あ? んだ、戻ってきたのかよ」
 拭ききれなかった雫を頭からぽたぽたと零しながら、ゾロが呆れたように答えた先には、サンジだけでなくナミとビビを含めた三人が立っていた。
 その三人が三人とも、無言でゾロを見つめてくる。
 その視線の圧力に、怪訝そうに眉根を寄せ、ゾロは「ああ」と納得したように苦笑した。
 自分では意識すらしなくなっているが、どうしても腹の前面を斜め切りにした傷跡は目立つらしい。三人が見ているのがその傷跡だと気付いて、ゾロは踵を返した。
「わりぃな」
 わざとひらひらと手を振って、脱衣所にとって返す。
 とりあえず、物音の主が分かったならそれでいい。どうして帰ってきたのかとか、疑問に思う所は多々あるが、それは後からでもまったく問題はないのだから。
 どこか淡々とゾロが脱衣所に戻るのを見送り、女性二人はチラリとサンジを見た。
 わなわなと悔しそうな顔で、ギリギリ歯を食いしばってるガラの悪い男が顔をうっすらと赤らめているというのは、どう受け取ればいいのだろう。
「えーっと、サンジくん?」
 ナミがとりあえずと声をかければ、はっとしたように振り返ったサンジはいつも通りだ。
 相変わらず素早い表情の変化だったが、どこか焦った様子はぬぐえない。
「ゾロ、育ってるわねぇ!」
 なのでわざとそう言ってみせれば、「うがーっっ!!」と面白いくらいにサンジは反応した。
「あっんのやろぅ! レディに対してなんって失礼を!! アンチマナーコースだ、八つ裂きだ! うっぎゃ    っ!!」
 頭を掻きむしって悶絶するサンジに、ビビがまあまあと困惑を隠さずにとりなす。
「あれくらい、どうってことないですよ。ルフィさんなんて、前は裸で風呂から出てきたことあったじゃないですか」
「そうそう、ウソップと二人して飛び出してきて、大笑いして外走り回ろうとして、近所の人達から盛大に怒られてたっけ…あれは恥だったわ…」
 思わず額を抑えて首を振ったナミは、当時のことを思い出したのかかなりな苦悩の色を滲ませた。
「つってもあれは、中学生くらいの頃の話で!」
「ええ、ですから、Mrブシドーだって中学生でしょう? なんてことないですよ…立派な体つきでしたけど」
 ははは、と笑いつつ答えたビビに、思わずサンジの動きが止まる。
「…え…そういうもん…? それで…いいんだっけ…? あれ? 犯罪じゃね? あれ?」
 ブツブツと呟きながら、思わず俯くサンジにナミが笑う。
「そんな風には、なんっか見えないけどね。あれが名誉の傷かあ、かなり立派よね! 一度見てみたかったのよ。まさか今日見られるとは、ラッキ! 騒がれるでしょうね、あれは」
 キャラキャラとはしゃぐナミの声に、憮然とした声が重なった。
「騒がれねぇよ」
 この寒い時期に、ランニングシャツにジーンズという季節感丸無視した姿に、ビビが寒くないかと咄嗟に声をかけている。それには平気だとしれっと答えつつ、ゾロは三人の前に歩み寄った。
「久しぶりー、ゾロ。今日はサンジくん借りててゴメンねぇ。お詫びに夕飯一緒しようと思って、サンジくん連れて帰ってきたのよ」
 あっけらかんと言いながら、ナミはダイニングの椅子を引いて座り隣の椅子をポンポンと叩く。
 ここに座れ、と言われているのだと理解してゾロは諦めた様子でそこに座った。いそいそとナミの向かいにビビが座り、しぶしぶといった様子でサンジが台所に立ってお湯を沸かし始める。
「気にしねぇで良かったのに」
「テメェがわけわからねぇ電話してくるから、ナミさん達にまで気を遣わせたんだよ! それがなけりゃ、もうちょっとお二人と楽しいデートをしてたっていうのに」
 ブツブツと零すサンジに、ゾロがビビとナミを見やる。ビビがニコリと笑って、小さく荷物を目線で示した。
「今日はバレンタインの買い物に付き合ってもらってたの。ゾロくんの分もあるから、期待しててね」
「もったいなくも、こんな美女二人からそれぞれもらえるんだから、三倍返しは基本よぉ」
「…恐ろしいぼったくりだよな」
 しみじみと呟くゾロに、二人の美女が笑う。
「学生相手に、三倍返しを期待するなよ」
 ため息混じりに受け答え、ゾロは不機嫌そうに煙草を取り出しスパスパと吸い出したサンジを不思議そうに見た。
「電話したのは悪かった。けど、おれはバラティエ行けば済むことだ。気にする必要ねぇって言ったろう」
 そのなんでもないことのような言い方に、カッとサンジの目が見開かれた。
「んだとぉ! 何言いやがるっ! ガキが一人で食事するって言うのを見逃せる程、おれは放り出してないんだよ! 今日のバラティエは貸し切りが入ってるから、賄い時間も早いんだっ! お前一人を煩わせるわけにはいかねぇだろ、おれがいないのにっ。事情も知らずにガタガタ抜かすなっ」
「ちょっ、サンジさん」
 どこか顔を赤くして言い募るサンジは、自分で何を言っているのか半分は理解していないのかもしれない。
 ここに戻ってくるまでにも、さんざんナミ達からゾロのことを甘やかしているだの大事にされてるだのとからかわれ続けて戻ってきて、留めにゾロの出迎えとこれだ。
 半分切れているのだと分かっているからこそ、笑って止めようとしたビビとナミに、ゾロは生真面目な顔で姿勢を正した。
「そうだったのか、知らなかった。すまん、なら頼む」
 微かに頭すら下げて頼んだゾロに、思わずビビの言葉が止まる。
「わ、分かれば良いんだよ。最初からそうやって素直に頼んでればいいんだ、遠慮とかする方が……」
 言いながらシンクに向かうサンジをゾロは真っ直ぐに見ている。
 サンジの首筋が赤くなっているのに気付いて、こっそりため息をついたナミは真っ直ぐな視線を注ぐゾロをみやってわずかに瞳を細めた。
 そうして、なんだか苦いものを飲んだような目でゾロとサンジを見やるビビに気づき、目を見交わす。
 何かが大きく歪んでいる。もしくは歪んでいっている。
「あの、サンジさん…」
 問いかけたビビに、いつも通りのサンジがハートを捲き散らかして返事をかえしてくる。ゾロはそれにやれやれとため息をつき、席を立つとソファの方へと移動して座り込むと置いてあったプリントの束らしきものを広げ出す。多分学校か道場かの課題のようなものなのだろう。
 もう、いつもの二人の姿だ。そこに今起こったことを蒸し返させるような、そんな空気は微塵もない。
 言葉を続けることもできずに、黙り込んだビビを飲み物が欲しいと勘違いしたサンジが、慌てて用意に走る。
 この切り替えの早さはなんなのだろう。いつもこの家の中は、こんな風なのだろうか。
 困惑も露わに沈黙せざるを得ないビビをそっと目線で押しとどめ、ナミが頷いてみせる。ビビも小さく頷きかえし、ゾロを見た。
 どこか超然としてるようにさえ見えるゾロは、まったく普段通りに見える。
「二人とも、今夜はゆっくり愛の料理を堪能していってねぇえ!」
 ハートマークを飛び散らかし、楽しげに料理を開始するサンジを、ナミとビビは諦めたように見つめ続けた。


 人数が少ない分、落ち着いてはいるがそれでも賑やかな晩餐を終えると、二人は早々に帰宅すると腰を上げた。
 まだゆっくりしていってよ、と懇願するサンジをやんわりと断り、デザートまで堪能した二人は家主達に礼を言って玄関へと歩いていく。
 後かたづけを命じられて、シンクに立ったゾロがその場から二人の挨拶に返事をかえした。
 そのまま見送りに立ったサンジを見ることなく靴を履いていたナミは、唐突に小声でサンジを呼ぶ。その声音に含まれた真剣な響きに、なんとなくサンジは居住まいを正すようにナミを見下ろした。
「サンジくん、ちゃんとゾロと話した方がいいわ」
 え? とまったく分かっていない様子で目を見開いたサンジとは対照的に、ナミの隣でビビも頷いている。
 そういえば随分と前に、ビビにも似たようなことを言われた記憶がある。けれど、いったい何を差してそう言っているのか。咄嗟に分からずに、困った様子で二人を見れば、呆れたようにナミが大きく息を吐いた。
「なんか色々と私、理解が足りなかったのかもしれないわ。余計なことして、ゴメン」
「え? ナミさんが謝るようなこと、何もしてないよ。ど、どど、どうしたの!?」
 本気で分かっていない様子で慌てるサンジに、ビビが微かに目を落とす。
「サンジさん、Mrブシドーは中学生なんです」
「う、うん。知ってる」
「なら、もっと…もっとMrブシドーのこと、見てやってください。ちゃんと見た方がいいです。複雑な年頃だけど…それだけじゃなくて…きっと、Mrブシドーは…私達が考えるよりも潔いのかもしれない」
「そうね。そうかもね。ビビの言う通りかも。サンジくん本当に分かってる? もっと素直にゾロと話した方がいい。そうでないといけないんじゃない?」
 ナミはそう言うと、そっと背後の廊下の奥を、ゾロがいる方を見やった。
「やっぱりあいつは、ルフィに似てるのよ。それもト・コ・ト・ン! 下手したら同じ感覚で!」
「えーっと…二人とも…何が言いたいのか…」
 さっぱり分からないと正直に首を振るサンジに、呆れたようにナミが目を半眼にした。
「これだから男って。…いい? ゾロは多分、ただの真っ直ぐすぎる…バカなのよ! それを忘れちゃダメ!」
 言い放つナミに、ビビが思わず納得といった様子で頷く。
 それにただ、どう返していいかも分からず、サンジは乾いた笑いを貼り付けたまま二人を見送ったのだった。







2010.9.11




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